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*「〝偶像崇拝の禁止〟こそユダヤ人とキリスト教徒の信仰の核心」

… そもそも〝偶像崇拝〟とは何を意味するのか、手順を追って説明しよう。

(1)偶像崇拝の禁止は、論理でもあり同時に倫理でもある、ユダヤ人とキリスト教徒の信仰の核心である。しかし、これを理屈で説明するのは、モーセがシナイ山で告知された神名「私はある」から始まりなかなか難しい。なぜなら、「私はある」を理解するには、「私は~である」との違いを理解しなければならないからである。

(2)ギリシア語で「エゴー・エイミ」と翻訳されものが神名をそれを崇めるように促す司祭や牧師がいるが、それは単に知能の劣る愚か者であり、同時に自身が〝偶像崇拝〟の罪を犯している罪人である。

(3)われわれが何よりもまず知らなければならないことは、ギリシア語で書かれた新約聖書の文言は、「そのつどヘブライ語から翻訳されたもの」であるということである。

(4)先に「私はある」と「私は~である」といういう2つに文は違うと述べた。これは何を言いたいかといと、例えば英語で「A is B」と言う。この場合、A は主語であり、Bは属詞(ないし補語)であり、B が主語を「補」いその「属」性を示す言葉(詞)だからだ。

(5)真ん中の is は、文法用語では「コプラ」(繋辞)と呼ばれ、「A is B」という繋辞文を作れることが、英語やギリシア語などインド・ヨーロッパ語族の特徴だ。

(6)だから、シナイ山でモーセが出会った神がヘブライ語で「神名」を告知されたことには重大な意味がある。ヘブライ語で「AはBである」と言いたいときは、ただ「AB」と併置するだけで、A とB をイコールで結ぶ繋辞文を作らない。

(7)これは何を意味するのか?それは、神はある属性、特定の性質によって説明できるものではないということで、別の説明をすれば「神には名がない」「名なし」であるということだ。

(8)「私はある」というヘブライ語のハーヤー動詞の一人称単数未完了形から文法的破格によって作られた神名は「〝名付けえぬもの〟に名付けられた仮の名」であり、神と偶像とを区別するための方便に過ぎない。

(9)偶像の最大の特徴は「名前を持つ」ということで、「名を持つ」ものはすべて神ではない。例えば、天照大神やアポロンが太陽の比喩であることは誰でもわかる。また、韋駄天やアキレスが「足が速い」という人間的諸力の一つを取り上げた比喩であることもまた容易に理解できる。

(10)「名を持つ」ものは神ではない。例えば、ギリシア神話の愛の神アプロディーテーは、その名の中に「アプロス」(泡)という語を含んでいることを知れば、海の「泡」から生まれたという神話体系が、人間的想像力の産物であることがわかり、そこには謎めいた神秘など何もない。

(11)神には「名がな」く、特定の性質で説明できるもではない。アプロディーテーだけでなく、もちろん国家も金銭も「名を持つ」という段階で神ではなく〈偶像〉、こう言ってよければ生きるための方便であり、その方便を神と錯覚することが、偶像崇拝、フェティシズムの真の意味である。

(12)新約聖書では、民衆から神について問われたとき、イエスが困惑した様に、繰り返し「例え話」を持ち出されるのは、「神には名がない」、つまり「特定性質で説明できない」という神の主張と人間の無知を橋渡しする工夫であり、モーセから繰り返し名前を尋ねられた神が「私はある」という名前ならざる名でお答えになられたのと同じ所作を繰り返しているのである。

(13)新約聖書には、イエスが「エゴー・エイミー」(私はある)という、「私は~である」とは違う絶対用法で自己を告知されている意味は、新約聖書が「そのつどヘブライ語から翻訳されたもの」であること、そしてヘブライ語が「A is B」 という繋辞文を作れない言語であることを知らなければ理解出来ない。

(14)われわれが、このように旧約の「神名」からイエスのたとえ話までを説明できるのは、ただわれわれ現代人が〝巨人の肩の上の小人〟、すなわち偉大な先人たちが気づき上げた学問や科学の蓄積を自由に駆使できるからに過ぎず、現代人が古代人より優れているからではない。

(15)ただ、イエスが説教をされた民衆は、字も読めない漁民や農夫たちがほとんどで、だからこそ、神について問われたイエスは、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」などと例え話を用い、神に関するニアリーイコール(近似値)を提示されたのであり、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはない」と述べられたことも、限定できない神について民衆に説明しようという執拗な努力なのである。

(16)要するに、イエスとは、神ではない〈偶像〉にすぐに魅了されてしまう、出来の悪い子供たちを善導するために、何度間違いを犯しても生徒たちを見捨てることなく、何度でも教え諭す、田舎の小学校の校長先生のような存在なのである。


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