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右頬のケロイドと「リリィ・シュシュのすべて」

私の右頬には、直径8ミリ程のケロイドがある。

写真を撮られたり、横並びに座ったりする時、私は常に左頬を晒し出そうと身構える。

向かい合う時間が増えてきた相手から「どうしたの」と聞かれる時に、彼らに話していたことは、決まって「誤って彫刻刀で傷つけてしまった」の一言と、「本当に痛かったんだよね」という呟き。

それだけ。



 先日、新文芸坐で岩井俊二監督特集がやっていたらしい。
何個か観にいく予定を親しい人たちと立ててはいたが、私自身が体調を崩してしまい、断りを入れてしまった。

 もったいないことをしてしまったと思っていた矢先、家で「リリィ・シュシュのすべて」を観ようと言われた。

 怠惰な春休みを、好きな人間と映画を観て紛らわすことを拒否する理由なんて一つもなかった。

「なんで今まで見ていなかったんだっけ」と、浮遊する思考に身を跨げながら、暗い部屋でプロジェクターから映し出される光に瞳孔の大きさを合わせる。

 私は、若き日の市原隼人が田園に突っ立っている、緑色の光を知覚していた。

 00年代にしかない、生温さを持ったネットの掲示板や、持ち運びのできるCDプレイヤー、ストラップの方が重たそうな携帯を懐かしく思いながら、談笑ができていたのは、最初の数十分だけだった。

 平和な、色彩のある世界は突如として崩壊する。
 映画の中で、時間軸はくるくると揺れ動く。



 主人公の少年が、廃車が集められた廃工場の近くで持ち物を壊されたり、殴られたり、仕舞いには先輩から自慰を強要されているシーンが唐突に訪れる。


 痛い。本当に痛い。
 侵害受容が間に合わないほどに、身体中が痛くて、涙が出てくるのを止められなかった。


 その時に、映画の中の少年に、自分自身を投影し始めていることに、ようやく気がついた。


「ああ、私、自分の頬を自分で傷つけたんじゃない。彫刻刀で、刺されたんだった。中学校の美術室で」


 中学の時に、特定の人たちからいじめを受けていた。

 理由は、よくわからない。成績、性格、部活、先生との関係性、容姿。もしかしたら、父親の仕事かもしれないし、親に持たされたブランド品の鞄かもしれない。理由なんてなかったかもしれない。

 中学2年生の冬、私は美術室で絵を描いていた。
部員が全員帰ってしまった後で、私をいじめているうちの一人が美術室に入ってきた。

 そこまでしか、ちゃんと覚えていない。あとは、何か罵倒されて、顔を彫刻刀で刺されて、写真を撮られて、彼女は笑いながら教室から出ていった。


「携帯、学校に持ってきちゃいけないのに」と考えながら、職員室に向かったときの、すれ違う下級生の視線が痛かった。

 他にも、いろんなことを強要されたけど、話したくはない。書き記すにはあまりにも多すぎるし、私はそれらを綺麗に書く自信はない。

 彼女の携帯の中に残った写真たちは、買い替えですんなりと抹消されてしまったかもしれないし、ネットに売られてセカンドレイプに晒されているかもしれないし、あるいは彼女自身の手で消されたかもしれない。



 忘れていたことだったはずだ。
 あまりにも苦しくて、情けなくて、思い出そうとしなかった間に「忘れていた」ことだったはずだった。


記憶を偽造して、なかったことにしたはずだった。



 そう思おうと気持ちを切り返そうとしてもなお、「リリイ・シュシュのすべて」という作品は、私の記憶の蓋を、まるで古びたフルーツ缶を開ける時のように無理くりにこじ開けて、ぐちゃぐちゃと引っ掻き回して、ぎろぎろとした緑色の光で舐め回す。

 カメラの捉える緑色の光、田園の懐かしい光が、こちら側に届きそうになればなるほど、切り替わった画面の灰色がかった紫の悪夢のようなシーンが舞い戻る。



 エンドロールで、私が号泣していることに気がついて、彼は再生するのをやめた。

「観たくなかったら、途中で言ってくれてよかったのに」と言ってくれた。




 本当にそう。本当にそうなのだけれど、そんなことをしたら「救われないじゃないか」と思ってしまった。



 映画には、ちゃんと終わりがある。それは、ストーリーとして設定されているものであったり、はたまた時間的なものであったりするのかもしれないけれど、映画の中で悲劇は絶対に終焉を迎える。


 終わらせなければいけないと思った。

 私が、自分の中学時代をそこに投影してしまい、引き戻されてしまった以上、残りの数十分間にどんな記憶の再生装置が仕組まれていようと逃れたくはなかった。

 それを観終わらない限り「私」は誰にも救いを叫べず、職員室に向かって「間違えて、彫刻刀で怪我をしてしまいました」と泣きじゃくったあの頃から進めない。


「観たくない」と思わされた、少年が自慰を強制されるシーンの後も、何度も記憶はこじ開けられた。

 荒んだ少年たちによるカツアゲや、いじめから目を逸らす教師、少女による援交、レイプ、純粋な好意への拒絶、痛々しいほどに屈託のない笑顔、スキンヘッドにされた頭を隠す帽子、飛び降り自殺。

 中高を通じたら、当事者であれ、第三者であれ、私は全部間近で経験してきた。

 大人には話せなかった。逃れるには、あまりにも強すぎる横の関係と、不幸の匂いに陶酔していたのかもしれない。もう覚えていない。



 私は、私の頬に彫刻刀を刺して、写真を撮って、口封じをしてきた同級生を、もう責めるつもりはない。

 学校という小さな社会で、加害者と被害者は表裏一体だった。私だって、人を意識的にも、無意識的にも傷つけた。

 きっと人を殺すことが罪にならないのなら、私を殺したい奴は、きっと4人くらいは居るだろう。私だって7人は居る。



 この映画に、リアリティがないと言える人もいるのだろう。

「撮る」という行為は、取捨選択をすることであって、「撮られなかった」部分も無数にある。

 この映画が、ある種の経験を持った人間にとっての現実味と、恐ろしいほどの美しさを両立させているのは、その線引きが絶妙だからなのだと思う。


 大人は誰も救ってくれやしない、そして救ってもらうにも動けない、あの鬱屈とした世界の中で、絶望的な美しさが弱々しく殴りかかる。

 緑色を「あおいろ」と表現する気持ちが分かるほどに眩い田園風景と、鉄塔と、妙な方向に曲がった少女の死体。ドビュッシーの旋律。


 まるで、映画の中盤に、援交の強要から逃れられない津田が、同じく友人にたかられても反抗できない蓮見を、学校カバンで弱々しく殴るようだった。


 リリィ・シュシュ、本当に良い映画だった。


 でも、お勧めはしない。
 好きでもないかもしれない。
 どちらかと言えば、拒絶に近いほどの嫌悪や嘔吐を催させるほどの恐怖を抱いている。


 それでも、今観られてよかった。大人になれて、大人になるまで生きられて、本当によかった。

 多分もう、右頬のケロイドも、14歳のあの記憶も、ちゃんと見つめてあげられると思う。

 まだ痛いのには違いないけれど、あの頃はもうちゃんと終わっていることだから。

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