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*【#沖縄戦】「小池勇助軍医少佐 – 知られざる最後のサムライ」

... 小池軍医は長野県佐久市野沢出身で予備役招集に応じ沖縄戦に参加した。

第24師団第二野戦病院山3487小池隊の隊長として、積徳高等女学校の生徒たちで構成された「ふじ学徒看護隊」を預かっていた。

もはや日本軍の敗色濃い1945年6月26日に、小池勇助軍医隊長は、ガマと呼ばれた壕に集まっていた女生徒たちに、以下のような解散命令を出す。

「皆さんの長い間の協力に感謝する。止むなく本日をもって学徒隊の解散を命ず。壕を出る時は多人数で出ると敵に発見されやすいから、2、3名ずつ組になって出て行きなさい。敵は民間人は殺さないから手をあげて出ていきなさい。決して死んではいけない。兵隊はもとより死を覚悟して歓呼の声に送られてきたのだ。あなた方は前途ある若き女性である。これからの日本の国を担って行く任務があるのだ。死ぬことだけがお国に尽くす道ではない。必ず生きて親元に帰りなさい。そして悲惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」

後から小池軍医も壕から出て来ると思っていた一人が壕に戻ってみると、そこには一人で息絶えた軍医の骸があった。

小池軍医は、辞世の句を残していた。

「南の孤島の果まで守りきて御縦となりゆく吾を沖のかもめの翼にのせて黒潮の彼方の吾妹に告げん」

「いま南の沖縄に赴任して祖国防衛の任務に就き心ならずも死に行く自分の無念を、黒潮に乗る沖のかもめが故郷にいる妻に伝えてくれるだろう」という意味だ。

ふじ学徒隊の生徒たちは、自分たちを救うために犠牲となった「小池先生」を追慕し、後にお金を出し合って立派な追悼碑を建てた。

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