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*【#歴史】「樋口季一郎とオトポール事件 -- 歴史はこうやって偽造される」

1938年3月、ソ満国境に殺到した「二万人のユダヤ人」難民の窮状に同情した樋口季一郎中将が、満州国と交渉してそのユダヤ人を保護した。これが、いわゆるオトポール事件の概要である。

◆「二万人のユダヤ人」救済の虚説

もちろん、今日「二万人のユダヤ人」難民がソ満国境に殺到したなどという荒唐無稽な話を信じている研究者もジャーナリストもほとんどいない。

2010年(平成22年)、樋口季一郎に関する最初の評伝が刊行された。ジャーナリストの早川隆による『指揮官の決断 – 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』がそれである。このなかで早川は、一般の読者にはあまり知られてこなかった、「二万人のユダヤ人」入満の虚説がどうして樋口の回想録に掲載されるようになったかの経緯を説明している。

「二万人のユダヤ人」の虚説の流布に関して、最大の被害者は実は樋口季一郎その人なのであるという。というのも、防衛省防衛研究所の資料閲覧室に保管されている樋口直筆の原稿には「二万人のユダヤ人」云々という記載はなく、また「二万人のユダヤ人を救う」という小見出しもない。これらの記述は原稿が編集される段階で何者かが書き込んだわけだが、早川が「問い合わせてみたが、案の定、当時の担当者はすでに亡くなっているということだった。現在、この件に関してわかる者はいない」という。

この「二万人のユダヤ人」の虚説が一人歩きし出したのは、樋口の回想録や相良俊輔による小説『流氷の海 ある軍司令官の決断』(1973)によるものであるが、数字の誇大化は、終戦後しばらくすると始まった。日猶関係研究会の三村三郎は、『ユダヤ問題を裏返して見た日本歴史』(1950)のなかに、「数万ユダヤ人の恩人 – 銀欄簿に輝く樋口中将を訪う」という訪問記を掲載し、そのなかには「ナチスに追われた約三、四万のユダヤ人が、アメリカを目ざして逃げる途中、シベリア線でソ満国境に差しかかった時です」などと自慢気に救出劇を説明する樋口が登場する。しかし、樋口の著作を読んでも、自分の功績を誇大に吹聴するような人物ではなく、『ユダヤ問題を裏返して見た日本歴史』は樋口以外に関してもでたらめな記述が多く、戦後最初のトンデモ本とも言うべき代物なので、このようなインタビューが実際に行われたのかどうかさえにわかに判断できない。

『流氷の海』の著者の相良俊輔は、1970年(昭和45年)10月20日付の「ユダヤ人二万の陰にの恩人」「ソ満国境に救援列車」という見出しの樋口の追悼記事のなかで、「これは日本陸軍が行った最大の善行と言えるでしょう」などと述べている。さらに元々少年向けの冒険小説の作家である相良は、子供向きに書いた『人類愛に生きた将軍 ユダヤ難民救出秘話』(1976)では「3月5日、満州里と国境を接したソ連領のオトポールにナチスのユダヤ人狩りから逃れてきた、やく二万五千人のユダヤ難民が吹雪の中で立ち往生」などと、難民数を水増しして、いいかげんな話を子供たちに吹聴している。

オトポール事件を実際に担当し命令書を作成した、松岡満鉄総裁の秘書・庄島辰登(満鉄会理事)は、3月8日に最初に到着したユダヤ難民を18名としており、その数は、樋口の遺品として1994年(平成6年)8月14日付の『北海道新聞』に掲載された写真に写る難民の数と合致する。庄島による満鉄会の記録調査によればも最初の18名についで、5人あるいは10名と一週間おきに相次いでユダヤ難民が到着し、三月から四月末までに総計約50人のユダヤ人を救援したとある。その後、第二陣、第三陣と少人数の難民が後続し、当時の「浜州線(満州里 – ハルビン)の車両編成や乗務員の証言から考えて100〜200名」というのがオトポール事件の実際である。

もちろん、1938年(昭和13年)の春にユダヤ難民がソ満国境にやってきた事件自体は史実であり、日独伊三国防共協定を結んだ後のことであるから、国会でも問題になっている。1939年(昭和14年)2月23日、第74回帝国議会貴族院予算委員会で赤池濃議員の質問に対して、有田外相は「シベリア経由で満州に入ったユダヤ人数は八十余名、百人足らずであり、満州国の官憲が満州国在留を希望しなかったので上海に向けたものと思われる」と明言している。

◆ ハインツ・マウルの『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』

ドイツ現代史の研究者、ハインツ・マウルには、邦訳のタイトルが『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(2004)という著作があり、題名から内容が容易に想像できるように、戦時日本のユダヤ政策を擁護する立場から書かれたものである。同書はドイツのボン大学に提出された学位論文を基礎にしたものである。

原文では、野戦重砲兵連隊長の橋本欣五郎(1890-1957;陸士23期)が大連特務機関の安江仙弘大佐(陸士21期)の上司であったり、美濃部達吉が「実濃部亮吉」、酒井勝軍(さかい・かつとき)が“Sakai Katsugun”、「水戸学」が“Mito gakkô”となるなど、日本の歴史と文化に蘊蓄を感じさせる意欲作である。

もちろん、問題点がないわけではなくたくさんあり、それは金子マーティンの論文「ハインツ・マウル氏の博士論文『日本人とユダヤ人』とその和訳本を検証する」にまとめられている。金子が採り上げている問題点は多岐にわたるが、原文と和訳を読み合わせていてすぐに気づくのが、和訳の57-58頁に対応する原文が学位論文に存在しないことである 。そして、他ならぬその個所でオトポール事件が扱われ、「いまや二万人ちかくにふくれあがったユダヤ難民」の話が出て来るのである。

原文がないのに和訳だけが存在するのは誰が考えても奇妙な話なので、この点について筆者が編集部に照会したところ、編集部を介して、翻訳者の黒川剛氏から回答を得た。編集部からの転送メール によれば、邦訳版は、学位論文をそのまま翻訳したのではなく、大幅に加筆した第2稿が存在し、それをもとに翻訳作業を行ったとのことである。
 以下に、和訳の57頁を示し、黒川氏からPDFファイルでご提供頂いた第2稿との異同を検討してみよう。

*黒川剛氏による翻訳

「しかし、ソ連当局は、これらのユダヤ難民がハバロフスク近郊のビロビジャン自治区への定住することを許可しない。そのため、いまや二万人ちかくにふくれあがったユダヤ難民が、満洲里対岸のソ連国境地域に集結してしまった。1938年(昭和13年)春のことである。満州国の実権をにぎっていた関東軍はこの問題の解決をせまられる。放置しておけば悲惨な状況におちいるほかないユダヤ人たちを救ったのは、樋口の果敢な介入であった。ユダヤ人迫害の政治的意味を知り、また清教的といってもよい人道的信念から、樋口は満州国外交部と折衝し、難民が合法的かつ早急に満州国に入国し通過することを認めさせる」

*黒川氏の提供によるマウル原稿(第2稿)

「しかし、ソ連当局は、これらのユダヤ難民がハバロフスク近郊のビロビジャン自治区への定住することを許可しない。その間、そのため、いまや二万人ちかくにふくれあがったユダヤ難民が、ソ連国境地域に押しやられた。それにともない、満州国の実権を握っていた関東軍は、ユダヤ問題に直面していることに気づいた。1938年(昭和13年)春、満州里という国境都市の近くにたどり着いた何千人かの避難民は、放置しておけば悲惨な状況におちいるほかはなかったが、樋口将軍の果敢な介入によって救われた。樋口将軍はその清教徒的な信念から、満州国外交部と巧みに折衝し、難民たちが合法的かつ早急に満州国に入国し通過することを認めさせた」

邦訳と実際の第2稿との間で決定的に異なるのは太字にある個所で、邦訳では単に「ユダヤ人たち」になっているところは、実際には「何千人かの避難民」(Tausenden von Flüchtlingen)である。マウルには第3稿も存在し、それが邦訳とおなじ『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(2007)が総タイトルになった単行本である。そこでは、「何千人かの避難民」 という個所はあるものの、「二万人のユダヤ人」への言及は消えている。

つまり、マウルは日本の読者には「二万人のユダヤ人」の虚説を提示し、ドイツの読者向けにはそれを書いていないである。学位論文に存在しなかった「二万人のユダヤ人」の虚説を含む文を何故加筆しなければならなかったのかという点が不可解だが、その点についてマウルが黒川氏に説明するところによれば、「日本の読者を対象とする日本語では樋口についてより敷衍した叙述があったほうが適切であろうとの趣旨」からだそうである。

さて、マウルの論文の審査委員は、ペーター・パンツァーとミヒャエル・ヴォルフゾーンである。前者は日本学の専門家で、時々来日し、ドイツにおける日本の書誌学などについて講演している。後者は、『ホロコーストの罪と罰 – ドイツ・イスラエル関係史』の邦訳が講談新書から出ているので、日本でも知る読者が多いだろう。

ヴォルフゾーンは、テル=アヴィヴ出身のユダヤ系ドイツ人で、イスラエルの国防省に勤務した後、ザールラント大学やミュンヘンのドイツ国防大学の教官を歴任した。ナチスのみならず「普通のドイツ人」もホロコーストに荷担したとする大胆なテーゼで物議をかもしたゴールドハーゲン事件ではそのテーゼを批判し、ジョージ・ブッシュ元米大統領の対イラク強硬策を支持する保守派の論客でもある。

日本語版の序文では、研究の協力者の名前が列挙されているが、そのなかでも一人の人物に「特段の謝意」が示され、「長年にわたり緊密な関係をたもってきた元防衛研究所共感郷田豊氏のおかげで貴重な知識を得ることができた」とされている。文中の郷田豊氏とは、「英霊に答える会中央本部運営委員」で、南京攻略戦に関連するいわゆる「百人切り訴訟」の積極的支持者であった、あの郷田豊である。

有事法制制定の積極的支持者として「日本会議」などでも講演する極右の理論家の提供する「貴重な知識」に支えられたマウルの研究体制は、ドイツの新保守主義と日本の歴史修正主義の結節点にあるものであり、関根真保は、マウルの著作が「ユダヤ人を虐殺したドイツとユダヤ人を救った日本を完全に二分化する」 ことを目的にしたものだという意図を的確に見抜いている。

「二万人のユダヤ人」の虚説の流布は、ドイツ史の専門家からも疑義が提出されており、ドイツ現代史の木畑和子は、以下のように批判している。

「日本における誤解の一例として、樋口季一郎というハルビンの特務機関長が、ソ満国境まで逃げてきた二万人のユダヤ人を満州に入れて、救ったという話をとりあげてみましょう。1990年代には日本の新聞にも雑誌にも「美談」として掲載されたようです。しかし樋口の話は1938年3月のことです。この時期まで毎年約二万人のユダヤ人がドイツから出国していました。二万人全部のユダヤ人その時期にソ満国境にいたとは考えられません」

マウルがソ満国境への「二万人のユダヤ人」の殺到について確信があるなら、ボン大学における学位審査の際に主張すべきであり、日本にはマウルよりも満州の歴史に詳しい読者が多いので、「日本の読者を対象とする日本語では樋口についてより敷衍した叙述があったほうが適切であろう」などという配慮は、余計なお世話である。それよりも、マウルには、その年にドイツから亡命したユダヤ人の大多数がソ満国境に殺到したという「驚愕の真実」を、日独の歴史関係の諸学会で発表し、日独の学術交流に貢献してもらいたい。
 日本におけるマウルの協力者をもっとも喜ばせたのは、おそらく、1967年(昭和42年)の米国からイスラエルのヘブライ大学への177名の留学を計画したニューヨーク市立大学のハイマン・クブリン教授(Hyman Kublin)の引用を含む以下の部分だろう。

「日本人はもともとユダヤ人への知識や関心が乏しかったこともあり、急に難民を憎め、 嫌えと言われても受けつけるはずはなかった。そもそも日本では争いを避け調和をはかるのが美徳なので、反目をしいるナチの宣伝は非日本的なのだった。反ユダヤ主義はどちらかというと軍部に多かったが、彼らといえども大量虐殺など考えたことはない。アジアの専門家ハイマン・クブリンはこう言っている。「日本の将校は残虐な行為もおこなうし、野蛮な行動もみられるが、ナチスの殺人鬼とは比べ物にならない。捕虜や占領地の住民を虐待したりそれを黙認したりすることはあるが、それは大抵その場の激情にかられたもので、悪魔的な大量殺戮計画の一部であったためしはない。たとえ自分の民族の優越性を確信していたとはいえ、ナチスのように他の民族を抹殺することでそれを立証しようとはしなかった」

日本では「争いを避け調和をはかるのが美徳」なので「反目」は「非日本的」なのだそうであり、日本の将校が「残虐な行為」や「野蛮な行動」を行ってもそれは「その場の激情にかられたもの」であり計画的なものではないとのことである。まるで、重罪犯に関して裁判官の情状酌量を求める弁護士の台詞だが、日清戦争以来半世紀も対外戦争を日本が遂行してきたのも、おそらく「争いを避け調和をはかるのが美徳」と日本人が考えていたからに違いない。

先の引用の転載は、ユダヤ人自身によって戦時中の日本とドイツの行為の隔たりを際立たせる効果を狙ったものだが、このあざとい戦略は、職業的な研究者を除けば、多くの日本の読者が「アジアの専門家ハイマン・クブリン」(「アジアの専門家」という説明語句も原文にはない訳者の追加分)がユダヤ系の労働シオニストであることに気付かないことから、効果を減じている。

◆「731部隊」の残虐行為の隠れ蓑

1938年(昭和13年)がいかなる意味を持つかは、満州の歴史に詳しい読者ならすぐ気づくだろう。樋口が在職していたハルビンの南方約20キロのところに平房という小さな町がある。そして、「この年の後半には、平房の複合施設がついに機能可能な状態にな」 ったのである。731部隊の「死の工場」(シェルダン・H・ハリス)が稼働し、細菌戦や化学線を想定した人体実験が、マルタと呼ばれた捕虜などを実験材料として始まろうとしていたのである。

「関東軍防疫給水部本部」(731部隊はその秘匿名称)に属していた三友一男(獣医軍曹、100部隊員)は、ハバロフスクの戦犯裁判で以下のように証言している。

「粥に約一グラムのヘロインを混入し、之を中国人の一囚人に与えました。… 食後約三〇分にて人事不省の侭約一五〜一六時間経過した後に死亡しました。… 私は朝鮮朝顔、ヘロイン、バクタル、ヒマシの種子の効力を調べる為、若干名の囚人に対してそれぞれ、五〜六回まで実験を行いました。… 私は又、私が実験にしようした囚人三名を憲兵が銃殺した時に臨場しました」

杉原千畝は、満州国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」 と幸子夫人に答えている。外交官としての諜報活動という職責上、千畝は五族協和の美名に隠れた満州国の「内幕」を知ってしまったのである。

「二万人のユダヤ人」の樋口美談が、関東軍の残虐行為から目をそらせる隠れ蓑として、国史を美化したい右翼や歴史修正主義者たちにとって格別の使い道がある理由がこれでわかるだろう。

相良俊輔によれば、樋口季一郎は「ユダヤ問題の権威」だそうだが、相良から見れば誰でも何らかの「権威」である程度にはそう言えるかもしれない。

もちろん、樋口は有能な軍人であり、その誠実さは疑う余地がない。しかし、『回想録』が樋口の最晩年に書かれたものであり、特にユダヤ関連の記述において要領の得ない話が少なくない。

例えば、「洋行せる日本青年がまず魅かれるのはユダヤ婦人であらねばならぬ」とか、「マルクスがシオニストであったという文献的確証がない」 などとする樋口を主張は、どうにも理解しがたいものである。

なかでも一番要領得ない記述は、上杉千年が『教科書が教えない歴史』(1996)に引用している、以下の一節である。

「かつて私が、秦(彦三郎中将)と共に南ロシア、コーカサスを旅行して、チフリスに到った時、ある玩具店の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、『私は天皇こそ、我らの待望するメッシアでないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見を持たない民族はなく、日本天皇はまたその国内において階級的に何ら偏見を持たぬと聴いているから』というのであった」

このエピソードにおける天皇は、ユダヤ教のメシア概念からかけ離れた存在であり、樋口が相良の述べるような「ユダヤ問題の権威」ならば、その老人が日本の天皇制に関して単に無知であると即座に判断できるだろうし、間違っても回想録に収録したりはしないだろう。樋口の立場は「『排ユダヤ否定』で充分であろう」というもので、それはそれで一つの見識ではあるが、樋口は健全な常識人で、それ以上でもそれ以下でもない。

◆ 歴史の真実を見つめて

旧軍内でユダヤ関連にまとまった知見を有していたのは安江仙弘だけであり、だからこそ、樋口はオトポール事件が「あって以後、ユダヤ人に関する問題が逐次重大性を帯びて来た。そこで私の同期であり、古くからのユダヤ問題研究家でありパレスタインにもいたことのある安江仙弘中佐を大連特務機関長として、その仕事に従わせるように進言した」 としているのである。

ユダヤ関連について記述した時期の樋口の記憶は、相当に混乱している。安江が大連特務機関長に就任したのは1938年(昭和13年)の1月、つまりオトポール事件の発生する以前のことであり、3月に桃源台に居を構えて家族を呼び寄せる以前に、「元旦を家族と名古屋の自宅で過ごした安江は、単身大連に向っ」ているのである。オトポール事件が発生した時、安江の一家はすでに満州におり、「二万人のユダヤ人」が入満しているのに、陸軍最高のユダヤ問題の専門家に何の連絡もなく、安江にまったく動きがなどということはあり得ない。長男の弘夫はすでに14歳の中学生であり、「二万人のユダヤ人」が入満したのであれば、大佐が軍務の委細を語らないにしても、父親をめぐる慌ただしい雰囲気を記憶しているはずである。

吉田俊夫は、1938年(昭和13年)頃、「ドイツから、ドイツ軍の迫害をのがれた約三万人のユダヤ系白系ロシア人が避難し(…)シベリア鉄道で満州里に到着し」、「安江大佐は、急を知って東京に飛んだ」 などと、オトポール事件の対応を安江に帰すような無茶苦茶な話をしている。安江はオトポール事件と何ら関係がない。安江大佐の長男の安江弘夫も、この弘夫と大連一中の同窓生でオトポール事件の際実際に命令書を作成した庄島辰登(松岡満鉄総裁の秘書)も「二万人のユダヤ人」の樋口美談を明確に否定している。

金子マーティンは、「二万人のユダヤ人」の虚説を「日本の国家主義者たちが繰り返す『おとぎ話』に過ぎない」と述べているが、まったくその通りである。

自由社に版元をかえた『新しい歴史教科書(市販本)』には、オトポール事件に関して、関東軍の参謀長であった東条英機(1884-1948)が、「『日本はドイツの属国ではない』として、部下である樋口の処置を認め、ドイツから抗議もうやむやにして、1万1000人のユダヤ人が逃げたと伝えられている」 などとしているが、そのようなことはまったく「伝えられてい」ないし、とりわけ当事者の樋口当人がそう述べていない。これは、単なるデマゴギーである。

このようなでたらめな記述が教科書にふさわしいか否かは自明であろう。およそ歴史研究に携わるものなら、一人の目撃者もなければ証言もなく、いかなる史料や記録にも載っていない、二万人のユダヤ人などという「おとぎ話」からそろそろ卒業すべきである。

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