R5.9.1

仮に
自死含めて死を受け入れるメンタルをG、
退職直前から今に至るまでの自己効力感が一切無い精神状態をE、
自身の限界に直面して解決を迫られる危機的状態をD、
漫然とは生きていられる状態をC、
未来に向けて期待して努力を積み重ねられる状態をB、
曲がりなりにも人生が楽しいと感じられる状態をA、
と呼ぶ
定義がバラバラなのは自分で思い返すために時系列で並べているだけだから

ここ4年ほど振り返るとC→D→Eで推移してきた
そして無職になってからもEから戻れなかったが、ねぎ姉さん無料キャンペーンなどの精神の退行により一時的にDないしCに戻れたので、客観視するため急いでこの日記を書いている

自己効力感で見ると、DEがほぼゼロでCはそこそこありABは問題無くあるので意識する必要がない
人としての面白さで見ると、DEがどちらもヤバくてCはまあどうかとは思われる程度、なお別にABも即ち面白いわけではない
報酬系が機能して努力の積み重ねができるのはAB

D、Eの状態について
未来の無さに直面しているせいでいつも水に溺れているような危機的不安感を味わい続けており、脱却のために目先の救いばかり求める。そのための努力の継続などできず、それどころか自分のためになることもできなくなる
また自己救済に直結しないものをすべて無価値だとみなすせいで顕著に記憶が衰えている
一言で言えば「人として終わっている」ので、この状態からなんとか脱却する他ない

とはいえD、E状態の脱却は真剣に難しい
自覚したからといって簡単にCに戻ることはできないし、今こうやってC状態でも不意にDEに戻るおそれがある

それはなぜかといえば、現実の問題は何一つ解決していないからだ
「シラフのまともな脳みそで考えても人生が詰んでいるのでこの先好転するわけない、今すぐ死ぬしかない」…と、思考がループし続けるのだ

実際、それはそうなのである
人生が不可逆的に詰んでいるのは事実である
つまり、どうやって目を背けて乗り越えるのか?となるのだが本当にそれが難しい

これは言葉遊びで解決するものではないし、他人の解決策をマネしてすぐに解決するものでもない
なんなら自分自身の過去の手法すら、それをその解決のためだと意識するだけで上手くいかなくなる
(偶発的な大笑いでリラックスすることはあっても、リラックスするために意識的に笑うことが非常に困難であることと似ている)

だから自分に向けて何度も書いておくが、Cに戻ることが本当に難しいのだ

今回Cに戻ったきっかけは…過去に好きだったものに浸ることで安心感を思い出したこと、また偶然同時に有意義だと感じられることを思案していたこと、あと秋風によるものだと考えている
またこれ以外では心からの大笑い、大泣きなどによってリラックスすることで不安感が払拭された経験がある
再現性のあるように書くと「脳内物質レベルでのリラックス」と「ワーキングメモリから不安に繋がる事実を忘れる」ことだ
つまり俺みたいな阿呆が頭の中の理屈をひねって戻れるものではなくて、精神医療のように物理的な変化が必要なのだ(これはDE状態でも同じ認識ではあったものの、たとえば軽い運動といった程度では解決しなかった)

では一旦Cに戻れたので…、次はそれをキープする必要がある
だが何度も何度も書くが、DE状態の自己批判的な思考はC状態の自分にとっても変わらず無視できない正論であるのだ
C状態に戻ったからといって「DEの頃の考えは自分でも気が狂ってたな〜」となるわけではない。いや…人によってはそれも解決手段のひとつとなるのかも知れないが、他ならぬ『俺』が『そう感じられない』のでうまくいかないのだ
なので俺の場合、CからDに陥らないようにするため不意に不安を覚えるたびにDに戻らぬよう自分で自分を説得しなければならず、なかなか難しい。これはレスポンチバトルなんかの論破とは異なり、しょうもない搦手が一切存在しない…

『俺にとっての正論』を否定するには?
ひとつとして捉え方をずらすことを試みる
ビンの半分の飴を「もう半分しか無い」と見るのか「まだ半分も残ってる」と見るのか、事実は変わらなくても受け取り方を変えることはできる
(この喩えは5歳の時点で『ブッダとシッタカブッタ』で知っていたが…覚えているだけの知識がいつでも活用できるわけではないことが悲しい)
つまり認知療法を無自覚的に行うことに解決を求めるわけだが、こうやってその構造を意識するとまたすぐに自己批判がつきまとう…

最終的にCから目指すべき状態はCの維持、もしくはBまで戻る、或いは努力や生活の変化によりCDEではなくてXYZといった別の軸を手に入れるべきだろう

改めてだが便宜上でABCDEと書くとまるでまっすぐ繋がった一本道のように自分でも錯覚するが、これらは全くの無関係だ
いや…それどころか…
「あの頃の考えは自分でも気が狂ってたな〜」という捉え方ができるような『過去と現在の自分を切り分けることができるのでそれで解決する人』がいるとして、
俺はそういう考え方ができない――自分自身の連続性を求めちゃう、どこでもドアがスワンプマンだったら怖い、亜人の佐藤みたいなこと出来ない――
だからABCDEで切り分けることで自分を錯覚させたのだ
なんのため?俺の場合はそれで自分を論破できる、というだけにすぎないからだな
もう少し知性があるなどで直感的におかしいと感じられたら成り立たなくなる


これは俺自身が精神の恐慌状態から一時的にでも脱却したから慌てて残す備忘録であって、もちろん万人にとっての正解なんかではないし、なんなら未来の自分でも再現できるかすら怪しい
そのことを「正解なんて存在しない」というありきたりな物言いに言い換えたりしてもいいのし、言い換えなくてもいい

要は『自分』が『信じられる』結論を得た状態、それだけが救済に必要ではあるが、この一文によって結論を得ること自体を目的としても結論には辿り着けないというものだと理解しなければならない

その『結論』というのはまるで真理や悟りに似ている…が、ここに至るまでのそれらしいワード含めて、その用語の解釈が合っているかどうかは怪しいとは思いつつ、その正誤すら俺にとって重要ではあるが必要ではない
なぜなら『俺』が『そう信じている』という一点があるからだ
(パピヨンの理屈と異なる点は、生牡蠣には当たること)

客観的に言っても救済手段として精神分析を選ぶ場合、より深く正確に学んだ方がいいのは間違いないだろう
ただそれは自己説得力が高まるという点だけに意味がある。誤った解釈から得た結論は崩れやすいが、自分の中では成り立たないわけではないからだ
マザカルカノンに出てくる、些細な失敗で「うう…俺はなんてダメなんだ石油王になりたい…(俺のうんこが石油にならないかな…)」と1コマでのたまうキャラクターに共感するのは、自己効力感の崩壊に慣れすぎたあまり、立ち直るために同時に思考のスライドを始めるという強かさがあるからだ
もちろんそのキャラは間違いなくダメ人間だし、石油王になれないしうんこは石油にならない(と俺も考えている)が、だからといってダメという事実を直視しても何も解決しない。だから一旦目を背けるために石油について考えるべきなのだ。
そして…それは自覚した途端にうまくいかなくなる。だから今の俺にはそれができないし、そのキャラもいつか気付いてしまうかも知れないし、或いは自覚的にできる人間かも知れない


長々と書いたが、この画像が指す発狂というものはこれまでに述べた「自分にとっての正論を自分で乗り越える手段」のひとつなのだと思っている
信じられるのであれば狂ってもいいし酒を飲んでもいい、ただし砂上の楼閣のように崩れやすいのが常ではある

ああ、昔(こういうブログ書くおっさんいるよな)と嫌うでもなく傍観していたが、自分で恐慌状態を味わうことで成り立ちを理解した
これに限らずサウナとかスパイスカレーとかキャンプも、俺はハマってないがだからといって他人事だと思っているわけではない
人は「成ってしまうこと」があるのだが、その立場に成ってみるまで分からない

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