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マイストーリー2

「あなたの声を 公共の電波に 乗せることに

決まりました。」

穏やかで 優しく 落ち着いた 

初老の男性の声が PHSを通して

私の耳に 飛び込んできた。

1997年 風が心地良い 夏の始まりの頃だった。

合格したんだ!!!

喜びと同時に

じわじわと 緊張が、押し寄せる

えー どぉしよぅ


マイクのお仕事、声のお仕事を したいなぁ

と 漠然と思い始めたのは

いつの頃からだったのだろうか、、、

 物心ついた 小さな小さな私は

眠る前 お布団の中で 母が 読んでくれる

物語が好きだった

『ふしぎなカギばぁさん』『母と子の おやすみ前のものがたり』etc 

お話しの世界で 遊びながら 母の声と共に

眠りにつく、  そんな毎日

母は おとなしい人で

あまり外の世界と 馴染めていない風なのは

保育園児の私からも 肌で感じていた

父と母は 金沢で育ち 結婚をし

父の仕事の関係(自衛官)で 300km以上離れた 

ここ愛知県に 住むこととなる

日本海側→太平洋側へ

今から 50年程前のこと

今ほど 移動手段も情報機器も発達していないから より 遠距離を 感じていたと思う。

生活文化も違い 友達もいないなか

大人しい性格の母が よく よく 頑張って

毎日の日常を 丁寧に工夫してくれていたなぁ、と 今 あらためて 感謝の気持ちが湧いてくる。

食事を丁寧に(我が家の 味噌汁には 煮干しが まるごと入っていた!)作り、ワンピースに 刺繍を施してくれたり、本を読んでくれたり♪

おかげで私は 健康で 近所の友達とも仲良く遊び 毎日が、楽しかった♬

中でも 目を瞑って ブランコを ビュンビュンに こぐことが好きで (なぜって 目の裏に たくさんたくさん ヒカリが 見えたから☆)

ジャングルジムのテッペンに昇ると

UFOが迎えにきてくれる と 信じていた時期もあった 笑

学校にあがると

国語の教科書が好きで 

パン屋のしろちゃん や

花咲山 など

そらんじてあそんでいる子だった

小学4年生の時の 担任の先生から

はい、きよみちゃんは 放送委員ね!

と 勝手に 命じられ

給食の時間 放送室で マイクに向かう事となる

あの当時 何 話していたんだろー

研修で 

その当時 ブレイクしていた

学問のススメの 著書である

NHKアナウンサー 鈴木健二さんから

発声のこと、滑舌などを 少し 教わり

声を出すって コトバが 届くって

きもちいいなぁと 感じ

勝手に 放送委員に 放り込んでくれた

担任の先生に感謝する

高校では 演劇部(大先輩に 渡辺いっけいさんが いらっしゃる⭐︎)に入り

世の中の 小劇団ブームを すこーし体験。

名古屋で お気に入りの劇団の講演を

部員と観に行くことが 楽しみな

高校生活をおくる

舞台での女優さんに憧れ

進路を決める際 親に サラリと

伝えてみたが

「普通に生活してくれ」と

国家公務員らしく  アッサリ却下

それはそうだ、私も 夢が叶う気はしなかった

人が好き

という選択肢から

保育を学ぶ学校へ進学したのち

児童福祉施設で 5年ほど 2才〜高校生までの子供たちと 寝食を共にする生活を経験させてもらう。(お寺が 母体の こちらの施設での学びも 深かったぁ、ので このお話しは また別の機会に)

日々の業務(暮らし)の中で いつしか私は

消灯時に 放送で 本を読む 係が 回ってきて

私も その時間を楽しみにするようになっていた。

やがて 縁あって 寿退職をし

親の顔色を 伺わず 仕事を選べる自由を手に入れた!

マイクの仕事をしてみたい、

との 思いを叶えようと タレント事務所の

扉をたたき 養成所にてレッスンスタート。

ラジオで聞いたことのある声の方が

目の前で講義をしてくださったり

TVでチラッと見かけたことのある

美しいモデルの方々と すれ違ったり と

新鮮な世界だった。

舞台俳優さんからのレッスンや

朗読の世界にひきこんでくださる先生

できない自分に 落ち込みながらも

伝えること 伝わること 表現の 学びが

楽しくって!!

そんな中

冒頭の シーン

応募した ラジオからの

合格の電話を いただいたのでした。

次の会では

憧れだった仕事を通して

学んだこと そして これから

携わっていきたいこと

について、の マイストーリー3 完結編 です!
















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