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*「父への旅 – 飛べなかった特攻隊員の昭和史」(4)

父は1944年(昭和19年)3月に旧制宇和島中学を卒業すると、十七歳で松山の予科練航空隊に志願した。
 
卒業式の後宇和島の写真館で学友たちと撮影した写真(父は中列の右から二番目)では、誰一人にこりともしていない。
 
写真の裏には進学先が書いてある。
 
一人松山高等学校がいるが、父以外はすべて陸軍士官学校か海軍兵学校である。

父が予科練を選んだのは、叔父の吉田定男少将が独立第101教育飛行団団長だったからで、大叔父は陸軍航空隊を養成する中心人物の一人だった。

戦時中の日本では『航空少年』なる少年向けの雑誌も刊行され、予科練の「七つボタン」は青年たちの憧れの的だった。

1944年(昭和19年)になると、松山や宇和島など愛媛県の主要都市でも米機の空襲が始まり、父の故郷の三間村でも終戦までに345人の若者たちが戦死したと『三間町誌』は伝えている。

もちろん三間は山村なので空襲はなかったが、この戦没者は、宇和島市の戦没者 3,639人 の約一割に相当する。
 
◆ どこで戦没したかわからない伯父
 
その345人の内の最高位の軍人が松浦岩雄少佐で、父の次兄である。
 
宇和島中学を卒業後、予備仕官学校に入学した。予備士官学校は、陸軍士官学校より少し修学年限が短く、有事の際に多数必要となる下級将校を養成する軍学校である。

高千穂降下部隊は、自動小銃が配備された陸軍のエリート部隊で、部隊に入隊した岩雄は、大戦末期にルソン島に送られ、官報では1945年(昭和20年)7月10日にビルーク戦没したということになっている。
 
「〜ということのなっている」というのは、正確な戦没地も日付もわからないからだ。
 
陸軍の花形部隊だった高千穂降下部隊も、当初のレイテ突入計画も米軍の圧倒的砲火に断念。ゴルドンに移動し、武器を持たない数万の軍人軍属、医官や看護婦などの護衛し、「バレテ峠を死守せよ」との命を受けた。

しかし、物量を誇る米軍に次第に押され、弾薬や糧秣も極度に不足し、三人一組の切込隊が編成され米軍陣地の爆破に向かったが、伯父が指揮する部隊は第十師団との連絡も途絶え、六月二六日にカガヤン河方面に退避。

部隊は未踏地の道なき道をたどり、河に入り、断崖をよじ登ったりして、最初の集合地のビルークに向かった。

この退避中に部隊はちりぢりになり、マラリアに罹り朦朧としていた最後の様子が、戦後部下によって実家に伝えられた。

実際は、病没したのか、自決したのか、ゲリラに刺殺されたのかわからない。

若い妻と幼い子供が住む伯父の家には、何も入っていない白木の箱が送られて来た。

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