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改めて自己紹介

1983年12月21日生まれ
京都出身福岡在住

誕生 

 4時41分という眠たい時間に産まれる。どちらかというと落ち着いた男の子だった。産まれた時は女の子と思われていて、「ゆう」という名前を付けようと考えていたらしい。

幼少時代

 幼稚園の頃から他人の目が気になる。トイレに行きたいのに言えないため、日中おもらしを何度もしていた。あまりにもひどかったので着替えを幼稚園に持っていくようになる。
 小学校でも授業中に漏らすことが多かった。もちろん着替え持参。幸いなことにそれが理由でいじめられることはなかった。
 物心着いた頃から車が好きで、車の図鑑を毎日見ていた。家の車、親戚の車を目をキラキラさせて眺めていた。さらに車に乗ることも好きだったみたいでグズったら車に乗せてご機嫌を取っていたらしい。

どんな子?

 宿題はなるべく早い段階で終わらせるタイプで、算数の計算ドリルは休み時間にちょっとずつ終わらせていた。何かをコツコツとすることが好きな男の子。一方で本を読むのが大嫌いで読解力が欠点。読書感想文は起承転結なんて皆無。相手の何が言いたいのか分からず、自分も何を言いたいのかわからない話し方。だんだんと口数が少なくなり、何も言い返さないことを理由にいじめられる。
 親の勧めで少年野球を始める。自ら進んでやりたいと言ったらしいが記憶にない。練習に行くたびにできないことを怒鳴られて仮病を使って練習をサボる。行きたくないと親に言うと、問答無用で行きなさいと言われる始末。休む(サボる)ということを見抜いていたのかもしれない。

中学生の初恋

 中学になり親に言われるがまま野球部に入る。同じクラスの陸上部の子に初恋。陸上部はグラウンドの隣で練習していたのでチラチラ見ていた。高校は陸上部にしようと決めた瞬間だった。勉強と部活の毎日に考えることを停止していた。数学、理科、英語が好きだったので直結して成績も良かった。公文式や塾に通い始めたから英語と数学の学力はどんどん上達。しかし国語は全然ダメで国語の中でも古文はなぜか成績がよかった。その理由は百人一首。家族で百人一首取りをやっていてどうやったらたくさんの枚数取れるか考えたところ、上の句5文字で下の句と結びつけることを発見。そんなことをしていたら70%百人一首の句を覚えていた。記憶というより記憶したものを応用することが好きだったみたい。

受験の失敗と学生のもどかしさ

 高校受験は失敗した。公立Ⅱ類(偏差値60台後半)が余裕で受かるぐらいの学力を身に付け遊び放けていざ試験を受けたら全然わからなくてギリギリ公立Ⅰ類に合格した。
 高校では陸上部に入部。しかし初恋の相手は別の高校へ。総体で円盤投げで出場させてもらい、10人中7位で入賞。いや初めて円盤投げたんだけど…短距離希望なんですけど…
 高校1年はずっと投擲種目のメニューをこなしていました。2年に上がり、短距離選手としての練習メニューに参加。腕だけじゃなく下半身のトレーニングをこなしていたからタイムの短縮がすごい。入部当初の100mの記録、2秒短縮とか恐ろしいわ。そんな中出場する大会は全て予選落ち。予選で6位とかへっぽこでしょ。真面目に取り組んでいなかったので伸び悩みもあっただろうし。そんな中同じ部の人と恋愛関係になったのだが、鈍感だったので卒業と同時に知ったのはかなりタイミングが悪かった。よし、大学では彼女作るぞ!と決めた瞬間だった。
 高校時代の勉学は申し分なし。指定校推薦狙える学力だったので、そのまま指定校へ。高校入試の同じ過ちを犯さないために卒業までちゃんと勉強した。けれど、何がしたいのか?という進路指導の先生の問いには明確な答えができなかった。将来の夢なんてなかった。

大学生活(分岐点)

 某バスケ漫画のセリフじゃないけど、高校と大学を選んだ理由は家から近かったから。やりたいこともないし、大学は自分で授業選べるしテキトーに卒業できればいいや。なんて思っていた。部活動もする気なかったけど、自動車部は興味あったけどスルーした。ソフトボール部に一時期入ったけど、練習グラウンドが別のキャンパスだったので移動がだんだん面倒になり辞めた。そんなこんなで大学1年が終わり、2年もなんとなく終わり3年になった頃、入ったゼミで人生が少し変化する。なんと同じゼミで友達ができた。しかも遠方から来てる人でバイク通学とかかっこよすぎ!乗ってるバイクもかっこよくてボクもバイク乗りたい!いっしょにツーリングしたい!ってことで免許を取りに行くことに。

 そして人生初めてのバイトをするわけだが、コンビニ、食品梱包、回転寿司の裏方を経て冷凍庫内の冷食アイスの仕分け作業を勤める。将来なんにも考えていなかったボクが単純な仕分け作業に喜びを覚えたのだ。

 もちろん免許のお金はすぐに手に入れ取りに行って即効で卒業してきた。友達みんなでバイクを買いに行ったり、ラーメン食べに行ったりはとても楽しかった。唯一の学生時代の思い出。

 ちょっと話が脱線したがこの仕分け作業が物流の仕事の一部だとは知らなかった。そしてまずバイトの仕事について詳しく調べていたら「荷役」という一部に仕分け作業があるらしい。そんな時、大学の講義で「ロジスティクス」というものがあった。もちろん出席率100%で講義を受け、教授にロジスティクスに興味がありますってことを伝えた。名刺を見ると某有名物流会社の人だった。自分が携わっている仕事の講義を受ける楽しさを味わった瞬間だった。

就活と研修。そして転職

 迎えた就活シーズン。志望動機なんてなく、ただエントリーシートを出し、それなりの理由をつけて応募する日々。なぜかホイホイと内定を出してくれる会社があったので、もうそこでいいや~って感じで生協関係の物流会社に入社。ここまでなんとなく時間に流されてイベントごとを終わらせてきた感じ。中身なんて何もない。そんなボクでも就職はできた。しかし辛いのはここからだった。
 入社して最初は研修。会社がどういうものか、そしてどういった役割を果たしているのか。また各部署はどういう機能をしているのかを経営幹部にプレゼンするという試練を新入社員一同に与えられた。ざわざわとする中、ボクはホワイトボードに「DC」「TC」「管理部」「配送部」と書き出し、既に配属先は全員公開されていたので各々に調べる項目を伝えていった。1ヶ月という短い期間の中で途中各グループ内での発表をし、改善していく。そんな指揮を取りながらも自分の与えられた項目についても調査する。そしてヒントはホームページにあったことをみんなに知らせ、なんとかプレゼンを終えることができた。感動するような、話に聞き入るようなプレゼンではなかったが、無事終えることができた。自分だけでなく、周りの人たちがそれぞれの役割を全うする姿勢にとても嬉しい気持ちになった。

 そして配属先。まずはこの物流センターの全体像の把握と各部署の役割を調べた。自分の持ち場について知ること、またフォークリフトの練習もあり時間は限られていたが各部署には作業進捗を確認するパソコンがあり、それには過去の作業量と作業時間、商品破損件数、作業ミス(クレーム)内容の詳細レポートが保存されていた。まずはそれを元に作業処理能力を割り出し、現在の能力と乖離があるか調べた。また、在庫の変動。時期によって増える商品減る商品があることがわかった。一つ一つのイベントの準備がこの営業所で求められていることだと考えた。決められた時間に作業を終わらせるのは当然のこと、その中でいかにして繁忙期というイベントをクリアするのか。そのためには今不足していることは何なのか。人なのか場所なのかやり方なのか。頭を悩ませる日々を過ごしていた2年。ふと同僚に誘われて飲みに行った時の話題が「会社辞めようかな」というものだった。

 特に不満はなかったが上司の振る舞いや姿勢は目に余るものがあったのは間違いない。新たなセンターができるという話があり、抜擢されると思っていたボクはそのまま残留となり落ち込んでいた時にこの話はさすがに心を揺さぶられる。上司が嫌だ、パートが嫌だ、会社が嫌だ、先輩同士の仲が悪い、いっしょに働きたくないなどなど、不平不満のオンパレード。思い当たる節はある。
 以前、上司の上司から頼まれた仕事を直属の上司を通さずに報告したら、直属の上司からお叱りを受けた。「えっ?なんで?」っていうのが本音だった。おそらく会社というものは例え1つ飛ばしで頼まれても報告は直属の上司へとしなければならない。
 また後輩が入社して仕事を覚えている段階で、後輩が仕事の対応をミスしたとき、後輩の前でこれまたお叱りを受けた。新しく入ってきたパートの人がミスをした時も同じだ。上司の頭には教育期間というものはないらしい。理不尽だった。

 そんなこともあって飲みでの話題に賛同してしまった。まさに人生の選択の失敗だ。自分の確固たる意思はなく、ただ流れに流されてした決断。なぜ辞めたのか。そんなものに理由はない。上司の理不尽さが理由として挙げられるが、それで納得できる時代ではなかった。

旅行という名の自分を冷静にする期間

 ストレス反応として、動き回る気質がある。お腹が減ったら食事を食べるようにストレスが溜まったらドライブに出かけたくなる。そうやって現実逃避をしていた。会社を辞めたあと、行きたい場所に旅行へ行った。名古屋、長野、そして東京。名古屋はただホテルに泊まるだけで観光はしていない。長野はある少女漫画の聖地となった場所に行ってきた。そして東京。歌舞伎町、キャバクラ、そして風俗へ。こういうお金の使い方は初めてだ。1日で25万使ってきた。この経験が後にいい思い出になるとは思わなかった。
 

 現実逃避から帰ってきて、バイトを掛け持ちした。学生時代にお世話になったバイト先と食品メーカーで原材料の荷受。数量検品と温度検査。工場内では必ずマスクと白衣着用。消毒室で全身を消毒してからでないと入場禁止。小さな会社であってもこの徹底ぶりは食品内に菌を混入させない覚悟があるからだろう。自分が少しでも関わった物が店頭に並んでいると、ちょっと嬉しくなる。

恋愛成就?

 1年間、そんな生活をして、とある諸用で九州へ上陸。1ヶ月ほど住み、この住み心地の良さに感銘を受けた。あ、次は九州に住みたい。
まずは就職先を探した。いきなりというとさすがにハードルが(当時は)高かったのでまずは地元で就職した。ここがまた面白いほどのブラックだった。けれど、人生初めての社内恋愛告白失恋の3連コンボを経験するなんて思わなかった。会社の風土は上司が帰るまで退勤は厳禁。よって帰りは家族に迎えに来てもらう。終電を逃すことは日常茶飯事。ミスをしたらものすごい剣幕で怒鳴られる。みんな基本無口。居心地の悪い職場だった。しかし、同時期に入社した女性は可愛らしく、落ち着いていて時折見せるおっちょこちょいな部分は愛らしい。もう一人の女性の方はボクと趣味が合う人だった。

 3ヶ月が経った。前者の女性とよく帰りを共にし食事に行った。でも休みの日にデートに誘う勇気はなかった。ボクなんかが誘っても迷惑だろう。そんな思いが露呈したのか、夜ドライブに誘って告白したら撃沈した。仕事へのモチベーションが急降下した。もっと自分に自信があれば。そう思って転職先を探した。

 営業の仕事。これがボクにとって一番勇気が必要で自信が付く職業。この際だから九州へ。熊本勤務の募集がヒットし、内定をもらったが勤務は鹿児島になるとのこと。自分の甘えを断ち切るため、勤務地は京都から遠いほうがいい。そんな思いで営業の仕事に就いた。そこでまた同じ過ち(?)をしてしまうことに誰もまだ知らない。

初めての彼女、そして女性の冷静さと巧妙さ

 失恋の未練を断ち切るため、新たな土地での再出発。そうしたら同時期に女性が1人入社してきた。弱点克服と仕事に集中をしてきたので全く気にしていなかった。そして行われた歓迎会で事件は起こる。なんとお持ち帰りをしてしまったのだ!しかし事を終えた翌日、ボクはなぜか冷静だった。一方で相手は動揺していた。時間が経つにつれ、自然と付き合うようになっていた。

何ヶ月かしたある日、ボクは彼女を温泉に誘う。その時ボクは福岡の物流会社に転職していてこの人なら結婚してもいいかな~なんて思っていた。相手に子供が2人いることも知っていたし、離婚歴があることも知っていた。ボクの給料が低いからダメと言っていたことも覚えている。

 でもなんとなく大丈夫かな。しかし女性というものはとても現実的だ。温泉旅行の終了間際、彼女は携帯を失くしたと嘘をつく。後から聞いた話だが、その時既に別の彼氏がいたそうだ。実際福岡と鹿児島だからかなりの距離があるし、通えるほどの経済力もないから言われるがまま、諦めた。もう恋なんてしない…

Twitter開始

そんな人間関係に揉まれ生きてきたボクはTwitterを始める。自分の意見を堂々と発信できるこのツールに吸い寄せられるかのように。最初のうちは愚痴ばかりつぶやいていた。もちろんフォロワーが増えるわけでもない。単なる自己満足で終わっている。次にニュースにコメントをするようになった。自分はこの事例についてこう思うと主張したかった。するとそれに反応してくれる人もいた。そんな時一人の人と出会ってしまった。

 その人は脳機能科学を専門とする博士だ。彼の執筆した本のおかげでボクは様々な洗脳をされていたことに気付いた。そのことから派生してスピリチュアル、守護霊や占い、エネルギー、瞑想、チャクラなどについて興味を持つようになった。怪しいと言われればそれまでだけど、脳の仕組みを知った上でスピリチュアルな情報に触れてみるとよく理解できる。怪しいなんて思わず心理現象を利用したものだということがわかった。

その一方で自分の経済力にも目を向けた。

このままでいいのか?

やり残したことはないのか?

 そんな事を考えているとやりたかったことが見えてくる。それが乗馬だった。とにかく馬という動物に触れたかった。まずは趣味として始め、それからインストラクターになるための養成学校に入学。150万ほどの資金を注ぎ込むことになるが、これもやり残しを無くすためのもの。後でどうにかすればいい。無事1年間の養成課程を終了し会社内限定のインストラクターになることができた。もちろん宿直業務もやった。2時間ごとの見回りはさすがに体力面で辛い。一方で経済力は付いた。順風満帆に見えたはずなのに…

会社に勤めることに不適合?

 その会社は半年で辞めた。そして前の会社に出戻った。人生の巻き戻し。前の会社ではそれなりに上司からの信頼もあり、実績もあったので二つ返事で戻ることができたが、経済面での不安はやはりあった。

結局は経済力

そして今、ボクはもう一度経済力の面、そして自分を発信すること、会社の人形になるのではなく会社と対等の立場になるべく、奮闘している。

以前ボクはこう思った。


これからの時代、給料だけがお金を得る方法ではない。様々な方法でお金を得ることができる。会社に勤めるというのは一部に過ぎない。




今この言論を実現しようとしている。

会社を辞め、個人で稼ぐ時代。そしてそのためには自分という人間を周りに知ってもらう必要がある。Twitterはその手段の一つ。まずはこいつは何者だ?というところから知ってもらう。それが今ボクがやるべきことだ。

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