【新日本プロレス】1997年③ 努力の男、健介の台頭。そしてドン・フライの登場

①サマーストラグル’97

このシリーズの目玉は『グレート・ムタのnWo帯同』です。
これによって、これまでドーム大会などビッグマッチにしか出てこなかったムタが地方巡業に登場するという副産物が生まれます。
そして、ムタと蝶野が同じコーナーに立つという状況もファンにとって大きなニュースでした。
実際、地方をこのコンビで回っていきますが、まさに双璧といって良い活躍を見せます。

そして、長州の引退発表により、この後のドームツアーには『FINAL POWER HALL』の副題がつくことになります。
スポット参戦ながらしっかりと存在感を示す長州は、このシリーズ中に橋本とタッグを組んで先述通りnWoジャパンの双璧であるムタ・蝶野組と対戦。
実は橋本とのタッグというのも本隊同士でありながらかなり珍しいですが、きっちりチームとして戦って長州が蝶野をフォール。
引退をきめた長州が健在ぶりをアピールすると同時に、nWoジャパン結成以来初めてと言って良い、大きな試合での本隊側の勝利となりました。

また、ジュニア戦線ではBOSJ優勝のサムライがライガーの持つジュニア7冠戦に勝利し王座を奪取。間違いなく、ここがサムライのプロレス人生のピークでした。
※元々、ジュニア8冠と言われた王座ですが、直前にWARの安良岡裕二が自団体のベルトを意地でも取り返したい、とインタージュニア一本のみを懸けたタイトルマッチを行ってこれに勝利。ジュニア王座は7冠となっていました。「一本ずつ懸けるなら、元々8本のベルトをまとめた意義は?」という批判も浴びましたが…その話はまたいつか。

②G1クライマックス’97

この年のG1は14選手参加のトーナメント方式。
この年の特徴は
・試合時間が短い(決勝は歴代最短)
・ムタとnWoとの軋轢がリーグ内にまで波及。
ということです。
試合時間に関しては驚異的な短さで、まず全13試合中6試合が10分以下。
15分以上の試合は1試合のみ。決勝戦に至っては8分9秒での決着でした。

いま聞くと驚きますが、当時は長州の打ち出したハイスパートレスリングを実践していた時期で、健介の台頭によってそれが顕著になりました。
これに関しては好き嫌いがありますし、後から振り返って、この試合時間をダシに当時の健介のファイトスタイルに対して『塩介』などと揶揄するのが2000年〜2003年頃までのトレンドでした。
ただ個人的な事を言えば「メインだから長い時間試合をする」と決め打ちして序盤のグラウンドを見させられるなら、最初からゴツゴツに殴りあって短く終わらせてくれた方が楽しい試合もある…と思っていて、健介の試合はまさにそれだったと思います。
そして実際、当時の試合を見れば健介の試合は基本的に盛り上がっています。
この年の決勝戦も(対戦相手である天山の頑張りあってのことですが)8分に両者の良さが詰まった好勝負でした。
本人のリング外での人間性に絡めて、試合自体まで批判するのは少し違うかなぁ、と思ったりしています。

話が逸れましたが、それが1点目。

2点目ですが、この試合の前後で、グレート・ムタがnWoの他メンバーと不穏な空気となり、空中分解が懸念されていました。

そんな中、トーナメント2回戦で同じnWoのスコット・ノートンと対戦。一進一退の攻防でしたが、最後走ってくるノートンにカウンターの毒霧!と思いきや、一瞬タメを作ってから天井に向けて毒霧を吐く。そのままラリアットを喰らったムタが3カウントを取られ、ムタはすぐさま退場。

…というストーリーがG1中に展開されたのです。
こうして書いてみると、なんかよくあるプロレスのストーリー展開に見えますが、少なくとも当時の新日本ファンにとってG1は「新日内での最強選手決定戦」という位置づけでした。それが、いわゆる「アングル」の一部として使われたのがかなり画期的というか…純粋なファン心理としては「ムタが勝負を捨てた」という形で話題となったのでした。

他にも1回戦で『小島がリーガルを破る大金星』『踵を骨折した蝶野が出場を強行』
更に
『昨年に引き続き、天山が橋本に勝利!』
『天山がトップロープに靴紐が絡まり転落(よく死ななかったな…)』
『天山のダイビングヘッドバッドが健介の顔面に直撃』
など、天山が全体の話題を大きく攫っていったのもこの年の特徴かもしれません。
この年のG1は、ついに台頭してきた健介と、新世代の天山が引っ張る格好となりました。

番外編:ドン・フライ初参戦

このG1のシリーズ中に、UFCからドン・フライが初参戦します。
決勝戦となった8月3日に登場するんですが、この時点で「アルティメット・アルティメット96っていう、チャンピオンの集まる大会で優勝したらしい」くらいのフワッとした情報で参戦してきました。

今にして思えば…新日本のなかで格闘家の参戦は数あれど、最初に語られた経歴より実績のほうが凄かったのはドン・フライ以外にはいなかったように思います。
それくらい、怪しいやつが多かったので… 汗

さて、この時はヤングライオンである藤田和之が対戦。
そしてこの試合が、藤田の出世試合となりました。

元々藤田は、アマレス全日本王者からの鳴り物入りで入団した選手で、普通のヤングライオンとは違います。
(2023年現在でいうと、ボルチン・オレッグみたいなイメージ)
とは言え、プロ格闘家相手にどこまで戦えるかは未知数でしたが、
持ち前のパワーでフライをあと一歩まで追い詰めます。
最後はパンチ(ルール的にパンチがありだったかどうか微妙ですが…)からのレッグ&ネックロックというオリジナルの絞め技でレフェリーストップとなりました。
とにかく藤田のポテンシャルが光る一戦に

………と、言いたいところなんですが
いま振り返ってみると、この試合はこの日が初めてとなるプロレスのリングで見せた、ドン・フライの技量が光った一戦だったと思います。

格闘技戦の緊張感を崩さないまま、対戦相手の猛攻に苦しい表情を見せ、最後はオリジナル関節技で勝利。

これは、むしろアントニオ猪木が格闘技戦で実践してきた事です。
UFCチャンピオンだったフライの、プロレス適正の高さが現れた試合でしたが…当時、その凄さに気がついている人はあまりいませんでした。 
ただただ「めっちゃ強い!」と純粋に感じているファン、というのが主流だった認識です。
しかし、そのファイトスタイルと藤田の頑張りがうまくハマって、会場はフライに大ブーイング。
ここで、新日本の侵略を目論む”ナチュラルヒール”ドン・フライが誕生したのでした。



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