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*【#文化】「ユダヤ人とは何か?」

… これは「日本人」とは何か問われた場合とは異なる困惑をもらすだろう。

どのような観点から定義するかにもよるが、日本は国名でもあるので、日本人とは「日本国籍を有する人」とでもしておけば、それは誰もが否定できないだろうし、事実これは、『広辞苑』(第6版)の定義である。

しかし、これが「ユダヤ人」となると、事態はそう簡単ではない。「ユダヤ」とは、もちろん国名ではないし、国籍を意味しない。

先の『広辞苑』の定義では、「ユダヤ人」とは以下のようなものである。

「Jew(ヤコブの子ユダ Judah の子孫の意)ユダヤ教徒を、キリスト教の側から別人種と見なして呼ぶ称。現在イスラエルでは、「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ徒」と規定している。十字軍以降、ヨーロッパのキリスト教徒の迫害を受けた。近世、資本主義の勃興とともに実力を蓄え、学術・思想・音楽方面にも活躍」

 ユダヤ人とは「人種」ではないので、その点は誤っているが、ユダヤ人を「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」ととらえるのは広く流布した考え方である。これは、ユダヤ教正統派のハラハー(ユダヤ教法)解釈にもとづく定義であり、1970年3月に改訂されたイスラエルの「帰還法」にも反映している。

「帰還法」という発想自体は、イスラエルの約四分の一を占める、ムスリム、キリスト教徒、さらにドルーズ(イスラム系シーア派起源の宗教共同体)などを度外視したものであり問題含みであるが、「ユダヤ人=ユダヤ教徒」というのは明快な定義であり、たとえ日本人でもユダヤ教の教義を勉強し、割礼など一定の手続きを踏めば「ユダヤ人になる」というわけである。実際、旧約学者のアブラハム小辻こと小辻節三(1899-1973)や、最近では国際弁護士の石角完爾などのように、「ユダヤ人になる」ことを選択した人物も少数ながら存在する。

この定義は明快ではあるが、これは誰でも何らかの信仰を持っていることを前提とした発想であり、現在のように世俗化が進んだ社会では必ずしもうまく機能しない。それに、こうした宗教的帰属を基準にしてしまうと、プロテスタントに改宗しているハイネやマルクス、さらにはカトリックに改宗した哲学者でノーベル賞受賞者のベルグソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941)なども「ユダヤ人」ではなくなってしまう。

それでは、「ユダヤ人の母親から生まれた子供」という血統にもとづく定義はどうだろうか。「ユダヤ人の母親」のユダヤ人たる根拠は、もう一世代前の「ユダヤ人の母親」を前提としており、こうした発想をさかのぼって行くと、それこそ万世一系の母系ユダヤ人の系譜をたどらなくてはなくなってしまう

しかし、「ユダヤ人の中のユダヤ人」とも言うべきかのソロモン王ですら、「パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した」(列王記4上、11-12章)のだから、そのような出生証明が可能か否かは自明であろう。

「ユダヤ人の母親から生まれた子供」という血統にもとづく定義は、両義的な問題を含んでいる。周知のように、イスラエル建国(1948)は、歴史的にナチスによるホロコーストに後続している。1935年(昭和10年)11月24日に制定されたナチスによる「帝国市民法第一次施行令」のいわゆるアーリア条項によれば、4人の祖父母のうち1人がユダヤ教共同体に所属している者は「第2級混血」としてユダヤ人と見なされたので、カトリックやプロテスタントに改宗し、当人に自分が「ユダヤ人」という意識がない同化ユダヤ人まで迫害や虐殺の対象となった。だから、帰還法には、「ユダヤ人」という自己意識がなかった者までも含み、迫害や虐殺の対象となった者を救済しようという意図が読み取れる。しかし一方、「ユダヤ人の母親から生まれた子供」を根拠とした生物学的決定論は、悪しき敵として糾弾する人種主義そのものを再び呼び込みはしないか、あるいは無警戒すぎないかという懸念も払拭できない。先に「両義的」問題といったのは、そういう意味である。

ともあれ、この二つの立場は、「ユダヤ人である」ということを血統とか血縁などといった閉ざされた体系のなかでとらえようとする立場と、広く誰もが「ユダヤ人になる」ことができるという普遍主義的な立場を折衷したもので、大きな矛盾をはらむ便宜的なものであることは否めないだろう。

そこで『広辞苑』の編者は、「十字軍時代以降、ヨーロッパのキリスト教徒の迫害を受けた。近世、資本主義の勃興とともに実力を蓄え、学術・思想・音楽方面にも活躍」などと、歴史的・文化的定義を付け加える。しかし、この後半の定義は、ユダヤ人ではないオランダ人や英国人にも当てはまりそうであり、何かとってつけたような印象を受ける。

興味深いのは、前半の「キリスト教徒」との対比であり、われわれが「ユダヤ人」について考える上で示唆的である。

◆  キリスト教徒とユダヤ人

キリスト教の「新約」聖書を見ると、「ユダヤ人」という語が186回も出てくる。「新約」は「旧約」の三分の一の分量しかないのに、「ユダヤ人」という語がその倍の以上の比率で出て来るのである。この異様さは、新約記者の多くがユダヤ人であり、聖書のほとんどの部分がユダヤ人によるユダヤ人に関する物語であるにもかかわらず、自分たちがまるでその集団に属さないように「ユダヤ人」に言及される異様さであろう。

新約聖書の初めの部分は、一つの連続する物語構成になっている。最初にイエスの生涯を記した福音書と呼ばれるものが配置され、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネというその記者の名前が冠されている。そして、それに続いてイエスの弟子たちの布教が描かれた「使徒言行録」と信徒への手紙などが続き、全体として初期のキリスト教徒の共同体がどのように形成されたかがわかるしくみになっている。

この「使徒言行録」と書簡のなかで繰り返し「ユダヤ人」との論争の種となっているのが「割礼」をめぐる問題である。ユダヤ人の男児は、生まれてから八日目に割礼の儀式を受ける。割礼とは性器の表皮を切り取る儀式であり、ヘブライ語で「ブリット・ミラー」と呼ばれる。「ブリット」とは契約を意味し、神とアブラハムの間にかわされた契約を示す。ユダヤ教徒の男児にとって割礼とは、ユダヤ人の証しを身に帯びる大切な日であり、この割礼によって正式なユダヤ教徒の一歩を踏み出すとされる。

さて、パウロをはじめ初期の使徒たちの多くがユダヤ人であり、彼らはすでに割礼を受けているので、こうした幼児期の宗規上の儀礼は問題にならなかった。しかし、キリスト教の教線がローマ帝国領の地中海世界に広がっているにつれて、ユダヤ教という背景を持たずにイエスの教えを受け入れる人々が増加し、そこであらためて割礼の有無が問題になったわけである。

これは簡単に解決できる問題ではないので、エルサレムで使徒会議が開かれ、パウロたちは、パリサイ派から信者になった人々から、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と糾弾されて窮地におちいる。これに対して、パウロは、ローマ人への手紙のなかで、「割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされる」という立場を明確にし、「文字ではなく『霊』によって心に施された割礼こそ割礼」(2章29節)と断言し、さらに「神はユダヤ人だけの神」ではなく「異邦人の神でもある」として、割礼の有無に関係なく、「信仰によって義」とされると説き、ユダヤ教の伝統的形式との分離を宣言する。

このようにして、キリスト教がユダヤ教から離脱したわけだが、その際に「ユダヤ人」が「異邦人」と対比されて否定的契機としてとらえなおされ、以後キリスト教は、「ユダヤ人」と、キリスト教徒ないしキリスト教徒となるべく予定された「異邦人」という二種類の人間分類に没頭してゆくことになる。

◆  聖書の「ユダヤ人」の含意

パウロは、「神はユダヤ人だけの神」ではなく「異邦人の神」でもあると主張したが、後のキリスト教は、この二分類を等価のままにしておくことはしなかった。それが、もっとも劇的なかたちであらわれるのが、ローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトの前に引き出されてきたイエスを糾弾する群衆の描き方の変化である。

よく知られているように、イエスの有罪を確信できない総督ピラトが、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」としたのに対して、「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』と答えた、マタイは描く。そしてマルコは、応答した民を「群衆」と述べ、マタイにもルカにもほぼ同じような記述が見られる。

そして、三つのいわゆる共観福音書がイエスを十字架につけろと叫ぶ人々を「群衆」としているのに対して、ヨハネは、この「群衆」を「ユダヤ人」と書き換え、イエスの殺害を促す群衆をこう描いた、「ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです』」(19章7節)。

イエスの死の責任を負うべき「群衆」が福音記者ヨハネによって「ユダヤ人」と書き換えられて新たな輪郭を与えられた意味は重大である。もちろん、イエスもその家族も、使徒たちも、またルカを除けば福音記者自体もユダヤ人なのだから、福音書における「ユダヤ人」とはユダヤ人一般を指しておらず、もちろん民族主義的な含意もない。

最初の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には共通する記述が多く、18世紀のドイツの聖書学者グリースバッハ(Johann Jakob Griesbach, 1745-1812)らによる聖書研究の結果、テクストを相互に比較し一覧表にした「共観表」(シノプシス)が作られたことから「共観福音書」などと呼ばれる。マルコがもっとも古く後続の二つの福音書は、いわばその書き換えなので、内容が似ている。福音書のなかで、ヨハネがもっとも後に書かれたものであり、初期のキリスト教集団がユダヤ教との厳しい対立をした時期に書かれているので、古拙をとどめる共観福音書とは異なり護教論的色彩が強い。またその内容も難解で、最初の神学書の趣があるので、神学者のなかでもヨハネを研究する者に限って「ヨハネ学者」という言い回しがある。

そのヨハネ学者の一人であるマーティン・ルイスは、ヨハネ福音書における「ユダヤ人」の特異な含意に関連して、会堂から追放された初期キリスト教徒たちの追い詰められた状況に注目する。神殿を失ったユダヤ人たちは、パリサイ派の指導のもとに統合を図ろうとし、その際に妨げになるナザレ派異端(キリスト者共同体)を正式に破門した。1896年に発見された会堂における祈願文には、「ナザレ人たち(キリスト教徒たち)とミーニーム(異端者たち)は瞬時に滅ぼされますように」という呪い文言が含まれ[i]、ユダヤ人キリスト者たちはもはやユダヤ教ナザレ派としては存続できず、新しい信仰集団を立ち上げなければならないような切迫した事態に追い込まれていたのである。ヨハネによる福音書のなかの「ユダヤ人」という言葉に否定的な含意があるのは、こうした歴史的背景を考えないとわからない。

しかし、後代の反ユダヤ主義たちがその根拠を聖書に求める場合、ヨハネ福音書の「ユダヤ人」がユダヤ人一般として頻繁に引用されるようになってしまった。そして、イエスの死をめぐり誰に責任があるかという聖書が提起した問題は、今日まで持ち越されて物議を醸すことがある。

 ◆ オーバーアマウガウの受難劇

 十年ごとにイエスの最期を扱う受難劇が行われてきた、アルプス山麓にあるドイツ・バイエルン州の小さな村、オーバーアマウガウの例を挙げてみよう。

これは、ペストが猛威を振るった17世紀に村人が十年おきにイエスの受難劇を上演することを誓い疫病を沈静化させたという伝説にもとづくもので、村民全員が参加して上演に六時間もかかる、世界最大規模のキリスト教受難劇である。

2007年(平成19年)7月22日、NHKが『アルプス山脈 祈りの大舞台 –– 350年守り続けた村の誓い』と題する特番で、オーバーアマウガウの受難劇を紹介した。この2000年(平成12年)という年に特番が組まれたのは、1930年代にはヒトラーも観劇に訪れてナチスの反ユダヤ主義に利用しようとしたこの受難劇に対して、この年、ユダヤ団体から台詞の再検討の申し入れがあったからである。これに対して、ミュンヘン大学神学部のルードヴィヒ・メーデル教授らの努力によって、カトリック側とユダヤ人側の解釈の溝が埋まるようになった。これは、カトリック教会から反ユダヤ主義の残滓を払拭しようとした前ローマ法皇、ヨハネ=パウロ2世の尽力を背景としたものであり、2011年(平成23年)に刊行された『ナザレのイエス』の第2巻において、現ローマ法皇・ベネディクト16世(Joseph Alois Ratzinger, 1927-)も、イエス・キリストの死に関するヨハネ福音書のなかの「ユダヤ人」という表現が「イスラエルの民一般を指すものではなく、いわんや『人種的』含意などない」[ii] と、ユダヤ人全体が責任を負うとの見方を明確に否定し、ユダヤ人団体などが歓迎していることが世界中に伝えられた。

「十字軍時代以降、ヨーロッパのキリスト教徒の迫害を受けた」という『広辞苑』の定義に見られるように、これまでユダヤ人は、「ユダヤ人」を否定しようとするものを媒介に定義されてきた。この不可思議な定義ならざる定義は、「ユダヤ人」の名付けがたい特異な立ち位置を暗示している。

あらゆる定義をすり抜けてしまう「ユダヤ人」に関しては、ユダヤ教徒という宗教上の区分以外には、ユダヤ人への偏見が解消されない限りは、「自分をユダヤ人と考えている人」、及び「他人から『ユダヤ人』と呼ばれている人」すべてとでもいうしか仕方がない。



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