*「日本の大学になぜ2年間の教養課程があるのか?」(児美川孝一郎/法政大学教授)

*「日本の大学にはなぜ2年間の教養課程があるのか?」(児美川孝一郎/法政大学教授)

「しかし、これでは、教育課程としての教育上のまとまりがどう担保され、個別の科目ではなく、課程全体としてどのような学習成果を生むことになるのかは、はなはだ曖昧なのである。学生の側からすれば、テレビ番組を次々と見せられて、確かに幅広い情報を得ることはできるかもしれないが、番組どうしのつながりや脈絡はいっさい示されないといった状態である。番組自体の内容が特段に面白ければ別であるが、多くは、興味そのものを失ってしまうのではないか」

これほど徹頭徹尾間違った考え方はない。

児美川は、「最高学府である大学は、「精神なき専門人」(M・ウェーバー)を生み出すような場であってはなら」ないと言う発想から教養課程が生まれたといい、また古典を通して人格を陶冶するエリート教育に淵源を持つとし、ここまでは正しいが、「戦後、進学率の上昇とともに次第に大衆化した新制大学の学生には、十分な訴求力を持つことができなかったと見なくてはならない」というのは、まったく間違っている。

これでは、顧客の需要の変化に合わせて品揃えを変えましょうというコンビニに変わりない。

◆「人文・社会・自然科学と外国語の必修」は偉大な教師

試験で何点、偏差値がいくつ程度の学問理解しかない高校生に関して「特段に面白ければ別であるが」とは噴飯物である。そもそも大学とは、子供が考える「面白い」とは別種の「面白い」を考える場所なのだ。

児美川の指摘の2つ目の誤りは、戦前のエリート教育から戦後の大衆教育に変わっても、人格陶冶という教育目標は変わっていないことを理解していないことだ。

人文・社会・自然科学と外国語の必修とは無意味に設置されたものではない。

こうした括りがなければ、ほとんどの学生は「低きに流れ安きにつき」、先輩から聞いた「単位の取りやすい」科目、自分が得意で簡単に思える科目、あるいは実利的な科目に集中するだろうし、事実そうなっている。

人間は誰しも弱いものだから、「自分の好きなもの」「自分の得意なもの」に偏り、なかなか幼児的万能感を克服できない。

人文・社会・自然科学と外国語の必修は、将来の自分の職業や専門、あるいは直近の実利に偏することなく、他者や他業への尊敬心を養い、いよいよ多様化とグローバル化する社会の中で、共同体の一員としてより良く生きるための方途を摸索する最初の課題なのである。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56049

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