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ジャン・チャクムル最新インタビュー(1) “芸術家は常に思想家であらねばならない”

現在、3枚目のアルバム(*1)を鋭意準備中のジャン・チャクムル君に対して行われた最新インタビュー(2021年5月21日公開)を本日はご紹介します。メネキシェ・トクヤイ(Menekşe Tokyay)氏がトルコの若き音楽家たちの内面に迫るインタビューシリーズ「素晴らしき若者たち」ファイルNo.62からの全訳です。

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音楽との出会い、現在ヨーロッパ規模で知られるピアニストとなるまでの過程、また今現在、努力していることについて簡単に説明していただけますか?

音楽との出会いは、実は赤ん坊の頃に遡ります。家族は音楽家ではないものの大変な音楽愛好家なんです。随分と小さい頃からビルケント交響楽団のほとんどすべてのコンサートに家族で通っていました。コンサートは金曜日の夕方でしたが、その日が来るまでの一週間、車の中でその週のプログラムを聴いたものです。ある意味、家族と一緒になってレパートリーに親しみ、様々な解釈や音楽運動への興味を育んだといえるでしょう。何か楽器を弾きたいという希望は、こうしたことの自然な帰結でした。ピアノは長いあいだ、好奇心をもって打ち込む趣味として自分の生活の中にありました。12~13歳の時、練習していた6~7曲が偶然にもベルギーで開かれるコンクール(*2)のプログラムに一致していたことで、若くプロフェッショナルな環境の中に身を置くことになりました。そのコンクール後に、何年か後に先生となるディアネ・アンデルセン(*3)からフィードバックをお願いしたところ、自分のマスタークラスに参加するよう勧められました。その環境を目にし、実際に素晴らしい時間を過ごしたことで、音楽を将来、自分が就きうる職業として見るようになったのです。

数年後、ギュヘル&スヘル・ペキネルの「世界の舞台に立つ若き音楽家たち」プログラムに受け入れられたことで、ヨーロッパにより足繫く通うようになり、大学教育をドイツで、グリゴリー・グルツマン(*3)のもとで続ける機会が得られました。この過程の中で当然ながら、自分の将来をどのように形作るかということを考える必要がありました。現在自分が進んでいる道は、こうした準備のための年月の結果である、ということができます。

現在は、同じ過程の続きを生きています。つまり、生涯を通じて持続可能な、自分がもつ夢と哲学に一致した音楽生活を構築しようとしています。ここで自分が特に拘っている点は、レパートリーの選択、芸術家として自分が属す潮流、その哲学・歴史を学ぶこと、そしてそれを今日の現実性の中でどのように実践できるかを見つけ出すことであるといえます。

浜松国際ピアノコンクールでの優勝はあなたのキャリアの中で飛躍のための最初のステップとなりました。その過程について少し話していただけますか?コンクールへの参加はどうやって決め、どのように準備しましたか?あがりましたか?結果発表には驚きましたか?

元々このコンクールへの参加は、長い準備期間と決断のプロセスの結果でした。浜松国際ピアノコンクール以前、特にスコットランド国際ピアノコンクール以後は、少しずつ規則正しいコンサートのテンポに慣れていきました。浜松への参加は師であるグルツマンの考えでしたが、自分としてはもう少し待ちたいと、もうあと1~2年は比較的もっと緩いテンポでコンサートを続けたいと思っていたのです。コンクールのプログラムの大部分は、前年の夏にイタリアツアーで演奏したものでした。よってプログラムはすでに手元にありましたが、これらのコンサートがあったため、コンクールに向け特別にメンタル面での準備をすることはできなかったのです。理想的な条件のもと、コンクールの前は一定期間コンサートを開かず内に閉じ籠ることを好んでいたからです。そのため日本では演奏の際かなりナーバスになっていました。

このようなコンクールに「勝つ」ために出場する人は誰もいないと思います。結果を考えることは、到達しようとしているレベルから人を遠ざけます。よって次のステージに進むことも賞を獲得することも、絶対に「私たちが待ち望む」ものではないのです。加えて、このことやこのような賞やパフォーマンスが同時にもたらし得る変化というものはあまりに大きいために、似通った経験をした友人同様に私が覚えた感情も、未知の事柄がもたらす恐れでした。

日本ではいまだに「ポップスター」扱いを受けていますか?同様にトルコでも、特に才能豊かな子ども音楽家たちの間での人気は随分と高いですね。あなたに対する関心の高さは何に起因すると考えますか?

日本でもトルコでも大きな関心を持たれています、本当に。ですが、これは自分自身に対するものではなく、既存の一般的な音楽への愛情によるものと考えます。私たち皆が同じ努力をしており、同じ情熱を共有しているのです。

あなたの考える世界のクラシック音楽の「首都」はどことどこですか?それらの都市の中に日本をどう位置づけますか?

この音楽の首都という定義づけは、残念ながら過去のものとなった事象だと思います。音楽家たちの超多忙なツアープログラムは、世界のほぼすべての主要都市がこれら芸術家たちの逗留地となっていることを意味します。したがって、ベルリンもパリもニューヨークも東京もウィーンも、またこれらと類似の都市についても言えることです。よって1920年代のシェーンベルクやブゾーニにとってのベルリン、1870年代のワーグナーやリストにとってのバイロイト、あるいは1840年代のメンデルスゾーンやシューマンにとってのライプツィヒのような芸術運動の中心に言及することは、今や不可能に近いのです。

ピアニストの仕事において結果により影響を及ぼすのは、才能でしょうか、勤勉さでしょうか?

自制心をもち、意識的に練習すること、思い上がりやプライドは隅に追いやり、問題や足りない部分を見極めること、研究者的な精神をもってこれらを解決する方法を探求することも、大きな才能ではないでしょうか?

ピアニストという個性に加えて、あなたのことを「若き思想家」(*4)と呼ぶ人もいますね。これについて少し話していただけますか?

近代的な定義では、芸術家は常に思想家であらねばなりません。芸術は、人類の歴史や政治、哲学と分けて考えることは出来ないものなのです。


訳注:

*1- 3枚目のアルバムは2021年5月中に収録予定。プログラムは、エネスクのピアノ・ソナタ第3番、バルトークのピアノ・ソナタ、アフメット・アドナン・サイグンのピアノ・ソナタ、ディミトリ・ミトロプーロスの「パッサカリア、間奏曲とフーガ」という東欧~バルカン地方に生まれた20世紀音楽を予定している。


*2- ベルギーのヨーロッパ・ピアノ指導者協会(EPTA)が主催する若いピアニストを対象としたコンクール"Rencontres Internationales des Jeunes Pianistes"のこと。チャクムル君はこのコンクールに2010年(当時12歳)に参加し、最終選考に残ったという。


*3- ディアネ・アンデルセンおよびグリゴリー・グルツマンとのエピソードについては以下のnoteを参照。


*4- チャクムル君のことを最初に「若き思想家」と呼んだのはトルコのクラシック音楽雑誌『アンダンテ』誌の発行人・編集長のセルハン・バリ氏。2015年から『アンダンテ』誌にほぼ定期的に寄稿を続けているチャクムル君の哲学者肌な性格を、バリ氏は熟知しているものと思われる。
なお、バリ氏がチャクムル君に「若き思想家」と名付けたインタビュー全訳は、以下のnoteから全10回に分けて掲載済み。


 

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