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*【#政治】「現代日本の右傾化とは何か? -- 馬鹿が戦車でやって来る」

… さて、前任者たちよりは多少は見識があると思われていた岸田首相は、単に「漢字が読めるアベ」に過ぎなかった。

教育や福祉には「財源がない」のに、次々と他の予算が転用される防衛費は、世界第三位の軍拡を目指し、浜田靖一防衛相「防衛産業を魅力的なものにする」という発言には驚かされる。

結局、岸田首相の唱える「新しい資本主義」とは、格差を広げ、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の物象化を促進し、アベノミクスの悪いところを凝縮し一部の富裕者にだけ富を集中化させ、国民の大半を貧困化させるものに過ぎなかった。

政権与党の自民党は、おおむね経済派・実務派・イデオロギー派の三つで出来ており、経済派とイデオロギー派は一見真逆の主張をするが互いに補い合っている。

かつて稲田朋美元防衛相が「TPPバスの終着点は日本文明の墓場」と言いながら、いつの間にか推進派に転向したように。

イデオロギー派は実体経済とかけはなれている。

二〇前半までの産業資本主義では、さまざまな商品や製品を生産して行く資本が国家と結びつき、資本の挙げる利益が国家の利益に繋がり、国家がその利益を再配分することによって国家の安定が図られてきた。

ところが交通と遠隔地通信手段の発達によって世界が緊密に結びつくようになるとこうしたシステムが崩壊し、中心的な企業が多国籍企業化すると、自国内の労働力が高ければそれを使わず他国に出て行って安い労働力を使いつつ世界の経済競争に勝とうとする。

◆ 現在の〈右傾化〉は単なるナショナルなものの復活ではない

中曽根元首相がレーガノミクスを称賛した一九八〇年代が重要な転換点であり、多国籍企業は、この市場原理を中核として「小さな政府」を要求し、小さな政府では、こうした新自由主義的な構造改革を維持するために国外との貿易の自由を原則とし、国有という形で国民の手中にあったものをあえて外国資本に売り渡すことが国家の役割になる。

かくして、現代の日本では水道事業のような基幹産業さえ外国資本の参入が当然となる。

もちろん、当初の入札の際は各企業の安売り合戦によって価格は下がるが、やがて勝者が決まると自由に価格を設定できるようになり、いわゆるモノポリーという状態で、国民は以前より多い出費を余儀なくされる。

このように資本と企業によって世界中が食い潰されて行くと、富めるものと貧しいもの、そして富める国と貧しい国の格差はいよいよ広がり、中産階級は空洞化して没落し、そのわけもわからず貧しくなって行く「寄る辺なさ」こそ、実体のないナショナルなもの生み出す源泉なのである。

ピノチェト時代のチリから始まる新自由主義的な構造改革は、先進各国に一種の監視社会を形成した。

それは、この新自由主義がめざす自由市場の原則に忠実な適応が自然に行われることは不可能であるからで、この秩序やシステムを危機にさらす要素を排除するため予算が肥大し、その予算は外敵に対する国防のための軍事だけでなく、国内では警察を通して国民について発動される。

したがって、現代社会で〈右傾化〉と呼ばれているものは、従来のようなナショナルなものの復活ではなく、徹底して実体のないナショナリズムのイメージを反復することによって没落する中産階級を慰撫し、自分たちのよって立つ足元を切り崩す大資本の共犯に仕立てるための大がかりな欺瞞装置なのである。

アベノミクスとは、レーガンと昵懇だった中曽根首相の時代の新自由主義的な構造改革の国家資本主義による先鋭化であり、この挫折を運命づけられた体制は、国民の愚鈍な無気力に相まって、ましなことを考えている人間を間断なく程度の低い隷属者に堕落させる奇怪な詐欺装置だった。

こんなひどい政治が続けば、恋愛という言葉からロマンティックな含意は剥ぎ取られ、結婚は「源泉徴収票の交換」となり、教育は「将来の見返りを期待した先行投資」と見なされ、やがて日本は、コンビニとサラ金とツーバイフォー建築だらけの画一化されたのっぺらぼうの街だらけになるだろう。

寒空の中、街中にはホームレスが激増している。

とりわけ、新宿や池袋といった東京の大きな駅周辺に多い。

通勤を急いでいた私は、ある日白髪のホームレスを見かけ、キオスクに引き返し、おにぎりとお茶を持って行った。

すると、その老人は立ち上がり手を合わせ、動揺した私は涙がこぼれた。

反日カルトと結託して集票し選挙に勝って来た自公政権を打倒し野党連立政権を成立させない限り、際限のない〈格差〉を生むいびつな社会を解消することはできない。

なぜなら、社会の安定と国家の発展は、分厚い中間層の再建抜きにはあり得ないからである。

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