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偏愛物語1 木陰編

偏愛物語と題してなぜか好きなんだよなぁと言うものをエッセイとして形にしていく。そもそも偏愛という言葉もなぜか好きなもののひとつ。意味をネットで調べると「ある物や人だけをかたよって愛すること。また、その愛情。」とある。まぁ訓読みしたのと大して差がなかったが、愛情というキーワードにハッとした。口癖のように使ってしまう言葉とは異なり、愛猫家が猫を撫でるように偏愛という言葉を私は自覚的に愛でていた。小銭で言ったら50円玉、季節で言ったら秋と梅雨、動物で言ったら猫とタヌキと魚、などと考えればいくらでも出てくるが、今回は木陰の偏愛物語を紡いでいこう。

私にとって春夏はさほど好きではない、寧ろ嫌いだがそんな季節にオアシスがあるとすれば木陰である。それがよく似合うのは夏と春の晴れた日で、木陰が涼む場所というぼんやりとしたイデアがあるのだろう。誰かを落ち着かせるためにある場所、それだけでも愛おしいではないか。

私の家の近くには傾斜の激しい緑地公園がある。バードウォッチングをする人や犬の散歩をしに来る人が雑木林の中のある程度舗装された道を歩いている。そこを抜けると広場にぽつんと高さ6~7m程の木がある。名前こそ知らないがモッサリと葉の密度が高く、木枝はバケットハットのように横長に伸び、木の幹の木陰は驚くほど暗いがお気に入りだ。そこを目指して階段や坂をグングンと上がると、真冬でもない限りは程よく汗をかくものだ。少し上がった息を落ち着けながら木陰に入り気がつくとうたた寝をしてしまう。どんなに辛い時期でもその時間だけはなんとも言えぬ幸福感に満たされる。

うたた寝から目が覚め持ってきたお茶かコーヒーで喉を潤し本でも読んでみるが、ここまで来るとアルプスの少女に憧れていると思われそうで恥ずかしくなり10分そこらでやめぼんやりと人間や植物の観察をすると言うのがこの木陰でのルーティンだ。

いつもは1人で行くが、3年前に1度だけひとつ年下の風子と来たことがある。20歳そこらでこんな牧歌的な趣味があることはなかなか恥ずかしくて言えないが、風子が自然が大好きということを知っていたので彼女となら…と誘ってみたのである。案の定、風子は道中の雑木林から高揚しており5~6本ほどある道の全てを通ると言い出し勾配の激しい道を何回も往来した。目的の木陰に着く頃には手元の万歩計は3万歩を超えており風子も私もうたた寝どころではなくちゃんと昼寝をした。その後はお互いが好きな映画のサントラを流しながらお互いの家族について談笑し家に帰った。

今となっては何について話したか全く覚えていないが、その雰囲気だけは覚えている。頭で覚えていると言うよりも五感が覚えていると言ったらよいのか、その時の気温や湿度、匂い、風に近い瞬間が来ると必ず思い出してしまう。

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