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20年後

小学校のときに一緒にピアノを習っていた幼なじみがヨーロッパ旅行のためパリに寄るという。
待ち合わせ場所で分かるかなあ…との心配は杞憂に終わり、お互いに開口一番

わぁー。お母さんにそっくりじゃない?

わたしの母は高齢出産だったので、当時すでに40代半ば。
だからさすがに当時の母親の年齢、とはいかないがでも確実にそこへ近づいている。
そりゃーね。20年もたったのだもの。

一緒にピアノを習っていたとはいえ、小学校も違ったので週一回のレッスンのときにしか会わない。
何をしゃべっていたか、も実はあまりよく覚えていないのだ。
覚えているのは、駅から先生のお宅までの長い坂道。
長かったように思えるだけで、本当は短いのかもしれない。
途中に高校野球の強豪校があって、お兄さんたちがとてつもなく怖ろしかったこと。
お宅の鉄の重い門扉の模様、レッスンのお部屋の長椅子のさわり心地。
待ち時間をじゅうたんの毛足で遊んだこと。
先生のヒステリー。
五線譜の横長のお帳面の表紙の黄緑色。
ヘンなことしか覚えていない。

わたしが小学校6年で東京へ引っ越すことになったとき彼女からの餞別に手紙が添えてあり
「これからは一緒に練習できなくて残念です。」
というようなことが鉛筆で書いてあった。

いい友達だったのにね。

「友達」のところがちょっとかすれて消しゴムで消したあとがあり、その下にうっすらライバルという字が読めた。

もちろん彼女を悪く言うつもりはなくて、そんなのは子どものけなげな競争心でしかないのだから。
でも意外に思った。
先生はいつもわたしたちをセットにして、同じような曲を選んで練習させていた。
彼女の方が明らかにちょっと上手で、技術的に難しいことも彼女には難なくできるのだった。
たとえば右手と同じように左手でも細かい音符が弾ける、とか。。。
たいていは、彼女が先に稽古していた曲を、わたしは何ヶ月か遅れで練習していた。
わたしが彼女をライバルと思うならともかく彼女がそんなことを思っていたなんて。
そして控えめにそれを取り下げたという、その子どもらしいような子どもらしくないような節度にもかるく不意打ちをくらった気分だった。

わたしは特に返事もしないまま東京へ行ったように思う。
そのあともそれぞれに引越しが重なり、大きな地震もあったし、環境が変わるたびにもう連絡がとれなくなるかも…と思いながら、それにもっとずっと親しくしてそれきりになった友達も多いのに、なぜか彼女との年賀状のやりとりだけは続いた。
そんな昔の友達は他にはいない。

いつかそのうち、会いましょうねとかならず年賀状には書くのだったが、彼女の住んでいる関西を訪ねる機会があっても、わたしはその時その時に親しい人と遊ぶのに忙しく、再会の機会をつかむまでに20年もかけてしまったのだった。
連絡をとりつづけたのも会わずに過ごしてきたのも、どちらも彼女の手紙がかすかに気になりつづけたから。
と今では自分のことがよく分かる。

彼女は自分が書いたことを覚えているのか覚えていないのか、昔と変わらず、少年のような風貌とちょっとハニカミやの困ったような表情をしてそこにいた。
でも20年の間に確実に何かを身につけて。
飲んだり食べたりしゃべったり、楽しく過ごして彼女は翌朝ほかの国へ旅立っていった。
きっと、またどこかで会う機会がやってきそう、と愉しみに思っている。
大人になるというのは実にいいものだ。

…と書いたのが20年ほど前のこと。
それぞれに人生の20年を過ごし、また歯車が噛み合って近々再会する約束をしている。
時が満ちて機会が訪れるのを待っていた。
ただお会いできることだけが愉しみ。

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