日記

☀2月25日(木)☀

ヒュウウという風の走る音とむせ返るような砂埃の香りにはっと気が付くと、私はいつの間にか外気に曝されて立ち尽くしているようだった。

手で風をよけながらゆっくりと目を開ける。暗闇だ。空気は乾燥しているが、汗で寝巻が体に引っ付いてじっとりとしている。

暗闇に目が慣れると、削り取られた岩の中に佇む仏像の輪郭が眼前に浮かび上がった。


そこはどうやら石窟寺院のようだった。

石窟の中に彫られた巨大な塑像。世界史の資料集に思い当たる場所があった。雲崗だ。観光用に整備された道はなく、そこらじゅうにノミやトンカチが放置されていることから、かの有名な世界遺産が今まさに作られている途中であることを悟った。

空間と時間の歪みを認識したところで、自然の摂理に従って、どっと疲れが押し寄せてきた。と同時に、命がけで子孫を残そうとする昆虫のごとく、激しい使命感に脳が支配された。

「仏像の目を盗み出せ」

自分の欲望の声か、はたまた何か超人的な存在の声なのかもわからぬその声に従う他なかった。

私は気を抜くと意識を持っていかれそうな激しい疲労感に抗い、近くに落ちていたノミとトンカチを片手に握りしめて、古の職人たちが築いた足場を無心でよじ登った。

「日が昇る前に。誰にも気づかれないように。さぁ早く。」

薄目を開いて微笑む仏像の顔の前に辿り着くと、不思議とやるべきことはわかっていた。

そっとその仏像の額に触れ、口から流れ出るままに聞いたこともない異国の言葉を唱える。すると仏像の右目が独りでに大きく開く。

私は迷うことなくその眼球と薄い瞼の間にノミを充てがった。砂っぽい空気を深く肺に吸い込み、トンカチを振り下ろすと、カーンという小気味いい音と共にノミはずぶりと差し込まれ、その余波が円を描いて、眼球はポロッと取れた。渇望していたものがいとも簡単に手に入ったことに驚いたのも束の間、私はその重みに耐えきれず足を踏み外した。重力に身を任せるのは恐怖というよりも安堵に近かったように思う。

浮遊感。
目が覚めると、小舟の上で横たわっていた。抱きかかえていた仏像の眼球は無事だ。ここが海なのか大きな池なのかはわからないが、波の一つも無い水面は不気味なほど静かで、陸や岸も見えない。空は重く、灰色の雪がしんしんと降っている。寒さよりも孤独の寂しさが骨髄まで染みて辛かった。

元から重たかった仏像の眼球は私の腕の中でさらに重みを増しているようだった。ミシミシと小舟が悲鳴をあげている。もはや限界だった。

何があっても離してたまるものかという意志は急にプツンと消え、私はためらいもなく仏像の眼球を水の中へと沈めた。あたかもそうすることが当初からの目的であったかのように正当化された行為に思えた。

しかし表面の冷静な思考に反して情動は震え、虚無感と無力感が襲い掛かった。不安な気持ちと連動するように波は荒れ始め、静かだった雪は次第に吹雪へと変わっていく。感情のままに泣き叫ぶと、割れたガラスが天から降り注いだ。そうか、ここはスノードームの中だったのか。どうりで震えた声がよく響くはずだ。反響した叫び声は耳から侵入し、脳みそを圧迫してくる。耐え切れずもう一度叫ぶと、一際大きな波が来て、小舟は転覆し、私は冷たい水の中に落ちていった。

薄れゆく意識の中でクスクスと笑うような子供の声が聞こえた気がする。

「ダイガクジュケンからは逃れられないよ」

「ダイガクジュケンは君を助けてはくれないよ」

「仏像の目も投げ出す君にダイガクジュケンができるかな」

「でもそんなダイガクジュケンはもう終わったんだ」

「ダイガクジュケンを終えたのなら仕方ないね」

「君を呼ぶ声がするよ」

「まもなく……」

「終点……仙台……仙台………」

耳に馴染んだ地名が聞こえ、新幹線のアナウンスに意識を引き戻される。慌ただしく降りる支度をする乗客の気配を感じて、半ば本能的に焦らなければいけないことを悟る。

私は寝ぼけた頭で支度を急ぎ、いつの間にか手に握りしめていたゴツゴツとした球体を、その正体を確認することもなく、厚手のコートのポケットにするりと滑り込ませるのであった。

お笑い軍資金にさせていただきます。