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*【治安維持法下の日本】「昭和の宗教弾圧 -- ホーリネス教会弾圧とシオニスト軍人安江仙弘」

ちょうどヴァルハフティクが「杉原ビザ」で来日した1940年(昭和15年)の秋、国際文化振興会と文部当局は、友好親善と文化交流のために、東大教授の田中耕太郎(1890-1974)を仏領印度支那に派遣しようとしていた。著名なローマ法学者の田中は、当時法学部長であり帝国学士院会員にも選出されており、申し分のない人選であった。

しかし、この派遣決定に対して一部東大学生等より反対運動が起こり、11月17日、吉田房雄名義で「対佛印文化工作崩壊の危機 – ユダヤ的國體兇悪思想の宣伝に狂奔し来れる、神社参拝忌避カトリツク盲信者、田中耕太郎氏の佛印交換教授派遣が齎す重大禍害を指摘警告す」と題する文書が頒布された。この文書によれば、「氏の思想には日本人らしき何物も認むることを得ず、実に英米ユダヤ的抗日意志の露骨な宣言のみ」であり、「国家民族の存在を邪魔物視する所のカトリツク教会、ローマ法王に忠誠を誓ふ如き国際的ルンペンが、昭和の聖代に横行闊歩すること」は国辱の極みであり、「徳川幕府すら猶ほ、斯くの如きキリシタン・バテレンを処断したり」とあった。
 
現代の読者が読めば、授業をしょっちゅうサボり映画館でチャンバラ劇にうつつを抜かしている不良学生のジョークだと思うだろうが、当人は至って真面目に述べてるらしく、そこが恐ろしいところである。
 
この吉田房雄は、「精神科学研究会」に属す右翼学生なのだが、まがりなりにも第一高等学校から帝大法科に進んだ学生なので、当時の日本社会では平均以上の教養ありと見なし得るだろう 。その帝大の学生すら、ユダヤ人にもキリスト教にもまったく知識がないのである。キリスト教からユダヤ教へと「純粋な形での一神教を追い求めてい」た「日本のインテリ」など、後にも先にも小辻節三一人しかいない。
 
ヴァルハフティクらユダヤ難民たちがウラジオストックから敦賀の港に渡り、さらに神戸にたどりついた時に、旧ホーリネス教会の信者たちがこれを援助したという話が、中日新聞社会部でまとめられた『自由への逃走』(1995)所収の「ミナト神戸 援助の輪」の記事に載っている。
 
1940年(昭和15年)の初秋、兵庫県尼崎市の教会に、突然黒っぽい服装をした外国人がやって来た。その男は、神戸のユダヤ人協会の会員で、「日本の通過ビザを得たポーランドのユダヤ人が、日本に逃げて来ます。同朋を助けて下さい」と駆け込んで来たのである。教会の瀬戸四郎牧師は、所属していた旧ホーリネス系教会の長老に相談すると、「イスラエルのために祈れ、と旧約聖書にある。瀬戸君、やりなさい」という答えが返ってきたという。瀬戸は仲間の牧師・箱崎登といっしょにリンゴを箱ごと買っては、難民の宿舎に配り、敦賀まで足を運んでは、「船賃を払わない難民は乗せられない」という船会社に船賃を立て替えたこともあるという 。
 
この記事では、1942年(昭和17年)6月26日の旧ホーリネス系教会の摘発にもにも言及され、「自分たちユダヤ難民と、温かい手を差し伸べてくれた牧師、信者たちの顔、顔 … 。そこにはドイツと日本のファシズムに危うく圧殺されかかった者たちの、か細いが確かな絆が息づいているようだ」などとまとめられている。
 
この「リンゴ」のエピソードを最初に伝えたのは、1988年(昭和63年)子供向け読み物『約束の国への長い旅』の著者の篠輝久である。同書のなかで篠は、「ホーリネスの人びと」が「ユダヤ人の救出につくそうとして、教団の人びとが弾圧されてつぶされてしまった」 などと述べているが、そのような事実はまったくない。
 
ホーリネス系教会(きよめ教会、日本聖教会など)の弾圧事件に関しては、ホーリネス・バンド弾圧史刊行会編による浩瀚な『ホーリネス・バンドの軌跡 – リバイバルとキリスト教弾圧』(1983)が新教出版社から出版されており、特高側の資料は、太平出版社から刊行された『昭和特高弾圧史 4 宗教人にたいする弾圧 下 1942〜1945』(1975)でも、同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会編の『特高資料による戦時下のキリスト教運動』の第2巻と第3巻でも読むことができるが、特高側とホーリネス教団側との主張に、日付や事情聴取の内容の不一致はない。また、中田重治の伝記を書いた米田豊(1884-1976)と高山慶喜との共著『昭和の宗教弾圧 – 戦時ホーリネス受難記』(1964)などでも取り調べの実情の一端を知ることができる。
 
戦後の国立国会図書館調査法考査局による戦時の宗教弾圧に対する問い合わせに対して、きよめ教会は「キリスト再臨信仰」、そして「きよめ教会」の後身「基督兄弟団」(森五郎)は、検挙理由を「治安維持法違反」であるとして、「きよめ教会の信ずる教理中、基督再臨信仰は我が国体を危うくするものである。即ちキリスト再臨に依って出現する神の国は、日本の天皇にあらずして神が統治する神の國となると云ふ意想は我が国体に合致しない故治安維持法第七条に抵触するものであるとの理由であった」と説明しており、これは特高側の説明とまったく同じである。

「千年王國は地上に再臨する基督を統治者、基督空中再臨の際携挙せられたる聖徒を右統治に参与する王、神の選民たる「イスラエル人」即ち猶太人を支配階級と為す地上神の國なりと説くのみならず、右千年王國の建設に際りては我國を始め現存世界各國統治者の固有の統治権は全て基督に依り摂取せらるるものにして、我國の天皇統治も亦当然廃止せらるべきものなりと做し居れり」

中日記事のように、旧ホーリネス教団の人々を「日本のファシズムに危うく圧殺されかかった者たち」と一括すると、まるでホーリネス教団が反ファシズム運動にでも参加していたような印象を読者に与えかねない。旧ホーリネス教団が弾圧されたのは、例えば共産党員やエホバの証人などの反戦思想による反ファシズム闘争が原因で弾圧された事例とはまったく異なるのである。
 
旧ホーリネス系教会は、反戦どころか、日本軍の大陸進出を積極的に支持してきた。だからこそ、きよめ教会長老派理事の大江捨一は、「自分は戦争に就ては他の基督教信者の如く反戦主義を持てゐない。神の経綸は此の戦争を通じて行はれてゐるのである、爲に私共の教会では日支事変が勃発した時に逸早く他の教会に率先して戦勝祈祷をなし國防献金をなした」として、予想外の検挙について驚きを隠さない。

「今次の大東亜戦争は之を通じて此の世界はセムの時代に転換する重大意義を持つ戦争であるから、此の戦争は尚益々拡大し遂にハルマゲドンの戦に進展するのではないかと思われる。イスラエル民族をしてその故国パレスチナに復帰せしむべき重大使命を果たすのが日本である。此の事は中田監督は十数年前より預言されて居りまたしが、今こそ此の神の使命を果たすべき時に日本は来てゐるのである」

このような特異な終末論から旧ホーリネス教団の人々は、ユダヤ難民たちを援助したのである。『約束の国への長い旅』に「ホーリネス教団の瀬戸四郎牧師は、ユダヤ協会からたのまれて、日本政府とユダヤ難民の仲介役を引き受け」たとあるのは、ユダヤ協会側がホーリネス教団のシオニズム的教義を知っていたからだが、「ホーリネス教団の人びとの行動は、警察に怪しまれ、憲兵隊にかぎつけられました」という篠輝久による説明や、中日記事の「ユダヤ難民の最後の一群が離日してから半年後の四二年六月二十六日、不気味な包囲網がとうとう姿を現した」などという記述を読むと、ユダヤ難民への援助が検挙理由と取り違いかねない。難民への援助は検挙と取調の口実ではあっても、実際の治安維持法違反被疑事件の論告には出てこないものである。
 
中日記事の「現在八十七歳になった箱島は、『検事はユダヤ難民のことも聞いてきた。難民救援援助がスパイ活動と疑われ、目をつけられていたのだろう』と話す。箱島の教会を捜索した特高は、『無線機はどこだっ』とわめき散らした」 とあるが、旧ホーリネス系教会の信者で通牒など外患罪に問われた者などおらず、ユダヤ難民との関係のみを強調すると、旧ホーリネス系教団への特高による弾圧の真意が見えてこない。

きよめ教会等旧ホーリネス系教会への迫害理由は、「キリスト再臨信仰」にまつわるものであり、「千年王國の建設に際りては我國を始め現存世界各國統治者の固有の統治権は全て基督に依り摂取せらるるものにして、我國の天皇統治も亦当然廃止せらるべ来るべき」という主張が、「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事」という治安維持法第七条に抵触すると見なされたからである。
 
先の米田豊(日本聖教会)が検挙された際の警部補による取り調べの状況は、以下のようなものであったという。

「『千年時代』という項目を指して、『この時代に日本はどうなる?』と軽く尋ねた。私は突差の答に、『どうなるって、このまま進んで行くんでしょう』とまず答えた。なお説明しようと思う間もあらせず、俄に署全体に響き渡るような大声で『嘘つけ』と怒鳴られ、『十年前から調べて居るんだぞ』と怒鳴られた」

斉藤源八(きよめ教会)が「礼拝者の中に信者でない男がいることに気付いた」 とあるように、特高側は各所に求道者をよそおった密偵を滑り込ませており、特高月報に残された、人的構成から教義や教線にいたる調査の正確さには驚くべきものがある。
 
新潟聖書教会の牧師である中村敏は、「ホーリネス系教会をはじめ昭和期のキリスト教会への国家の弾圧を見てくると、キリスト教を軍国主義勢力の被害者としてのみ考えやすい」が「それは歴史の一面であると言わざるを得」ず、「日本の教会は自分たちの組織を守るためにやむを得ず、あるいは進んで、国策に協力していった」とし、「特にアジアの教会にとっては、日本の教会すなわち日本基督教団はまぎれもなく加害者となったのである」 と指摘している。こうした実際に司牧に携わる聖職が、その痛切な反省と悔悟よって歴史の真実に向き合おうとする真摯な姿勢は、高く評価されなくてはならないだろう 。
さてそれでは、「十年前から調べて居」た特高は、なにゆえ1942年(昭和17年)になるまで旧ホーリネス系教会を放置していたのだろうか。 
 
先述したように、満州国が建国されるや、中田重治は、「満蒙に進出せよ」「満蒙伝導の急務」と呼びかけ、夫妻で天皇から観桜会に招かれるほど戦時体制との良好な関係があった。1942年(昭和17年)の一斉検挙では、特に『聖書より見たる日本』と『民族への警告』の二つの著作の親ユダヤ的傾向が問題視されている。しかし、『民族の警告』(1935年の再訂版)のなかで、中田重治は、「聖書の中には軈て我大和民族が大陸に向かつて進出することが書かれてある」と述べ、「日本は古より御人格により治められて來た國で、近頃の所謂皇道、王道を以て治められた國體である」と国体論を展開し、「聖書ぐらい我國體と合致したものはない」と、天皇制イデオロギーと自らの聖書理解の一致を述べている。

宮澤正典が「中田重治の国粋主義のどこに、日本を政治的危機におとしいれる可能性がひそんでいるのか」 と指摘するように、中田の国体論は、文部省の役人たちが編纂した「國體の本義」(1937)と類似点が多い。大きく違うのは、特異な終末論のなかでユダヤ人のパレスチナ帰還の後キリストが再臨して千年王国を開き、この際に世俗国家が止揚されるという点で、説教では特に明示はされていないが、当然の論理的帰結として天皇制も廃止されるだろう。
 
旧ホーリネス教団の再臨説に批判的だった日本基督教団財務局長の松山常次郎(1884-1961)は、「現下の基督教問題」(1943)という講演のなかで、旧ホーリネス教団の弾圧に関して、「文部省の役人から『千年王國の思想が法に触れたのだ』とはつきり聞かされました」 と、明確に述べている。
 
一転して弾圧を受ける前のこのシオニズム的神学観を官憲筋が看過していたのは、不注意からではなく、日米開戦以前は、「ユダヤ民族国家再建を唱える宗教家の強い影響下にあ」った同教会の「異色」の「親ユダヤぶり」が、官憲筋から格別の利用価値があると思われていたからである。

◆ ハルビンから神戸へ
  
1939年(昭和14年)5月9日、日本の招聘により来日したアブラハム・カウフマンは、陸軍の安江仙弘大佐の斡旋で、以前から安江と昵懇だった中田重治と出会い、ホーリネスの信徒たちは「手に手にほおづき提灯をもち、道の両側に並んでカウフマンを迎」え、「日本ユダヤ両国秦が交差された下で彼は中田と握手し」た 。
 
この極めて象徴的な出来事が示すとおり、日本政府と軍部からすれば、安江や中田重治など陸軍と宗教界の親ユダヤ・グループは、神戸など国内在住のユダヤ人と在満ユダヤ人をつなぐ靱帯の役割を果たしていたのである。中田はカウフマンと会った数か月後の9月24日に亡くなるが、1930年代後半は、ホーリネス教会と軍部や政府と蜜月時代であった。「猶太人対策要綱」(1938)を策定したいわゆる五相会議における陸軍代表は板垣征四郎(1885-1948)だったが、当時のホーリネス教会には、この板垣の甥である板垣賛造(征四郎の兄・政一の子)さえいたのである。

周知のように、安江の「私案」から出発した「猶太人對策要綱」は、「戰争ノ遂行特ニ經済建設上外資ヲ導入スルノ必要ト對米關係ヲ惡化スルコトヲ避クヘキ観點」から作製されたものであり、軍部や外務省の思惑は、三国同盟成立後にこの政策の転換された時に作製された「對猶基本方針案理由」(外務省記録第10巻)に明確にあらわれている。

一、 帝國カ従来採リ来タル對猶政策ハ昭和十三年十二月六日付五相会議決定ニヨル猶太人對策要綱ニ示スカ如ク帝國カ未タ獨伊枢軸國トノ確乎タル同盟政策ニ出ス従ッテ對英米關係打開ノ可能性カ未タ完全ニ閉サレサル以前ノ對外情勢ノ下於テ主トシテ極東ヘ非難スル猶太人ヲ専ラ米國資本導入ノ一方便ニ利用セントスル點ニ重點ヲ置キタルモノナリ
二、 然ルニ帝國カ獨伊枢軸諸國ト確乎タル同盟ヲ結ヒ大東亜共栄圏確立ノ政策ニ邁進シツツアル現在對英米關係ノ惡化ハ必至ニシテ猶太人利用ニヨリ對英米關係ヲ緩和セントスルカ如キ可能性ハ客観的ニ見テ殆ント完全ニ失ハレツツアルモノト見ル外ナク加フルニ獨伊ヲ中心トスル歐州枢軸國ノ排猶政策ノ強化ニ對應シテ國際猶太勢力ノ英米依存、英米猶ノ合作ニヨル國際枢軸勢力攻撃カ強化サレ是ト關連シ枢軸同盟政策ニ對スル英米猶共同ノ排日策動カ今後一層悪化スルコトヲ予期セサルヘカラサル情勢ニアリ
三、 斯かる客観的情勢ノ下ニ於テ依然對英米政策ノ方便トシテ猶太人ヲ利用セントスル方針ヲ維持スルハ根拠ナキノミナラス特ニ近時一部論者ノ間ニ於テカカル方針ヲ維持及至強化を主張シ居ルカ如キハ客観的ニハ英米合作ニヨル國際枢軸勢力離間ノ策謀ニ拠點ヲ與ヘル危険アリ
四、 以上ノ諸點ニ鑑ミ従来ノ猶太人對策ヲ再検討し新なる國際情勢に対應シ確乎タル對猶基本方針ヲ樹立スル必要アリト思考ス

つまり、以前のユダヤ人保護案は、「人種平等」とか「八紘一宇」などまるで関係なく、もっぱら米英の対日世論の改善や資本導入のための「猶太人利用」に重点があった。

しかるに、日独伊三国同盟が締結されたいまになっては、これらの目的が達成される見込みはほとんどない。加えて、ドイツやイタリアなど排ユダヤ政策を採っている枢軸国と提携している日本には米英とユダヤ共同の攻勢が加えられるおそれがあり、ユダヤ保護案を維持することは、他の枢軸国と日本を離反させようとする策謀に根拠を与える危険がある。だから、新たに対ユダヤ政策を練り上げる必要があるというわけである。

文中の「一部論者ノ間ニ於テカカル方針ヲ維持及至強化を主張シ居ルカ如キ」とは、もちろん安江など軍部の親ユダヤ・グループのことである。

はたせるかな、日独伊三国軍事同盟が締結された1940年(昭和15年)9月27日の翌日、安江大佐は、大連特務機関長を解任され、予備役に編入される。そして、10月12日には大政翼賛会が発足し、日本国内の思想統制が強化されて行く。ホーリネス教会の満州伝道会会長も努めた予備役陸軍少将の日匹信亮(1858-1940)も、10月17日の「皇紀二千六百年奉祝全國基督教信徒大会」において万歳奉唱を担当したのを最後に公的舞台から退いて、12月22日に死去した。
 
1941年(昭和16年)12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まると、ユダヤ人を利用した米国の対日世論の改善など問題外になり、大規模なキリスト教諸派への弾圧が始まる1942年(昭和17年)を迎える。
 
ホーリネス系諸教会への特高による弾圧が着手されるにあたって、内務省は一つ厄介な問題を抱えていた。時の警視総監の留岡幸男(1984-1981)が、著名なキリスト教徒の社会改良家で、巣鴨監獄の教誨師や警察監獄学校の教師も務めたことがある留岡幸助(1864-1934)の三男であったである。つまり、二代続いたクリスチャンの警察関係者の家系の留岡幸男が現警視総監なのである。特高がいくら内務省から直接指揮を受ける特殊な警察といっても、官憲側にははなはだ都合が悪かった。
 
しかし、その留岡幸男も、1942年(昭和17年)6月に更迭された。こうして最後の留め金が外れ、6月26日のホーリネス系諸教会への大規模な弾圧が開始されたのである。このホーリネス系諸教会員の一斉検挙に関しては、福音派の「美濃ミッション」の弾圧 にも関与した「衆議院議員の四王天中将が黒幕として働き検挙に大いに力があつた」 と、日本基督教団の芦名武雄牧師(山梨教会)が証言している。軍部内で安江など親ユダヤ派が失脚し、四王天延孝(1897-1962)などの反ユダヤ主義者が台頭してきたのである 。
 
1942年8月に刊行された『四王天延孝淸話』(報國社)には、四王天が酒井勝軍、安江仙弘をはじめとする同祖論者や第三回「極東ユダヤ人大会」への言及があり、その動向を正確に把握し嫌悪していたことがはっきりとわかる、以下のような記述がある。

「日猶兩民族の同祖を主張し、累を皇室に及ぼすことも顧みず、或は茨城縣磯原の不確実な古文書に立脚してキリストを青森縣と結び付け、之を映畫化し縣交歓の出張を乞ひ、キリストを通じて猶太民族利用論を鼓吹せしむる等、實に皇國の狂態を視るとき憂心惻々たるものあり 。甘い顔をすれば日本人が滿洲國内で官吏に就職できるのなら猶太人も平等に官吏になれる筈だと主張して來であらう 。

「茨城縣磯原の不確実な古文書」とは、もちろん酒井勝軍が執着を見せた竹内文書のことだが、皇道派の真崎甚三郎(1876-1956)の『日記』の1935年(昭和10年)4月19日分には、「安江中佐約束通来訪しあり。水戸竹内家宝蔵の古物神代文字等に就て研究し、日本の建国に就て最早一点の疑ふ余地なきことを説明す」とある。
 
在日在満のユダヤ人を通した対米外交上で「使える」と思われた安江や中田重治の弟子たちは、三国同盟から対米戦の勃発という歴史の推移のなかで利用され、利用価値がなくなったので切り捨てられたのである。
 
きよめ教会等ホーリネス系諸教会の結社禁止に対して、日基教団財務局長の松山常次郎は、「此の事件の影響に依り日基教団が完全に合同出来、日本的基督教が確立する気運に向つて来たことは日本基督教の爲には幸福な事件であつたと思ふ。これも皆神の摂理の御手であると思つてゐる」 などとして、当局の処置を歓迎した。
 
松山はまた、「現下の基督教問題」という講演で、ホーリネス教会の説く再臨論が「再臨時には天皇も裁かれると言ふ不逞思想」であり、また「此の思想理念が猶太的・米英的人権平等の関係に立つ自由主義・個人主義的基督思想である」ことが、「日本基督教樹立の叫ばれる所以」であるとしている。そして肝要なのは、「ホーリネス関係の人々」の「思想こそ全く猶太的な考へで彼等の宗教謀略に完全に引懸つて居る」ことを踏まえ、「日本的基督教樹立は畢竟真の基督教に還る事であり、國體の本義に徹すること」 など述べていた。
 
これは、ナチス政権下でナチス当局の後援で、「内外のユダヤ的唯物精神と闘い、根本的に内面からのみから達成されるわが民族の永遠の救済を確信させる」というナチス党綱領(第24条)を踏まえた「ドイツ的キリスト者」(Deutsche Christen : 略称 DC)による「積極的キリスト教」(Positives Christentum)と似通った発想であろう。
 
松山の講演が行われるちょうど一年前、ナチス党員でDCの活動家であったプロテスタント神学者のヴァルター・グルントマン(Walter Grundmann, 1906-1976)は、「ドイツ人の生活に関するユダヤ的影響の排除は、今日のドイツの宗教状況の緊急かつ根本的な問題である」 などとしていた。
 
ドイツでは、それまで内務省と文部省が分掌していた教会関係事項を取り扱うため1935年(昭和10年)7月16日に教会省と教会大臣を独自の政府機関として新設し、1935年から1941年(昭和16年)まで教会大臣の職にあったハンス・ケルル(Hans Kerrl, 1887-1941)は、帝国協会監督のルードヴィヒ・ミュラー(Ludwig Müller, 1883-1945)の「ドイツ的キリスト者」の路線を引き継ぎ、ナチズムとキリスト教の融合を推進していた 。
 
さて、「杉原ビザ」によってヴァルハフティクらユダヤ難民がウラジオストックから敦賀湾に入ったのは、1940年(昭和16年)10月18日である。その後も難民の上陸は続くが、日米開戦の前のこの時期、旧ホーリネス教団の人々には、まだフリーハンドがあった。例の「リンゴ」のエピソード出知られるユダヤ難民への援助とともに、バルハフティクにも日ユ同祖論の情報がもたらされた。
 
ヴァルハフティクは、「日本に日本・ユダヤ同祖論あることを知った。失われた十部族のひとつが日本に渡来したという話で、そのような報告はユダヤ難民に与えられている尊敬をいちだんと高めるのだった」などと、まったく見当違いなことを述べているが、それは日本の宗教事情に疎く、日ユ同祖論や宗教的シオニズムが、カトリックや主要なプロテスタント諸派には皆無であり、福音派の一部にしか存在しないことを知らないからである。
 
最近、戦時中に日本に来たユダヤ難民に関する、『命のビザ、遙かななる旅路 – 杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(北出明著)が刊行された。これまで知られていなかった、難民たちの送迎に関するエピソードが多く載っている興味深い本ではあるが、一点気になるのが、以下の個所である。

「旧ホーリネス教会の牧師だった同氏の父親の源八が、当時のユダヤ難民に温かい手を差し伸べたという話が紹介されていた。『キリスト教の牧師がユダヤ人を援助するなんて、普通に考えればあり得ないことですよね。教会に招待したり、リンゴ配ったりしていましたよ』。そのような父親の思い出を語る信男氏の表情は、誇らしげで清々しかった 。

この「父親の源八」とは、中日記事にもあった、旧ホーリネス教会の斉藤源八牧師のことである。そして、北出がその逸話を語る
 
件の斉藤源八牧師が出てくる中日記事(「ミナト神戸 援助の輪」)をもう一度読んでみよう。この記事には、「神戸ユダヤ人協会の会員」だった男が「日本の通貨ビザを得たポーランド人のユダヤ人が、日本に逃げてきます。同朋を助けて下さい」と1940年(昭和15年)初秋に兵庫県尼崎市の旧ホーリネス系の教会に駆け込んで来たことがはっきりと書かれており、「旧日本ホーリネス系教会はそのころ、ユダヤ民族国家再建を唱える宗教家の強い影響下にあった」という指摘も正確である。
 
確かに、当時のメインラインの「キリスト教の牧師がユダヤ人を援助するなんて、普通に考えればあり得ない」が、旧ホーリネス系の教会に関しては、大いに「あり得る」話なのである。「神戸ユダヤ人協会の会員」は、ホーリネス教会の特異なシオニズム的教義を知っていたからこそ、助力を当てに出来たのである。
 
先の中日記事には、斉藤源八以外にも瀬戸四郎と「その仲間の牧師・箱崎登」の名前が出ている。戦後の問い合わせに対して、きよめ教会は、治安維持法違反被疑事件で検挙された斉藤源八が「判決2年(控訴中)」、瀬戸四郎が「起訴猶予」であるのに対して、箱崎登は「釈放」されたと回答している。
 
「釈放」された箱崎は、「我國基督教界の内情及自己の心境に関する手記」を兵庫県の特高課に提出しており、『戦時下のキリスト教運動 – 特高資料による』(新教出版社)の第3巻(164-174頁)で全文が掲載されている。
 
その「手記」のなかで箱崎は、「終末観の無い宗教なんかは塩の入らない御料理みたいなものだ」と、ホーリネスの特異な終末観に執着を見せながら、「カトリツク信徒が現在二重の国籍を有してゐのが日本人としての裏切りであるならば、プロテスタントは国家観念の無い者だから日本人という名称を『国際人』とか『無国籍者』とか(ユダヤ人の様に)変えるべきではなからうか」などと、ホーリネス系教会の信徒が決して書かないユダヤ人に対する否定的な見解を述べている。また中田重治が率いていたホーリネス教会の分裂事件は、箱崎によれば、「第一の分離は表面上信仰問題となってゐるが、事実は権力を握ろうとする人々の野心がそれをさせたし、第二回目は盲目的な女の愛が盲目的信者の信仰を刺戟して盲目的な行動をとらせた」ものであるとし、「私は基督教信仰よりも日本人として日本肇國の精神を体得し天皇帰一の生活を送ることに決心した」と結論している。この「手記」は、普通に読めば、箱崎がホーリネスの教義を棄てて、特高側の説諭を受け入れた転向文書としか考えられない。
 
しかし、特高による戦時中の取り調べの様子を回顧した『昭和の宗教弾圧 – 戦時ホーリネス受難記』(1964)で、中田重治の伝記も書いた米田豊が、「誓約書を書かされたり、他教会に転会を強いられたり、神道または仏教等他宗を勧められた人さえある」 とあり、また「出来上った調書なるものもいい加減なものである。私は度々『あなたとの合作ですよ』とか、「これはあなたがどう見て居られるかということを書かれたので、私は承服出来ぬところがありますよ」言って拇印を捺した」 とあるので、転向者を誘い出すために特高側がでっち上げた作文という可能性も高く、特高側が代筆して承認を強要したということは大いにあり得ることである。この「手記」がいかなる性質のものかは、当人以外はわからないので、箱崎はこの点について何かしらの説明あってしかるべきであろう。
 
さて、インターネット上に、ユダ・エフライムなるハンドル名で管理されている「キリスト・日本・イスラエル」と興味深いブログがある。「キリスト教プロテスタント福音派」「キリスト教原理主義者」「クリスチャン・シオニスト」「日ユ同祖論者」を自称する某氏は、中田重治の『聖書より見たる日本』の一節を共感をもって引用し、「現在、日本にはユダヤ人・イスラエルのために祈り活動している団体・教会が数多く存在している」としている。そして、「名を挙げるなら、BFPジャパン、エベネゼル緊急基金、聖書研究会(シオンとの架け橋、聖書に学ぶ会)、シオンの喜び、日本メシアニック親交会、ハーベストタイムミニストリー、原始福音キリストの幕屋(キリスト聖書塾)、ミルトス社、聖書と日本フォーラム、基督聖協団など」の団体名が挙げられているが、一般の日本人は誰も知らない名前だろう 。

このブログで興味深いのは、「杉原ビザ」で日本にやって来たユダヤ難民の一人がホーリネス教団の信者に述べたという言葉である。

「例の『杉原ビザ』で日本にやってきたユダヤ人を世話したのが、ホーリネス教会のクリスチャンたちであった。彼らは、ユダヤ 人の祝福のために祈り奉仕することを熱心に教えた、中田重治師の弟子たちである。ところが、ユダヤ人たちは彼らにこう言ったという。「あなたがたは親切だ から忠告しておくが、イエス・キリストだけは信じないほうがいい」。これを聞いたホーリネス信徒たちは、ひどくがっかりしたという 。

この逸話は、ヴァルハフティクのキリスト教観と比較すると興味深いものがある。

「神道信者は国民の三分の一にすぎない」等々、ヴァルハフティクによる当時の日本の宗教事情の理解はかなり実態とかけ離れており、キリスト教は、「片手に福音書もう一方の手に剣を持った征服者と見なされた」などと、キリスト教によるイスラム教徒への典型的な偏見(「右手にコーラン、左手に剣」)の常套語法をそのまま踏襲している。また、「日本人にとってその宗教はキリスト教軍であり、神父はその先兵なのであった。回教にも同じことがいえた。一般的にいって警戒心があった」などと述べているが、これなどは、日本人の警戒心というよりは、ヴァルハフティク自身のキリスト教やイスラム教への「警戒心」を投影したものであろう。


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