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*「ある昭和史 --『父の子』である私」(5)

… 高校時代に今日まで続く大きな影響を受けた二冊の本と出会った。

さて、19世紀末の反ユダヤ主義の高まりの中で濡れ衣を着せられたユダヤ系のアルフレッド・ドレフュス大尉をめぐる事件、ドレフュス事件というものがあった。

陸軍内の調査で冤罪とわかっても、軍中央は体面のためにドレフュスを有罪にし、南米ギアナの悪魔島に流刑にされた。

このドレュフュス事件の調査を命じられ、無罪の報告書を持参したピカール大佐に、参謀本部の将軍はこう言い放った。

「君さえ黙っていれば、誰にもわからない … ユダヤ人の一人や二人どうなろうと、君の人生に関係ないだろう」

陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、将来を嘱望され参謀本部に抜擢され、陸軍大学で教鞭を執っていたピカール大佐は、上官の言葉に耳を疑った。

「これが、私がこれまで誠心誠意尽くし、陸軍の名誉と思っていた上官の本心なのか?」… 失望はやがて怒りに変わり、ピカール大佐は参謀肩章を引きちぎり、無実の部下のための不屈の「知識人」となった。

ピカール大佐は、早速報復人事で左遷されたが、それでも正義の回復のための闘いを止めなかった。

やがて若き作家、ジャーナリスト、学者、芸術家がピカール大佐の職を賭した義挙に共感し、彼らの中には、後にフランス文化を代表する、ロマン・ロランやマルセル・プルーストなどの若き姿もあった。

ドレフュス擁護派と反対派が国論を二分する騒然たるフランスを舞台にした小説の一つに、ジャック・ド・ラクルテルの『反逆児』(原題はシルベルマン)という小説がある。

名門リセに通う青年ダヴィッド・シルベルマンは、ラシーヌからヴィクトル・ユゴーの詩句を朗々と暗唱する秀才だが、ユダヤ系ゆえにあらゆる差別と迫害を受け、それを同情の目で見る視点で小説は進行する。

青柳瑞穂氏の名訳で知られる小説に私は魅了され、ドレフュス事件からナチス占領期の傀儡ヴィシー政権に至るフランスの激動の歴史に引き込まれ、そこに常につきまとうユダヤ人をめぐる問題に深い興味を持った。

著者のラクルテルは、大革命時代に国民公会で活躍した議員を祖先に持つプロテスタントで、フランスの作家にはめずらしくケンブリッジ大学出身だった。

アンドレ・ジッドやシュランベルジェなどと共に、20世紀初頭のフランス文学を牽引した NRF 誌の発展に協力した。

周知のようにフランス人の大半はカトリックで、そのカトリック的フランスを冷静に「外から」見るプロテスタントは、ジッドからポール・リクール、ロラン・バルトなど、現代文学や思想を刷新する異才を輩出して来た。

◆ 太宰治と日本浪漫派

もう一冊は太宰治の『晩年』という短編集で、課題図書の一つだった。

現代国語の先生は、この『晩年』と武田泰淳の『ひかりごけ』、アルベール・カミュの『異邦人』、そして「高知の土佐高出身で東大国文科に学ぶ」と紹介された教育実習の先生は、レマルクの『凱旋門』を薦めた。

「どれか一冊選んで感想を書け」という、現在の高校でも夏休みの課題で出されるていのものだが、新潮文庫は安いので、一応全部目を通してみた。

『ひかりごけ』は、雪と氷に閉ざされた北海の洞窟の中で、生き残るために人肉食に及ぶというトンデモない小説なので、気味が悪く、早速却下。

レマルクの『凱旋門』は、ナチスの影におびえる医師ラヴィックと女優ジョアンの恋愛劇だが、『西部戦線異状なし』と同様に、大層図式的な善悪二元論に閉口した。大衆映画にすれば「受ける」かもしれないが、こんな凡庸な恋愛小説を激賞する教育実習生は、見るからに女性に縁がなさそうで、その女性観にも疑問符がついた。

カミュは、サルトルとともに時代の寵児だったが、この「不条理の文学」という触れ込み翻訳ではまるで理解出来なかった。

後でフランス語が読めるようになると、「太陽のせいでアラブ人を殺した」ムルソーという主人公の名前が「死」(ムル)と「ソー」(太陽)の膠着語で、ロシュフコーの『箴言集』にある「太陽と死は直視できない」という一節を踏まえていることがわかった。

フランス語の原文で読まなければ理解できない本を課題図書にするのは、先生のミスだったといまは思う。

つまり、太宰治の『晩年』にたどり付いたのは、消去法の結果だった。


しかし、伊東静雄の詩が好きだった私は、太宰の青春のリリシズムに魅了され、主要作品を読破していった。

もちろん、文学青年は大抵太宰に「やられる」のだが、私は同時に解説に出て来る「日本浪漫派」という言葉に釘付けになった。

なぜなら、『朝日ジャーナル』とともに定期購読していた月刊誌『浪漫』のタイトルは、この日本浪漫派に由来しているからだ。

青年時代の私は、『浪漫』の古典的な伝統主義と『朝日ジャーナル』の左翼やリベラルの知識人たちのまばゆいばかりの洗練された議論の間で宙づりになっていた。

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