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*「ある昭和史 --『父の子』である私」(29)

… 時代閉塞の現状が続いている。
 
安倍元首相の暗殺事件の後も、政界では安倍氏の遺した負の遺産は続き、議会では閣議決定の追認に過ぎない熱のないやり取りが続く。

自民党員と旧統一教会の関係が次々と暴露され被害者救済法が可決されたが、カルト宗教の問題が創価学会に波及しないようあちこち抜け道の作ったザル法になりかねないと懸念されている。
 
集団的自衛権から共謀罪、秘密保護法などを強行採決した自民党による数の暴力は終わることがない。
 
東京オリンピックをめぐる収賄事件が暴露され、自民党による金権腐敗政治は、政治だけがいまだ「昭和」に取り残されている感がしきりである。
 
◆  大宅壮一の弟子だった義父の植田康夫のこと
 
さて帝京大学の筒井清忠氏が編集した近著『昭和史講義』(二○二二)を読んで、久しぶりに義父の植田康夫の名前を見出した。
 
「一九六七年一月大宅は、東京マスコミ塾を開講した。ここではノンフィクション・クラブの多くのメンバーが指導に当たった。同年五月には、青地晨・大森実・梶山季之・草柳大蔵・藤原弘達・渡辺雄吉・金子智一と同塾第一期の優秀者(植田康夫・山岸駿介)で東南アジアを訪問した」
 
この東南アジア歴訪の旅については少し聞いたことがある。
 
「大宅は外見からは豪放磊落に見えるが、仕事ぶりは繊細で、依頼された原稿が確実に着いたか一つ一つ確認の電話を入れるんだよ」
 
周知のように、大宅壮一は戦時中はジャワ派遣部隊に帯同し、陸軍の宣伝隊にいたので、戦後はその戦争協力を恥じて、一度は筆を折ろうとしたが、ジャーナリズムの後進を育てることでその償いをしように考えを変えたという。
 
書評紙の『週刊読書人』の編集長を長らく務めた義父は、日本出版学会会長を経て母校の上智大学新聞学科に迎えられ定年まで勤め、大宅壮一記念館の副館長もしていた。
 
書き手ばかりが重んじられる日本の出版界で、編集や出版の重要性を唱え、学問としての道筋をつけた草分けで、『百科全書』の編者であるディドロを尊敬し、「良き編集者なくて良書なし」が信条だった。
 
日本では「出版」という言葉をあまりにも狭く捉えており、英語の publish の語源であるラテン語の publicare に由来し、本来「名も知れない多くの人々の勝手な使用に任せる」という意味で、街頭で自分の意見を表明することだって、publish と言え、エディターシップをもう少し広く考えるべきだと提唱しいていた。
 
◆   旧安保闘争以来の国会議事堂前での大規模デモ
 
若い時分から世界を見て周り、大宅壮一の弟子として八面六臂の活躍をしていた義父も、晩年は病を得て数年前亡くなり、翌年義母も後を追った。
 
二○一五年九月一四年の夜、安倍政権が強行採決を目指そうとした集団的自衛権の容認に反対する大規模デモがあったことは記憶に新しい。
 
海外にも広く報道されたこの大規模デモには、もちろん私も参加し、歩道に溢れた人々が防護柵を倒し、旧安保以来未曾有の人並みが国会議事堂前に殺到した。
 
その人いきれと喧噪とシュプレヒコールは、まだ昨日のことのように覚えている。
 
私が驚いたのは、この国会議事堂前に義父も参加していたことだ。
 
もう足元も覚束なくなりよく転ぶようになった義父があの人並みの中にいたとは驚きで、後に「孫ができたからな … このまま戦争になり、徴兵制にでもなったら大変なことになる。岸信介の孫だから、何をするかわからん」とのことだった。
 
義父は六十年安保の際には、よくデモに参加していたとのことだった。

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