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遥か昔、遠い銀河系のこと


 忘却の為の美しい記憶として、私があなたを思い出す時、いつもあなたは果てしなく遠い、遠い───余白だった。

 
 狭い部屋でEarth, Wind&Fire「September」がBGMのホームビデオを観ていた。熱っぽい冬のディスコソングが眼前を通り抜けていく。この曲は九月の歌ではなく、十二月の曲だ。それは稲垣潤一「クリスマスキャロルの頃には」がクリスマスソングでは無いのと同じ様に、時々思い出しては妙な気分になる事実として存在する。

 九月生まれの母を想って、曲名で安直に決めたに違いない父の軽薄さが好きだった。手ブレばかりでピントもほとんど合っていない、鋭角から飛びかかるような撮影の一本のビデオ。入院中の祖母に送るという体なのに、全く祖母に擦り寄っていない。DVDダビングサービスに依頼した時に、動画の日付が消えてしまって正確には分からないけれど、恐らく2000年秋の映像だった。

 頬を寄せてカメラレンズに笑いかける二人の脇に、シャーリーテンプルの赤いワンピースを着た幼い私が時々映り込んだ。酷く不機嫌な顔をして祖父に抱かれている。彼の白いワイシャツの胸の辺りで赤く丸まった私の所為で二人が日本国旗みたいに見えるのを、母はよくおかしいと笑っていた。

 レンズを向けられるたび祖父に縋り付いて顔を背ける私に、両親は気を引こうとばかりに名前を呼びかける。何度呼んでも機嫌が治らず、そのうち諦めるように二人の呼びかけは絶えていく。そして、カメラも私から遠のいていくその直後に、祖父の声が数秒だけ録音されている。


「ね、いい子だから、カメラ見てごらん」
 

 このビデオを見るたびに思い出す映画がある。2019年、コロナ前の東京・池袋新文芸坐で観た『パリ、テキサス』だ。
 あれを初めて観たのは、それこそ初めて予備校の授業を休んだ日だった。「東大・京大クラス」と名付けられたは良いものの、京大志望は私一人で、肩身の狭く気の遠くなる様な授業を休むのは、やってみると意外に容易かった。
 新幹線に乗ってやってきた東京で、私は真昼間から映画館にいた。祖父の昔語りに登場する、東京の「煙草を吸いながら観られる名画座」を訪れたかった。ネットの情報を手がかりに、案外簡単にその「名画座」は見つかった。ストリップ劇場とガールズバーに囲まれたパチンコ屋の入ったビルの三階。当時の名称である「文芸坐」は「新文芸坐」へと変貌し、結局煙草は吸えず、座席は新幹線のシートより格段に座り心地が良かった。
 ポップコーンを頼もうとすると、袋詰めになった市販のバターしょうゆ味しか無く、仕方なくドリンクバーで紙コップいっぱいに注いだリプトンアイスティーを飲みながら映画の開幕を待っていた。
  失踪した妻を探し求めながら、テキサス州の町である「パリ」を目指し歩き続ける男トラヴィス、そしてそのトラヴィスと妻に四年間も置き去りにされた息子。彼ら家族の再会と別れ。良く出来たロードムービーだった。西部劇とも言える様な質感。でも何より、序盤の8ミリフィルムのホームビデオのことばかり記憶に残っていた。
 何故か涙が溢れてしまう、家族が壊れる前の、幸せの匂い立つ映像は、父が撮ったあの「September」のビデオに良く似ていた。


 祖父が亡くなる直前だった。それは、私が「今ここ」から思い出す故に直前の思い出であって、祖父の余命宣告はもっと先の話だったはずだが。女家族が集められた居間の窓先に、祖父の手入れがぱたりと止んで荒れかけた日本庭園の、景石の配置だけが美しく残されているのを見ていた。

 生温い沈黙を破って、母と祖母は顔を見合わせてこう言い放った。

「おじいちゃんが亡くなったら、皆んなで旅行にでもいきましょうか。」
「そうね、やっと皆んな落ち着けますものね。」
 
 許せなかった。私は「彼を解釈できる」私自身に辟易するべきだったのだが、それは出来なかった。私にとって、祖父は私そのものであった。彼の存在を否定することは、私の存在の否定だと受け取っていた。
 度々癇癪を起こし、祖母や母親を殴ったり、叔父に声を荒げていたりしている祖父のあの衝動が、私には手に取る様に分かった。人が、自分の言う通りにならないもどかしさで、彼らが自分に向ける愛情への信頼が薄まり透明になって行く時の、あの腹の底が冷える恐ろしさに、彼は怒鳴っているのだ。

 そうやって彼が家族を怒鳴る時の、喉仏の上下運動を、私は彼の腕に抱かれながら見ていた。


 そして数日後、祖父は、柔らかな醜い虫の様に病床の上で身体を捻って、そうして私を覚えていなかった。その背中は情けなくて、愛おしかった。私のことも覚えていないのに、救いにもならないクラシックをひたすらラジオから流す彼のことを、私だけは愛そうと思った。

 
 彼は2010年9月に亡くなった。母の誕生日の、ちょうど二日後だった。
 十歳の私の初恋は、きっと祖父に違いなかった。父性に抱く敬愛と、混同していたとしても構わない。祖父のことが好きだった。それはちょうど、自己愛を抱いた瞬間でもあった。

 私は彼の火葬後に遺骨を拾うことができなかった。いつだって甘やかされた私は母の後ろで、元の姿とは程遠い彼の遺骨を、じっと見つめていた。黙りこくる私を見かねたのだろう、喪主であった叔父は「彼は君を一番に愛していたから」と彼の喉仏の骨を私の手に乗せた。

 

 私はこの瞬間に、死を免れることのなかった祖父の表象───つまり彼の自然身体を「彼の喉仏」というイメージ身体へと委譲してしまった。

 
 それから、私と祖父は、ほんとうに、何時も一緒だった!

「彼」の所有によって、祖父が私そのものであるという幻想も、祖父に対する恋慕も全てが真実の様に映った。母親が、臍の緒の入った小さな白い箱を神棚に閉まっていたのと同じく、私は彼の喉仏の骨を鍵付きの机の引き出しに閉まった。私はそれを「C2」と名付けていた。そして、幾度も取り出して撫で回した。

 アーサー・ミラーの『ジェインのもうふ』、いや、ジョン・バーニンガムの『もうふ』の方が正しいかもしれないが、あの絵本たちに出てくる幼児みたいに、祖父の喉仏が側に無いと安心出来なかった。
 


 おじいちゃん、わたし、あなたの身体が、あなた以外の人間の許可を得て、私のもとに在ることを奇妙に思えるほど賢くなかったんです。更には「おじいちゃんは君のことが一番好きだったからね」とあなた以外の人間に言われて鵜呑みにするくらいに馬鹿だったんです。

 
 時は過ぎて2020年、東京という土地で、私が初めて人を待ったのは、新宿紀伊國屋書店の前だった。ミルクチョコレート色の磁器タイルで覆われた壁に触れると、急に祖父を思い出した。正確に言えば、祖父の喉仏の骨だが。
 
 前川國男によるこの建築は、人の出会いの場所であった。新宿という街の歴史を追えば明白なことだ。それは、私が常に祖父を媒介して、人と関わっていたのに似ている。それから、最早広場のような紀伊國屋書店の壁を、私は幾度となく見つめてきた。新宿ピカデリーに行く時も、バルト9に行く時も、深夜営業の精神科に向かう時も、あの場所に佇む人間を見れば皆、俯いて、祈るように立っている。
新宿通りの騒がしさとは裏腹の、あの深い淀みが、私の新宿だった。
 

 今年一月、私は帰省するとすぐに、祖母の家に急いだ。私が大学で哲学をやると母親から聞いた彼女が、祖父の書斎から好きに本を持っていく様に言ってくれたからであった。祖母との久し振りの会話を交わし、書斎に入ると神保町みたいな匂いがした。散々漁って満足した私は、彼の書案に身体を投げ出すと、引き出しが若干開いているのが分かった。

 私はそこで、祖母が祖父に当てた手紙を見つけた。私はそれを盗み見してしまった。あの書き手は、ほとんど祖母ではなくて、彼の恋人だった。
祖父の喉仏を本当に必要としていたのは、彼女だった。恐らく、祖父が一番愛していたのも、彼女だった。

 私は自分の過ちをたちまちに理解した。

 そこからのことは、ちゃんと覚えていない。急いで実家に引き返して、持ち歩いていた祖父の喉仏の骨を祖母の手紙の上に戻して、漸く安堵した。
 

 何となく分かっていた。彼に対する恋慕が消尽していたことも、私が祖父になれやしないことも、分かっていた。分かった上で、彼から離れてしまうのが怖かったのだ。記憶の沈殿の中で、彼の姿がどんどん思い出せなくなっていた。

 彼が存在した時間を巻き戻すたび、彼の居場所だけが、余白だった。
 
 
 つい先日の話になるが、新文芸坐でヴィム・ヴェンダース特集が組まれた。あの日から2年ぶりに『パリ、テキサス』の上映も決まっていた。私はこの映画を恋人に、どうしても観て欲しかった。彼がこの映画をどう観るのか知りたかったのだ。
 ただ、私自身に対する憂いだけを懸念していた。2年前と同じ場所で、同じ映像をどう受け取れるのかが怖かった。
 
 結局のところ、私はもう、トラヴィスたちの8ミリフィルムで泣かなかった。泣いたのは、ジェーンとの再会の後だ。トラヴィスは、ずっと私みたいだった。愛情を試してしまう彼の情けなさに、一度破綻した関係を結び直すことに震える彼の苦しみに、自分よりも最愛の人を必要とする人間を優先する彼の自己犠牲に、耽溺した。
 そして、理想とする母性の表象を忘れられない彼を、幼いと一蹴した。

 マスクが使い物にならないほどぐずぐずに泣いている間、恋人がずっと私の頭を撫でていた。横に座る彼を盗み見ると、張り出した大きな喉仏に、スクリーンの光が当たって白く瞬いている。
 私が今、覚えている限りで一番に美しい記憶を聞かれたら、私は直ぐにあの光景を答えるだろう。
 
 
 忘却の為の美しい記憶として、私があなたを思い出す時、いつもあなたは「映画の中の彼」だったのだと、今なら分かる。
 

 8ミリフィルムに焼き付けられたトラヴィスたちと同じ様に、私の愛すべき祖父はもう存在しない。私は、あの出来損ないの埃っぽいビデオの中の彼を思い出して確信する。


 彼が存在したのは「遥か昔、遠い銀河系のこと」なのだ。

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