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祖父の荼毘について

 11歳、合唱コンクールの真っ只中で私の祖父は亡くなった。膵臓癌だった。超してきてまもなくで、友達もいなかったから途中退場して駆けつけたのを覚えている。

 祖父は銀行の頭取を退職してから、クラシックと文藝と、畑仕事に精を出すような穏やかな人だった。見合い結婚でも浮気一つせず、毎日夜は自宅で祖父から晩酌してもらうのを楽しみにしているようなその時代には珍しい人だったと思われる。

 私は親との折り合いが悪かったので、幼い頃から祖父の家にいた。小さな音でクラシックを聴きながら本を読む彼を、いわば神父のようなものとして見ていた。実家では、ですます口調で話していた私でも、祖父と祖母には無邪気に話しかけられていた。

 癌が見つかった時にはもう末期で、数ヶ月の入院の後、本当にあっけなく亡くなった。
 入院中の娯楽として買ったミニサイズのテレビが、箱から出されもしないほどであった。モルヒネで弱っていく様を長く見なくて済んだのは、当時の自分にとっては幸福なことであっただろう。

 死際に、集中治療室でかけつづけていた、ショパンのノクターンのレコードと、内田魯庵の蔵本を数冊、共に荼毘に伏させた。
 祖父の顔を囲む花が、額縁みたいだった。現実から逃れるようにして、中学受験のワークで読んだ「記号と絵画」の話を思い出してばかりいた。初めて見る死人の顔が怖かったから。

「——tableauには、絵画作品について、習作や下絵に対しての(完成された)という意味がある。」

「——額縁をつけることによって、絵画本体はその周囲から境界づけられるのだ。」

 焼かれる様を見たくなくて、ずっと火葬場の床を見つめていた。大理石のような模様の床は、履きなれないヒールの音をカツカツと響かせていて、気味が悪かった。母親が「見届けなくちゃいけないのよ。」と何度も呟いていたことばかり覚えている。

 本来、火葬が済んだら遺骨拾いがあるはずだが、私は祖父の生前の姿と焼かれた骨の状態を同一視できなくて、どうしても拾えなかった。と言うより、周りの大人たちが、火葬待ちに酒や食事をとっていたことに不信感を抱いてしまって、不貞腐れてもいた。
 壁に寄りかかっていた時、骨壺に骨が入れられるときの衝動音が、火葬場の床に響いたヒールの音と、全く同じ気がした。

 あれから約10年が過ぎたが、当時彼と共に焼いてしまった内田魯庵の「バクダン」と再会することができた。これは内田氏の雑文集であるが、祖父はこれをいたく気に入っていたのだった。学もない私に読み聞かせてくれたそれを、今自分はこの目で刮目することができると思うと、どうしても泣いてしまいそうだった。
「バクダン」には第3章に葬式についての雑文がある。
「医者と薬で助からなかったら其次は葬式だ。」

全くもって、本当にそうである。

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