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ぽい人間はぼくになりたいvol.6

僕は「ぽい人間」だ、ものをよく捨てる人ではなく○○っぽいという意味。全てにおいて○○っぽいらしい。部屋は無印良品っぽいしコーヒーを淹れる仕草はどこかの有名な珈琲屋っぽいらしい。つまるところ、僕は誰かっぽいないし何かっぽいのだ。

人間にはタグがある。商品でいうどこ產であったりいくらであったりするように、どこの国や地方出身や職種、年齢、趣味と言ったところだ。最近はそのタグに応じてメディアがネット広告を投げかけてくる。そのタグを上手く活用することで個人が活躍できる社会になっている。そんな社会は表面上の会話や関係しか生まないのでつまらないと思うが、自分にタグがないことでそれに渇望ないし嫉妬しているのだろうと思う。至ってよくある人生を送っている人間だ。普通こそ幸せと言うが、この社会では不幸せに真っ直ぐ伸びている気がしてならない。

この間、とある界隈で有名な人と会った。聞いてもよく分からない界隈だが自由を追い求めている人達が集まるらしい。その中でカリスマとされている人だったが名前さえも忘れてしまった。その人の話は「自由」「お金」「幸せ」を巧みに織り込んで自分がいかにカリスマかと言うことばかりを伝えることに執着していた。周りにしっかり迷惑をかけつつもそれに感謝をして夢に向かって突き進むといった姿勢が周りを魅了していた感じだろうか。
現実にワンピースのルフィがいたらこんな感じなんだろうと小さな絶望をしつつテキトーにあしらうと、そのカリスマにそんな態度を取るなんて君はどれだけ肝が座っているんだと周りから評価されてしまった。タグをここまで信仰してしまうと人間らしく生きれないなと思ったが、何かにすがって生きるのは元来人間らしいことだろう。

僕は今までなにかにすがって生きてきただろうか。全て自分でやってきたと豪語できるほど立派な人生を送ってきていないが、頼りくらいにはしたがすがって生きてはいない。なるほど、僕は人間らしく生きることを否定してきた訳か。華族や恋人がいれど、常に孤独感と共に生きてきた。それは自分とは何者なのだろうかと信じれるものを探し続けてきたと言い換え可能であり、そんなものは聖書を捲れば迷える子羊と書いてあるだろうがそれさえも認めたくない。ただただ僕の過去にあるのは僕が肉を食べ糞をしてきた事実だけ。

子供の頃はそんな悩みなんてなかったような気がするが、僕ってどうやって生きていこうか。働いて飯を食う以外の人生は今後数十年で見つけていかないといけないのか。こんな切実さだけは持ち合わせてる僕はなんだ。23歳男、web関係の仕事を生業とし、趣味はラジオを聴くこと、洋服は大抵ユニクロで揃えて風呂掃除が大嫌い。どこにだっている。

僕はぼくになりたい。

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