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父と、私と、うなぎを食べる旅

うなぎが食べたい。丑の日が今年も近づいている。いや、まだまだか。こんな早くからうなぎのことを考えてしまう。


うなぎの匂いを嗅いでしまった。私の住んでいる小さな町で唯一(だと思う)のうなぎ屋さんの前を車で通ってしまった。そこではうなぎのいいにおいと、タレが焦げる匂いと山椒の匂いがした。どうしようか。この気持ち。


もう絶対に叶わない恋を学校の先生とかそういう毎日会う人に対してしてしまった少女のように私の心は揺れる。うなぎってうちで食べても美味しく無いんだよなあ。お店やさんで焼かれたやつ食べないとだよな。


でも高いんだよなあ。恐ろしく高いんだよなあ。だれか、珍しく私を魅力的だと思う独身貴族の男性がおごってくれたりしないかなあ。


こんなふざけた出だしだけれど、今日はちょっとヘビーな話になりそうである。


うなぎといえば、父だからだ。うちの父は、(うちの乳は、と出てきて慌てた)大のうなぎ好きだ。愛知県に住んでいた頃(私が幼い頃)なんかは愛知県のうなぎはさほど高いものではなくて、3大外食(と私たちが呼んでいた)である寿司、焼肉、に並んで「まあ別に月に1度はいくよね」というレベルのものだった。


それが今やなんだ。寿司は回転寿司ですっかり安いし、焼肉だってうなぎほどはしない。うなぎは高すぎる。


話を元に戻すと。


父はうなぎが大好きだった。水槽の中をうなぎがうようよ泳いでいて、これさばいて、と指をさせば目の前でさばいて焼いて、重に詰めてくれるような店に通っていた。


うなぎを食べにいく時だけは、父は母も誘った。2人が喧嘩以外で口を利き、母が父の車に乗るのはうなぎを食べにいく時だけだった。車に乗って店に入っていく私たちは、まさに家族みたいだった。その行きつけの鰻屋に入っていくとき、私は心の中で「入場!」と唱えていた。それは私たち子供にとって、とても特別な時間だったと思う。


だから、うなぎを食べて家に帰ってきたとき、また父と母はしばらくお互いにいないふりをするのだろうな、と思い子供の私はなんとも切なかった。帰って、父は風呂に入り、母は二階に上がっていく。そのままの2人で晩酌でもしたらいいものを、そういうわけにはいかないようだった。


私の住んでいたのは外から見れば新築の、よくいる中流階級の人たちが住む住宅地に立っているなんの変哲も無い家だった。ただ、中に入ってみれば、この家の人たちが困ったことになっていることは誰でも察しがついただろう。というのも、玄関を入って廊下があり、そこを右に曲がると、壁に直径30センチほどの穴が開いていたからだ。父がグーでパンチしてあけた。血も付いていた。そしてリビングに入るための木製のドアは壊れていた。開きっぱなしでうまく閉まらない。これも父が殴ったからだった。


世の中には自分の怒りが生まれたとき、それをうまくコントロールできない人が大勢いる。でもうちの父はそれとはちょっと違っているように見えた。彼の怒りはどこかから生まれるのではなく、いつもそこにあるようだった。簡単に開く引き出しみたいに、1日に何度もそれを開け、中身をぶちまけるようにして、怒りを外に出していた。そしてそれを片付ける役目を母はとうの昔に放棄していたのだから、それは痕跡をそのままにし、私の家の中を汚した。


私が17歳のとき、裁判の末、両親が離婚した。父はすぐに精神病棟に入りアルコール中毒患者として断酒を始めたのだという。悪い案では無いと思う。そこでは、酒によってなにを失ったか、という授業があったらしい。


こどもみたいにさ、一人一人前に立って発表するんだ。画用紙に「酒のせいで失ったもの」をマジックペンで大きく書いて、それをみんなの前で破ってみせる。


つまり酒で会社をクビになったのなら「仕事」と書いて、破産したのなら「財産」と書いてみんなの前でエピソードを話し、その紙を破る、というわけ。そこで父がなんと書いたのか、少し気になった。もし「家族」と書いたならそれは間違いだ、といいたかった。私たちが壊れたのは、酒のせいでは決してなかった。しかし私と父は、そこまで話さなかった。


どうしてこんな後日談を知っているか、というと、2019年の冬に一度会っているからだった。それは、両親が離婚して、父の接近禁止令が出てから12年ぶりのことだった。禁止令が出ている以上、父から会いにくることはできない。子供から会いに来るのをただひたすら待つしか無い。


どうして会ったのか、といえばズバリ「鬱を治したかったから」。父に会いたいとも、会ったら父が喜ぶだろう、とも特に思わなかった。ただ、うつ病の治療がマンネリ化しており、


薬を増やすほどでは無いけど、減りもしないね、このままでは。


と医者に言われたからだった。何か自分のためにするとしたら、と考えた末、何も知らない私は自己流でショック療法を行なった(つもりだった)。過去のトラウマと敢えて対面することで何か好転することがあるかも、と考えたのだった。


そして、ひとつしたいことがあった。


私はとある医療機関に電話をした。「25万かかることは知っているんだけれど残念ながら手元に20万しかない。私は鬱で働けないし、こういう事情で、父のことでは母親に助けを求められないので」とすべて説明して頼んだら、受付の人が泣いていた。20万で快諾してくれた。


私は、初任給の20万をずっととっておいて、それで父にカウンセリングをプレゼントした。全10回。ずっとそうしたいというアイデアがあった。正確には親子カウンセリングだが、親と子は別で、医者が育てたカウンセラーたちと1時間話をし、その後2、3時間のワークをやる。


ワークでは、お父さんとお母さんとの思い出、だったり、されて嬉しかったこと、悲しかったことなどを書いたりする。それはグループでやるのだけれど、部屋のそこかしこから嗚咽が聞こえてきてやるせなかった。私は泣く気になれなかったので、もしかしたらそのほどの被害を受けていないのでは、と思えたほどだった。


そう、うなぎ。


私が海外にいた時、もうだめだ、と思うことが幾度かあった。その時、父と手紙のやり取りをしていた。父はいつも「なにが食べたい」と聞いた。「寿司でも、焼肉でも、なんでも食わせてやるぞ」。父は何か美味しいものを食べてよく眠れば、大抵の悩みは解決すると信じて疑わないようだった。


私は、寿司と焼肉はいいから、うなぎが腹一杯食べたい、と書いて送った。1週間ほどで、真空パックのうなぎが5尾届いた。静岡県産のいいうなぎだ。タレをかけるだけで香ばしい炭火の匂いまで楽しめるお取り寄せの一品だった。


帰国したら、捌きたてのを食べさせてやる。必ず会おうな。


と手紙が入っていた。そして、帰国したら、本当に会った。この小さな町に迎えに来てもらって、愛知県まで行ってうなぎを食べる一日がかりの旅だった。自分が普段住んでいる町に、かつて世界で最も私を怯えさせた人間がいるなんてシュールの極みだった。でも会った。


私は、もう父よりも背が高かった。声も大きい。なにをされても怖くない。12年ぶり、コンビニで待ち合わせした時、軽のとなりに小さく佇んでいる猫背の父を見て、こんな人に怯えて暮らしていたのか、と拍子抜けした。いまでは父の方が、私の表情に怯えているような節すらあった。


一方、私を見つけた父は、あまり私の顔が見られないようだった。下を見て、コンビニで何か食べたいか、必要なものはあるか聞いた。コーヒーはどうか、買ってきてやろうか、という。コーヒーは飲めないから、と言いながら、そういえば父は私が好きなものや嫌いなものをなにも知らないのだった、と改めて気づいてぎくりとした。


腹減ったな、どこかでモーニングでも食べようと言われた。朝の8時に待ち合わせたから父は6時くらいに家を出たはずだ。なにも食べてないなら相当空腹だろうな、と思い、そうしよう、と答えた。


一緒に朝マックをして、ドイツ人と結婚した、と告げた。どんな人か、と尋ねるので、小さな頃に火事を経験していて、家がなく、とても壮絶な幼少期を過ごした人だ、ということを話した。父は、そうか、そうか、とうつむきながら聞いていた。


その後、愛知県に向かい、知らない小さな村を一周して、うなぎを食べた。夕方に、なぜかカレー屋に入り、それも食べた。帰ってきて知らん顔して、ばあちゃんの作った銀鱈の煮付けも食べたはずだ。よく食べた1日だった。


うなぎのいい匂いにはそそられるが、うなぎを食べに行くのは父と、と決めている。1人で食べに行ってもどうせいろいろと思い出してしまうし、なんとなく抜け駆けしたみたいで気まずい。あれ以来、しばらく連絡を取っていないので、また手紙でも書こう、と思いながらもう一年半が過ぎた。


そういえば、最後、父と別れる時、唯一まともにした会話が好きな歌手の話だった。


どこかの学校から蛍の光が流れていた。どちらからともなく帰る話をし、家の近くの公園に駐車した。父の車の中ではいきものがかりがエンドレスで流れていた。


声も歌詞も好き。とてもよく聴く。


ということだった。父の好きな曲は「歩いていこう」だという。わたしは、「心の花を咲かせよう」が好きだと答えた。父は、そうか、とだけいって、私たちは別れた。


私は、幼い頃から家を出ていくまでずっと、あの家に帰りたいと思ったことは一度もなかった。それなのに、「帰りたくなったよ」を聴くことがある。すると必ず、みんなで住んだあのマッチ箱みたいな家のことを思い出す。




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