R6.01.06 VRChat

年が明けてからなんとなく滋賀と京都で野宿を繰り返している

・UEVRがリリースされた
エンジン自体がそもそも一人称視点特化の上にVR機能がネイティブに組み込まれてる印象はあったが、だからってそんなアプローチが出来るものだなんて思わなかった
早く触りたい、が、制作サイドから何か声明が出ないよう願っている
サイパンだってMOD制作者はPatreonで毎月10ドル徴収しながらひっそりと公開してるんだからさ

いや何なんだよそれ そっちのが問題じゃねえか?

サイパンもVR化MODでついに面白さがわかった
「4090で超美麗4Kグラフィックス」みたいな熱意を以前から鼻で笑っていたが、HMDを被ってナイトシティに来たときは最低設定グラフィックながらも汚れた大気の臭いすら伝わってくるようで、その辺に転がるジャンキーの横が居心地良くて自分も酒を呷った

・ゲームの世界に入り込めなくなってVRで無理やりダイブするようになった
つまらない老化だなと思っているが、自分の身に起きている真実ではある
もちろん「ゼルダのBotWもTotKもVRで遊べるならその方が面白いのか?」と言われるとかなりNOとは思う
パラセールで攻略する楽しさはVRの方が優れているものではない

・以前から旅の中で「VRChatっぽさ」をよく探している
VRChatとは現実の中にもある要素である

ただ起きて飯を食ってパソコン触って寝るだけの生活でも、部屋に花を置くだけで雰囲気が変わる
野菜やフルーツが実るわけでもなければ大きく育って見た目が変化するわけでもないが、ただそこにあるだけで雰囲気が良くなる『花』
VRChatとは何か?自分にとってその『花』がVRChatであり、これまで実用性とモニタの中以外に興味のなかった自分だったがその言語化しきれない良さに目を向けるようになった

照明なんて何でもいいのにロープランタンを吊り下げる
クッションの柔らかさも伝わらないのにCOZYな空間に布団を散りばめる
Youtubeの映像を流すだけなのにバカでかいモニタを埋め込んだ壁を用意したり暗がりの部屋にプロジェクタで投射する
飯なんて食えないのに野外にテーブルとソファを並べてグランピングのようなくつろぎ空間にする

VRには一切の実存が伴わない、ということはあらゆる要素が雰囲気の良さのためだけに用意されている
居酒屋ワールドではあえて狭い階段からポップさせて地下に潜らせるひと手間を加えることで雑踏の音を聞こえなくするし、BARワールドでは薄汚れたポスターやDMの捨てられたエントランスを用意する
いくらでも広い部屋だって作れるのにあえて狭いアパートや寝台車を作る

現実社会ではつまらない事情で部屋が狭く不便な場所にあるだけなのに、住人の質が悪くて共有スペースが汚いだけなのに、そのマイナス要素がスパイスとなるからそれらは用意されている

寺社仏閣を夜中にライトアップをするのは暗くて見えないからではないし、山奥にぽつんと建てたロッジは人里から離れたい心境にはぴったりだ
なぜおしゃれなカフェは壁を白塗りにするのか、なぜ金持ちは高価で重い木製の家具を使うのか、「意味は無い、けど気分がいい」を実感出来るようになってようやく納得することができた。少なくともVRChatのワールドにはそれだけがあり、それは本当に居心地がいいのだから。

そしてありきたりの方程式になった演出だけでなく、知らない「良さ」に出会えるのがVRChatの楽しさでもあり旅の楽しさでもある。
三重県のVISONというリゾート型の施設を歩いた時、広大なエリアを野放図に歩かせるのでなくあえてロープで歩行区域を制限され、大通りと店舗がロープ一本の細道だけで繋がっており、その余白に隔たれたことで奥ゆかしさが生まれているのを見たときは衝撃があった
『下品』というのは欲望と行動が近い様子であるという言葉があるが、物理的な距離もそのまま上品さにつながることを実感した。

もちろん現実の雰囲気を再現するためには現時点でパソコンの性能が足りないことも多い。
現実の街を歩くときに多くのドアをただ通り過ぎるだけでその奥に入る用事は実際無いとはいえ、バーチャルにおけるドアだけで実際には内部が無い建物モデルにはやはり空虚さを感じる。だからスパイダーマンのゲームで「窓の中の世界」を見られるようにするなど表現を進化されているわけで、その営為はただ素晴らしい。VRはまだ次の未来があることだろう。

近年オープンワールドゲームの「窓の内側」は2D画像を立体的に見せている。『Marvel’s スパイダーマン』など採用例増える“だまし絵”風開発テクニック

・個人的な旅の思い出も少しずつ増えている

道路も見えない雪の中で外人とすれ違いながら心細く歩いた北海道小樽の雪景色
沖縄の南端の家に泊まり、早朝に海まで歩いて水面に跳ねる魚と一緒に泳ぐ大晦日
山形の山寺で寒さに震えながら1015段の階段を登って降りたあとの蕎麦屋の暖かい湯気と揚げ蕎麦掻と酒

文字で見れば陳腐だし真似したりもう一度再現したところで同じ気分になるとは限らないが、旅情というのは味わおうとして味わえるものでなく、ただ巡り合わせに身を置くしかないように思う
そういったマンネリ…たとえばご馳走といえば高い肉をただ買って焼いて食う、といった馬鹿の考える想像の限界の内側の生活のアホくささに飽きたから、偶然打開するきっかけを探してうろうろと放浪しているだけなのだ

それはそれとしてVRChat的な演出の良さも好きなので、味わえる機会も多いので、旅はまあまあ楽しいね
見飽きた要素ばかりのことも多いが、それはそれで巡り合わせが悪かっただけだと考えるしかない
自分の想像を偶然越えてくれるのを祈ることしかできないのだから


・自分の目で見て生まれた感情に自信を持ちすぎである、どいつもこいつも。

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