見出し画像

その109 坂東33観音霊場 2番札所 岩殿寺

ここは住宅地をを抜けて山の麓に行きます。鎌倉とさほど離れていませんが、まったく雰囲気の違うところです。私は車で1回、電車で2回お参りにきました。参道には33観音霊場の御詠歌の碑が並んでいます。長い階段を上って観音堂に行きます。階段で振り向くと、逗子の海岸の景色が広がります。この景色、極楽坂から眺める鎌倉の海岸線は輝く海がすばらしいのですが、ここから見える海は『静』という感じがします。セミの声が響きわたっているのですが、雷の音とともにシ~ンとなりました。また木がたくさん生えているので暑さはそれほど感じません。

頼朝はじめ、政子、実朝、娘も参詣に来たと書かれていました。頼朝ファンなので、彼の関連する場所はワクワクするものがあります。

ご朱印坂東02岩殿寺[1]

岩殿寺縁起
相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山となっている)の由来は皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まる。
それゆえ、当山は徳上、行基両上人の開基と言われている。また、大非殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。
正暦元年庚寅春三月十七日六十五代後白河法皇が来山され、御自身導師となられて百僧法要御供養を営まれた。従僧は仏眼上人、弁光僧正、良窓上人、元密上人、伝光僧都、満願上人、威光上人であった。
又、承安四年四月十八日七十七代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三カ所第二番の霊場とお定めになった。なお、源頼朝が蛭ケ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現われてお告げを蒙ることがしばしばあったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大非の冥助幾度も得て、立直れたというが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人ととなって頼朝を房州洲崎に渡してたちまち十一面観世音の妙容をあらわして、三浦の方にとび去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣。建久二年子の三月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年巳兎の五月八日後白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元三年五月五日には右大将実朝将軍参詣。寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家並び十二院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命に依り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている。
しかし、その後もまた、ものかわり星うつりて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目もなかったものを東照神君(徳川家康)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜わり、その徳沢に潤い、且つ申し請けて寺領五石の御朱印を賜わったという。
(以上「東鑑」「三浦郡記」「相模風土記」および土地旧家覚之書による)

観音堂案内板
逗子市指定重要文化財
岩殿寺観音堂
指定年月日 昭和四十六年十二月二十三日
岩殿寺は坂東三十三観音札所の第二番で、縁起によれば、養老年問(七一七~七二四)行基が開創し、花山法皇や後白河法皇も来山されたと伝えられる古刹です。また、鎌倉時代には将軍家の信仰が厚く、『吾妻鏡』には頼朝、政子、実朝らが参詣したと記さわています。
現在の観音堂は、棟札によると享保十三年(一七二八)に時の住持萬英和尚が勧進により再建したもので、造営の大工は鎌倉の蔵並杢之助藤原政吉と工匠清右街門でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?