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ぽい人間はぼくになりたいvol.5

僕は「ぽい人間」だ、ものをよく捨てる人ではなく○○っぽいという意味。全てにおいて○○っぽいらしい。部屋は無印良品っぽいしコーヒーを淹れる仕草はどこかの有名な珈琲屋っぽいらしい。つまるところ、僕は誰かっぽいないし何かっぽいのだ。

ちょうど1年くらい前、僕はシドニーにいた。地元にいた時と同じく窮屈さを上京して3年経ったときに感じたから、1年くらい海外生活をしてみようと思って南半球最大都市まで出たわけだ。上京したての時と同じ自由を感じて柄にもなく日記を始めてみた。最初に書いたてから1年くらい経った今日、その日記を目にした。「どこか知らないところに行くことは最高の引きこもり、孤独は自由」と。今だから言えることだが自惚れていた、自分自身に奢りがあった。僕は一人でなんでもできると思っていた。

それを思い出した今日は全く逆のことを思っている。「住み慣れたところに居続けることが最大の責任、連帯こそ自由」。今の考えと全くの逆のことを考えていた1年前の自分が、よもや地続きの自分とは思えない過去の自分に信じられないほどの断絶を感じる。なんて軽薄でその場しのぎで未来を考えない生き方をしてきたのだろうと思う。

それを考えたと同時にこんなことも思い出した、両親を否定する人は両親を肯定してきた10数年間の自分を否定しているのではないかと。つまり自分の過去を否定することは現在の自分を否定することだ。現在は未来にとっての過去に当たるため未来にも絶望している。つまり正の否定とも言える。なんとしても過去を否定せずに受け入れ、未来に希望を残さねばならないのではないだろうか。そんなことを考えていたことがあった。

油断したのか、悲観的になっているのか、僕は今過去を否定している。正の否定は僕自身の存在を否定している。何者にもなれなかった僕は存在意義を失ったらしい。せめて僕が何者かであればそれだけで生きていけるのに。ただ、死ぬわけにはいかない。浪費家の僕でさえ、もったいないと思えるのが命だ。誰かも分からないこの身体であと何年生きるか分からないがとりあえず何か感覚が得られるまで生きてみる。

今日も僕はぼくになれなかった。今日から僕でないこの身体に僕でいていい理由が見つかるまで生きる。

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