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*「父への旅 – 生き残った特攻隊員の戦後」(16)

…「今後親に世話にならない」と見栄を切ったものの、四国の山村から大阪という都会に出て来た父は面食らった。
 
予科練から新制高校の最終学年を経て、釣り糸を作るテグス会社の臨時雇いとして学費を稼いでから大学に入学したので、もう二十六歳になっていた。
 
当時の国立大学は学費が安く、国立大の授業料は 6,000 円、入学料は 400 円程度だったが、初年度納入金のほとんど 1 万円以内であったが、これは当時の会社員の初任給よりやや高かった。

何とか入試と入学費用は用意してきた地が、下宿先を見つけ生活費を捻出するのが一苦労だった。
 
とにかく、新学期が始まったらすぐに大阪の現住所を大学に知らせなくてはならない。そこで父は無住の神社を見つけ、その高い床の土間に毛布を敷いて寝泊まりして一か月間雑業に就いて何とか下宿先の手付金を捻出した。

下宿は大阪旭区の赤川町にあった。

 そして、その下宿のおばさんに「アルバイト先はないか」と尋ねると、「それなら製材所はどうや?重い材木を扱うんで、男手が集まらんで困っとるそうや」と言われ、二つ返事で引き受けた。
 
とにかくキツい仕事なので、これはかなり高額のバイトになった。
 
その時は思いも寄らなかったが、この製材所が父を窮地から救った。
 
◆ 朝鮮戦争と枚方事件
 
予科練の特攻隊帰りの亡父は、とにかくアメリカが嫌いだった。
 
特に、戦時中は若者たちを死地に送り、戦後はアメリカに寝返った岸信介首相を「汚い裏切り者、アメリカの手先」と、蛇蝎のように嫌っていた。

戦前生まれの人間には珍しく、父は天皇に関してほとんど語らなかった。しかし、昭和天皇とマッカーサー元帥が並んで立っている有名な新聞記事に関して、「見たくなかった」と私に言っていた。

さて学生時代に、父はあやうく有名な「牧方事件」(1952年)に巻き込まれるところだった。
 
当時の共産党はまだ武装闘争を放棄したいわゆる「六全協」の前だった。

1955年に行われた「六全協」つまり第六回全国協議会で、日本共産党は、それまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議したが、父の大学時代はそれ以前で、各大学にも、中央からの指令が途切れても活動を保ち、自己増殖し、やがて組織を再生できるという意味合いの「細胞」が存在し、コミュニストの学生が多くいた。

父は、その学生の一人から「いっしょにデモに来んかいな?」と誘われた。
 
父は左翼でも何でもなく、どちらかというと伝統主義的な人だったが、そのアメリカ嫌いを見込まれた。「そりゃ、どんなデモじゃ?」と尋ねると、「朝鮮戦争の米軍に抗議するデモじゃ」と言われ、とにかくアメリカが嫌いな父は「そりゃ、行っちゃろ、行っちゃろ」と安請け合いした。
 
しかし、幸か不幸か、その前日アルバイト先の製材所から「人手が足りんで困っとる。悪いが明日来てもらえんか?」と電話で言われた。
 
そこの給料がないと学費が払えないので、父は製材所の仕事を優先した。
 
そして、次の日の新聞を見て、「枚方事件で大量検挙」の報を知りびっくりした。
 
学友たちが収監されている留置所に差し入れに行くと、なぜか一番威勢よく反米を煽っていた学生だけがいなかった。
 
わけを聞くと「騙されとった、あいつはアジテーター(扇動者)やった」との答え。
 
偽装入党し内部から挑発し暴発させて逮捕という戦前の特高警察のやり方を戦後の公安も踏襲していたのである。
 
左翼でも何でもない父から、私は「細胞」「マヌーバー」「アジテーター」などの用語を教えてもらった。

「マヌーバー」とは、元々はフランス語に由来する言葉で、術策や謀略を意味する左翼用語である。

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