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*【歴史】「杉原千畝が日本政府の方針に従ってユダヤ難民を救ったなど真っ赤なウソ」

… 以下に手順を追って小林よしのりの『戦争論』以来ネトウヨがまき散らす滑稽なデマのがいかに間違っているか説明しよう。


◆「猶太人対策要綱」

1938年(昭和13年)、安江仙弘大佐は、陸軍中央から満州に派遣されて大連特務機関長に就任した。安江には、満州人や中国人のみならず、ユダヤ人や回教徒、白系ロシア人などが混在する満州で、諸民族間の紛争を解決し、秩序を維持するという任務が託された。
 
まず「現下ニ於ル対猶太民族施策要綱」(1月21日付)を策定し、さらそれを発展させた「猶太人対策要綱」を構想し、五相会議において12月6日に決定を見た。その方針は、以下のようなものであった。

一、 現在日満支ニ居住スル猶太人ニ対シテハ他國人ト同様公正ニ取扱ヒ之ヲ排斥スルカ如キ処置ニ出ツルコトナシ
二、 新日、満、支ニ渡来スル猶太人ニ対シテハ一般ニ外國人入國取締規則ノ範囲ニ於
テ公正ニ処置ス
三、 猶太人ヲ積極的ニ日満支ニ招致スルカ如キコトハ避ク但シ資本家技術者ノ如キ特ニ利用価値アル者ハ此ノ限ニ在ラス

この「要綱」の成立過程に関しては、これまでその詳細が明らかではなく、「安江は関東軍司令部と打ち合わせのうえ、東京に飛び板垣陸相と話合った結果、陸相を提案者として五相会議で『猶太人対策要綱』が十三年十二月六日決定された」 という安江大佐の長男の安江弘夫による発言が唯一の言及であった。しかし、関根真保が、「要綱」とほぼ同じ内容を含む「満鉄外国経済調査係ニ課スル研究問題」(1938年10月27年)と題する文書の存在を中国で刊行された研究書のなかに発見し、旧満鉄側のメモ書きにあった「本件ハ安江氏ノ私案ナリ」いう記述から、安江弘夫の推定の正しさを立証した 。
 
「要綱」の成立過程を説明する安江弘夫の知的誠実さには疑いを入れないが、その記述はいささか混乱しているように思われる。

「戦後、我国およびユダヤ系の学者の一部が「日本が特に理由無くユダヤ人筈が無い」という先入観から主文後半の「外資導入」とか「対米関係」に着目し、日本政府が自らの利害だけを考えてこの政策を決めたと納得しているが、それは誤解である。政府の中心勢力は軍部であり、海軍をも含めて独伊に強く接近しており、そのような時期にこのようなユダヤ人保護政策を決めさせたのは、安江の人道主義とユダヤ民族に対する個人的心情に他ならない。そして「外資導入…」の語句は五相会議で決議させるため、ユダヤ資本導入派との妥協を図ったためと、ユダヤ人を助けることはメリットもあると思わせた政策上の理由から加えたものと思われる 。

「要綱」の策定の出発点は、安江弘夫の述べるように「安江の人道主義とユダヤ民族に対する個人的心情」に他ならず、この点に関して否定する者は誰もいない。陸軍に安江大佐が存在しなければ、「要綱」など策定されることもなく、極東にやって来た難民や在満ユダヤ人の運命は過酷なものになっていただろう。しかし、安江弘夫の説明では、そうした安江大佐の「個人的心情」と日本政府の思惑が混同されており、さらに陸軍内でも特異な親ユダヤ的立場にあった安江の考え方と陸軍全体の考え方が未分化なのである。
 
「『外資導入…』の語句は五相会議で決議させるため、ユダヤ資本導入派との妥協を図ったためと、ユダヤ人を助けることはメリットもあると思わせた政策上の理由から加えたもの」というのはまったくその通りである。しかしそうであるならば、その主張は、「『日本が特に理由無くユダヤ人筈が無い』という先入観から主文後半の『外資導入』とか「対米関係」に着目し、日本政府が自らの利害だけを考えてこの政策を決めたと納得しているが、それは誤解である」というのは見解とは整合しない。
 
むろん後者は、「誤解」ではなく、明確な資料によって裏付けられる史実である。以下にそれを裏付ける史料を具体的に示そう。
 
当時の「政府の中心勢力は軍部であ」るというのはまったくその通りであり、「日本政府が自らの利害だけを考えてこの政策を決めた」というのは間違いではない。そして、陸軍も海軍も「ユダヤ人利用論」に関しては完全に一致していた。
 
先の「満鉄外国経済調査係ニ課スル研究問題」が書かれた翌月の11月、陸士の同期で安江の最大の理解者の一人であった石原完爾(1889-1949)は、「外交国策ニ関スル所見」において、「吾人ノ見解ハ獨ノ了解ヲ求メテ『ユダヤ人』ヲ徹底的ニ利用スルノミナラズ、進ンデ極東ノ一角ニ『ユダヤ』國建設ノ好意ヲ示スモ不可ナラズトスルニアリ。之ガ米國ノ輿論ニ与フル影響ノ大ナルコトハ何人ノ予測モ許サザルベシ」と述べている。
 
また、海軍側のユダヤ問題に関する責任者だった犬塚惟重(1890-1965)の同年10月の講演は以下のような内容のものであった。

「猶太人ヲ利用スルニハ親善ニ堕スコト最モ戒ムヘク現地ニ於テハ猶太人ノ咽喉ヲ扼シ徹底的ニ之ヲ圧服スルヲ要ス即チ日本側カ厳然実力ヲ振ヒ得ル今日確固タル自信ト強烈ナル意気込トヲ以テ彼等ヲ牽制圧伏シ我國ニ依存スルノ必須ナル所以ヲ了解セシメ他面其馴致工作ヲ実施スルヲ適当トス。

当時の「政府の中心勢力は軍部であ」りその思惑は、「猶太人ノ咽喉ヲ扼シ徹底的ニ之ヲ圧服」して「徹底的ニ利用」することであった。対米戦が勃発し満州への「外資導入」などが問題外になるや、1942年(昭和17年)1月17日、東郷茂徳外相は「緊急猶太人対策」を在外大公使館に通報して、「同盟國ヲ除中立國籍無國籍猶太人ハ我方利用中ナルモノ又将来利用セントスルモノノ中帝國ノ施策ニ反セサルモノハ好意的ニ取扱ヒ其以外ノモノニ對シテハ監視ヲ厳重ニスルト共ニ適性策動ヲ排除断(ママ)圧ス」と方針変換を指示し、3月11日、大本営政府連絡会議は、「日満支其ノ他我カ占領地ニ対スル猶太人ノ渡来ハ特殊ノ事由アルモノヲ除キ一切之ヲ禁止ス」として、1938年(昭和13年)の五相会議決定は廃止された。
 
河村愛三・憲兵大佐の「推薦の辞」を巻頭に掲げ、「憲兵司令部推薦」と赤字の白抜きで表紙に記した、俗悪な反ユダヤ本『思想戰と國際秘密結社』(北條淸一編著)の初版が刊行されたのは、まさにこの1942年(昭和17年)のことであった。
 
丸山直起が指摘する通り、ユダヤ人対策に関する「五相会議の決定は関係機関それぞれの思惑を集約したもの」 に過ぎず、その内実は、「『ユダヤ人』ヲ徹底的ニ利用スル」ための方便であった。
 
先の講演からわかるように海軍の犬塚の主張する「ユダヤ人利用論」は徹底しており、日本政府の対ユダヤ人政策の内幕を記録した極秘文書『日本権益確保ノ観點ヨリ見タル猶太處遇問題ノ研究』(昭和16年10月)においても、上海ユダヤ財閥の中心人物、ヴィクター・サッスーン(Ellice Victor Sasson, 1881-1961)について、「表面英國貴族ヲ気取」っているが、「利益ニ就テハ飽ク迄一個ノ猶太商人ナリ、此ノ點帝國カ當面最モ緊急ヲ要スル経済的方面ニ於テ利用価値アリ」などと述べている。

◆ 安江仙弘大佐と「河豚計画」

1970年代の後半、「スペースインベーダー」というゲーム機が一世を風靡した。このゲーム機は、「プレイヤーの心理をとらえ、揺さぶる奥行きを持っており、それまでアーケードゲームに関心を示さなかった人たちも惹きつけた」 。この歴史に残る有名なゲーム機を開発したのは、株式会社「タイトー」であった。その創業者のミハエル・コーガン(Michael Kogan, 1920-1984)は、ハルビンで育ったロシア系ユダヤ人であり、在満中に安江大佐と親交があった。1939年(昭和14年)に東京の早稲田経済学院で貿易実務を学んだコーガンは、5年間の日本滞在中、ロシア文学者の米川正夫(1891-1965)の家に下宿し、ドストエフスキーの翻訳を手伝ったりした。
 
そのコーガンが、戦後神田の古書店で外務省のユダヤ関係の機密文書を偶然見つけた、「コーガン文書」をもとにして、マーヴィン・トケイヤーが作家のマリー・シュオーツと共に書いたものが、『河豚計画』(The Fugu Plan, 1979)である。トケイヤーは、コーガンが1950年代に外務省の機密文書を読んで、犬塚がユダヤ人の友であったためしなどなく、極め付きの反ユダヤ主義者であった事実を発見し、犬塚と対決して激しく糾弾したとしており、結局犬塚は日猶懇話会の会長職を退くことになった 。
 
先の書物のタイトルの「河豚計画」とは、1930年代に軍部が中心となった日本政府の対ユダヤ政策に関する俗称である。毒はあるが料理次第では美味であるというフグをユダヤ人を利用するうま味にたとえたものであるという。
 
1939年(昭和14年)12月13日から26日にかけて開催された第三回極東ユダヤ人大会において、ユダヤ人の収容地区を満州内に造ることが秘密決議されたことを受けて、安江仙弘大佐は、満鉄調査部特別調査班に具体的なプランを練ることを依嘱した。そこで、1940年(昭和15年)5月、高橋輝正によって「猶太避難民収容地区ノタメノ所要面積推定」という調書がまとめられ、満鉄総裁らに配布され、安江には30部渡された 。
 
日本初のシンクタンクとも言うべき満鉄調査部には、戦後各界で活躍する知識人が結集しており、安江の下には後に神戸に渡ってきたユダヤ難民の世話係をすることになる、ユダヤ学者・小辻節三がおり、ユダヤ研究の中心的役割を果たしていた。その研究は今日の観点から見ても驚くべき水準に達しており、レオ・ベック(Leo Baeck, 1873-1956)の古典的名著『ユダヤ教の本質』(Das Wesen des Judentums, 1905)の翻訳もその成果の一つである 。さらに、ユダヤ問題の百科事典的性格を有するアルトゥル・ルッピンの『猶太人社会の研究』の翻訳(1941)から『タルムード研究資料』(1942)の編纂まで、満鉄調査部の特別調査班は、日本のユダヤ学の黎明期を画したと言っても過言ではない 。
 
「安江の潔白とは言い難い過去を熟知していた」小辻と安江の間には、「当初から確執があった」として、『シオン長老の議定書』の翻訳者であった安江を非難する小辻は、安江をひどく嫌っていたが、その小辻ですら、「安江は、満州における彼の職務上のつきあいのあったユダヤ人たちからは、真の恩人と考えられており、実際安江がユダヤ人たちをあまたの手段で救ったというのは、まったくの真実である」 と言わざるを得なかった。
 
特別班は、松尾史郎を主査、長守善を主任として、石堂清倫、島野三郎などによって担われていた。なかでも左翼からの転向組である石堂と安江とは強い軋轢があり、石堂の自伝には、「係員のなかで山口と私の書くものが機関長の意に満たなかったのか、ある日安江大佐が係へやってきて、山口と私を立たせ、軍刀で床をたたいて威嚇するのである。貴様らの前身は百も承知している。貴様等を消すのは蠅をひねるようなものだ。それでも反抗するというのかといった調子である。ロシア人が大連でしばしば行方不明になるという話を聞いたことがあるので、ゾッとした」 などという、よく引用される一節がある。
 
石堂は、中日新聞の取材に対して、石堂は「三井、三菱でもこないのに、米資本が来るものか」と、満州にユダヤ資本を導入しようとする安江の計画を作文化することに抵抗があったとしている 。東大「新人会」出身のマルクス主義者で、ゾンバルト(Werner Sombart, 1963-1941)の『ユダヤ人と経済生活』(1911)を翻訳するとなれば、当代随一の経済学者・大塚金之助(1892-1977)に依嘱するというように念の入ったところを見せる石堂から見ると、経済に明るいとは言えない安江の見通しが甘いと思われたのだろう。
 
結果としては石堂の洞察が正しかったわけだが、この「軍刀」云々と「ロシア人が大連でしばしば行方不明」などの個所は、額面通りとらえるべきなのだろうか。
 
というのも、安江は儀式のような「軍務公用で外出の他は軍服を着ないで背広姿」という大連特務機関員だった蝦名治三郎の証言 があり、日本軍の間諜(スパイ)として働き、後に満州支配の内幕を暴露したアムレトー・ヴェスパの『日本の密偵 – 日本帝国主義の手引』(1938)に石堂は言及しているが、この回想録には、有名な音楽家のカスペ誘拐殺害事件など、関東軍が後援した白系ロシア人ファシストたちによる、ユダヤ人や中国人の拉致事件には頻繁に触れられているが、ロシア人が行方不明になるなどという話は出てこないからである。
 
安江のユダヤ人に対する姿勢が、植民地官僚によく見られるような現地人に対する家父長的温情主義に過ぎないとしても、陸軍主流はから疎まれ、特高の尾行が付き、挙げ句の果てに予備役に編入する憂き目にあってもなお、ユダヤ人や回教徒などの在満外国人のために尽力した人道的行為は、一定の評価をされて良いだろう。
 
安江大佐ともまた遺族とも交流のあったコーガンは、犬塚のみならず、『シオン長者の議定書』の翻訳者であった安江の著作に反ユダヤ主義的な言辞を簡単に見いだすことができただろう。しかし、コーガンは安江の反ユダヤ主義的過去をあげつらい、それを糾弾するようなことはしなかった。それどころか、シベリアのラーゲリ(強制収容所)で没した安江大佐の葬儀について心配し、「極東のユダヤ人たちの安江への恩返しの気持ちだから、葬式を出させてくれ」と遺族に協力を申し出たのである。それは、在満時代の安江がユダヤ人保護のために尽力する姿をコーガンが間近で見ていたからである。
 
コーガンが創業した株式会社「タイトー」は、当初の「太東貿易」という社名を、1973年(昭和48年)に改名したものである。「太東」の太とは「猶太」の太であり、東とは「極東」の東の意である。「極東の猶太」という意味合いを込めた自社名には、コーガンら在満ユダヤ人にとって安江がどれだけ大きな存在であったかを暗示しているだろう 。また、安江と昵懇だったアブラハム・カウフマン(ハルビン・ユダヤ人協会会長)の自伝『ラーゲリの医師』にも、日本人抑留者に対する同情心はあっても、日本を批判する言葉はまったく見られない 。

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