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「〜のとき、かつ、そのときに限る」における、「〜のとき、かつ」って要らなくないか?


分析哲学とか法哲学の本を読んでいると、「Xであるのは、Aのとき、かつ、そのときに限る」という形の文章に出会うことがある。この、「Aのとき、かつ、そのときに限る」というのは、"if and only if"という英語の翻訳らしい("iff"と省略形で書くことが多いみたいだ)。ちょっと調べてみると、論理学用語であり、要するに「必要十分条件」を意味する、とのことである。つまり:

「Xであるのは、Aのとき、かつ、そのときに限る」
というのは、
「XはAの必要十分条件である」
ということを意味する。

……ということを学んだのはもう何年も前だが、これに対してはずっと、言語化できないモヤモヤを抱えてきた。そのモヤモヤとは、「〜のとき、かつそのときに限る(if and only if)」という表現は、(「頭痛が痛い」みたいな)冗語なんじゃないか、という違和感である。別の言い方をすれば:

「Xであるのは、Aのとき、かつ、そのときに限る(X, if and only if A)」
というのは、
「Xであるのは、Aのときに限る」(X, only if A)
というのと同じなんじゃないか?

……という疑問である。「Xであるのは、Aのとき、かつ、Aのときに限る(X, if and only if A)」の、この太字の部分は要らなくないか、ってことでもある。

実際、同じことを思った人もいるようだ。OKWaveに、同じような質問と、同じような回答があった(https://okwave.jp/qa/q8219577.html)。回答者は、「if and only if が only if でおきかえらない例というのは恐らくないと思います」と述べ、"if and"の部分は強調表現にすぎない、と言っている。

しかし、ただ単にこんな疑問を表明するだけでは、論理学のプロ(?)から……

「君は、必要条件と必要十分条件の違いもわからないのか?」


……とバカにされること必至である。「高校1年の数学で習うことだぞ、これだから文系は!」と煽られることになるのである(紳士的な人であれば、心の中でそう思うにとどめる、かもしれないが)。

私が純度100%の私立文系であり、ド級の数学音痴であるのは事実である。だから、この件では、私が単に勘違いをしている可能性も非常に高いと思っている。ただ、いくら頑張って考えても、やっぱりモヤモヤが晴れないのである。以下、説明させてほしい。

まず私は、必要条件、十分条件、および必要十分条件というのは、次のようなものだと思っている:

①Aのとき、Xである(X, if A)
 ☞AはXの十分条件である。
 ☞つまり、「AのときY」は排除される。しかし、「BのときX」は排除されない。
②Aのときに限り、Xである(X, only if A)
 ☞AはXの必要条件である。
 ☞つまり、「BのときX」は排除される。しかし、「AのときY」は排除されない。
③Aのとき、かつ、Aのときに限り、Xである(X, if and only if A)
 ☞AはXの(XはAの)必要十分条件である
 ☞つまり、「AのときY」も、「BのときX」も、排除される。

……具体例で説明すると、
①’「水瀬がいる」とき、「ジョンは飲み会に来る」である。
 ☞水瀬を呼んでおけば、ジョンは絶対来てくれる。
 ☞つまり、「水瀬がいる」のに「ジョンが来ない」、は排除される。しかし、「水瀬がいない」けれども「ジョンが来る」、はありうる。代わりに津田を呼べば、ジョンは来てくれるかもしれない。
②’「水瀬がいる」ときに限り、「ジョンは飲み会に来る」である。
 ☞この場合、水瀬がいなければ、ジョンは絶対に来てくれない。津田を呼んだところで無駄である。
 ☞つまり、「水瀬がいない」のに「ジョンが来る」、は排除される。しかし、「水瀬がいる」けれども「ジョンが来ない」、はありうる。水瀬に加えて津田まで呼ばないと、ジョンは来てくれないかもしれない。
③’「水瀬がいる」とき、かつ、そのときに限り、「ジョンは飲み会に来る」である。
 ☞この場合、「水瀬がいる」なら絶対「ジョンは来る」し、「水瀬がいない」なら絶対「ジョンは来ない」。
 ☞つまり、「水瀬がいる」のに「ジョンが来ない」は排除されるし、「水瀬がいない」のに「ジョンが来る」、も排除される。

これが私の、「必要条件・十分条件・必要十分条件」理解である。たぶん、これで合っていると思う(少なくとも、高校数学とか大学教養のレベルでは。それ以上はわからない)。それゆえ私は、必要条件と必要十分条件との違いは、基本的にわかっている、と思われる。この二つは、どう考えても別物である。当然だ。

その一方で、上において、「Aのときに限り」(only if A)という表現は、必要条件(Aが何かの必要条件であること)を意味するものと定義されている、と思う。そういうものです、そういうことにしよう、と言われたなら、それまでかもしれない。

しかし、やっぱり、こう疑問に思わざるを得ない。すなわち:

なぜ、必要条件を表すのに「〜のときに限り(only if ~
)」という表現を用いてしまったのか?

ある言葉をどういう意味で用いるか、どう定義するか、というのは、根本的には自由である。英語圏では"apple"と呼ばれるあの果実のことを「りんご」と呼ぶことに根本的な必然性はない。俺はappleを「ぬべふ」と呼ぶんだ、と強く主張する人がいたなら、「そうですか」と返すしかない(つまり、彼を「論破」することは原理的に不可能である)。もちろん、「ぬべふ」論者は、日本語のサークル(?)から仲間外れにされる――言い換えると、いくら「ぬべふ」と言ったところで、誰にも通じない――だろうけども。

それと同じように、必要条件というものを、「〜のときに限り(only if ~)」という表現で呼ぶことにしたんだ、そう決めたんだ、これが定義なのだ、と言われれば、究極的には、こちらが引き下がるしかない。

私自身、今後も、必要条件を指し示したいときには「〜のときに限り」と言い、必要十分条件のときは「〜のとき、かつそのときに限り」と言うと思う。それで用語が定着してしまっているのだから、仕方ない。

しかし、それと同時に、なぜこう呼ぶことにしたんだろう、と疑問を持つことも、許されると思う。どうしてそんな疑問を持つのかといえば、少なくとも私の感覚では、必要条件のことを「〜のときに限り(only if ~)」というフレーズで表すのは、なんか不自然なんじゃないかという気がするためである。別の言い方をすると:

「単体で現れる場合の"if"と、onlyと一緒に現れたときの"if"とは、全然違う意味で使われていないか?」

……というのが、私が長年抱いてきたモヤモヤの核心である。たぶん。

まず、説明のために、次のような用語法を導入したい:

①「Aのとき、Xである(X, if A)」というときの、「A」の部分を、以下では条件節と呼ぶ。「Xである(X)」の部分を、帰結節と呼ぶ。

②「Aのときに限り、Xである(X, only if A)」というときも、同じように考える。すなわち、「A」が条件節であり、「Xである(X)」の部分が帰結節である。

③「Aのとき、かつ、Aのときに限り、Xである(X, if and only if A)
」のときも全く同じ。「A」が条件節であり、「Xである(X)」の部分が帰結節となる。

I.単体で現れる場合の"if"

これを踏まえた上で、まず、①のケースにおける「のとき(if)」は、次の機
能を果たしている:
1)条件節と帰結節との分割線になる。日本語の場合は、「のとき」の前が条件節であり、「のとき」の後が帰結節である。
2)その上で、「のとき(if)」は、条件節を所与の事実として固定している。
3)その上で、「のとき(if)」を含む文は、固定された所与の事実があるときに、帰結節がどういう状態になるか、を教えてくれる。その反面として、固定された所与の事実がない場合に、帰結節がどういう状態になるか、は全然教えてくれない。
 ☞例えば、『「水瀬がいる」とき、「ジョンは飲み会に来る」(ジョン, if 水瀬)』であれば、ここにおける「とき(if)」は、これから水瀬がいる場合の話だけをします、水瀬がいない場合については知りません、というメッ セージを伝えているように感じられる。
 ☞その上で、この文章は、「水瀬がいる」場合だったら、ジョンは絶対来ますよ、と教えてくれる。しかし、じゃあ「水瀬がいない」場合はどうすれば良いのか、と聞いても、この文章は何も教えてくれない。別にジョンは来るかもしれないし、来ないかもしれない。

要するに、「のとき(if)」という言葉、あるいはそれを含む文は――「のとき(if)」が単体で現れる場合、すなわち上記①のケースにおいては――条件節を所与の事実として固定し、それを踏まえた上で、帰結節の状態について何か教えてくれる、という機能を果たしている。そういう意味の言葉だ、ということである。

II.onlyと一緒に現れたときの"if"

これに対して、②のケースにおける「のときに限り(only if)」は、単体の「のとき(if)」と、果たす機能が異なっているように思える。

すなわち、②のケースにおける「のときに限り(only if)」は:
1)条件節と帰結節との分割線になる。これは①のときと同じ。
2)その上で、「のときに限り(only if)」は、帰結節を所与の事実として固定している、ように思える。
3)その上で、「のときに限り(only if)」を含む文は、固定された所与の事実があるときに、条件節がどういう状態になるか、を教える。
 ☞例えば、『「水瀬がいる」ときに限り、「ジョンは飲み会に来る」』(ジョン, only if 水瀬)であれば、これからジョンが来ている場合の話だけをします、ジョンが来てない場合については知りません、というメッセージを伝えているように感じられる。
 ☞他方で、②ケースの文章は、「水瀬が来ている場合の話だけをしている」わけではない(つまり、条件節の事実を所与として固定している、わけではない)。もしそうだとしたら、単体の"if"の場合(上記①のケース)と同じになってしまうからである。それゆえ、②ケースにおける"only if"が固定しているのは、あくまで帰結節の事実であって、条件節ではない。
 ☞繰り返すが、②ケースの文章は、「これからジョンが来ている場合の話だけをします、ジョンが来てない場合については知りません」と主張する。その上で、「ジョンが来ているなら、水瀬はいるよ」と教えてくれるのである(対偶をとれば、「水瀬がいないなら、ジョンは来ない」となる。この観点からいえば、"only if 水瀬"は、まず水瀬を否定した上で、「水瀬がいない場合」に事実を固定する機能を果たしている、と解釈することも可能かもしれない)。

要するに、「のときに限り(only if)」という言葉、あるいはそれを含む文は、帰結節を所与の事実として固定し、それを踏まえた上で、条件節の状態について何か教えてくれる、という機能を果たしている。そういう意味の言葉だ、ということである。単体で"if"が出てくる場合(上記①)とは、帰結節・条件節の位置が、逆になっているわけである。

Ⅲ.意味が違う(機能が逆になっている)のではないか? それって不自然では?

しかしなぜ、"if"は、単体で出てくると条件節を固定する機能を果たすのに、"only"とくっついた瞬間に、「帰結節の固定」という真逆の機能を果たすようになるのだろうか? "only"ってそんな意味の言葉じゃなくないか?

ここにおいて私は、"if"の振る舞いは、この言葉の(日常用語としての)意味に照らして自然であり、その一方で、"only if"の振る舞いはかなりおかしい、と感じる。

すなわちまず、大雑把に言って、"if"というのは条件節を導く言葉である。つまり、"if A"といえば、それは「もしAだったとしたら〜」とか、「Aのときは〜」といったことを意味する表現である。だから、上記見出し「Ⅰ.」のケースにおいて、単体の"if"が、条件節を固定する機能を果たしてことには、何も違和感がない。「ジョン, if 水瀬(水瀬がいるとき、ジョンが来る)」という文があって、それを、「まず水瀬がいるとしますよね(=事実の固定)、そのときはジョン来ますよ絶対に」という意味だ、と解釈するのは自然なことだろう。

これに対して、"only if"は問題である。これは、"if"に"only"を付加した表現である。そして"if"は、上の解釈によれば、条件節を固定する言葉である。そして、固定がなされた上で、"only"という限定がさらに被せられている、と解釈できる。
 この二段階を跡づければ、次のようになると思う。まず、基本形は「ジョン, if 水瀬」である:「まず水瀬がいるとしますよね、そのときはジョン来ますよ」。これに、"only"による限定がかかる。つまり、「ジョン, only if 水瀬」である:「まず水瀬がいるとしますよね、そのときに限り、ジョン来ますよ」。
 この「に限り(only)」は、つまるところ何を限定しているのだろうか。おそらく、次のように考えるのが自然なのではないかと思う。まず、「if 水瀬」だけだと、「水瀬がいる世界」の話しかしておらず、「水瀬がいない世界(=代わりに津田が来る世界、上坂が来る世界、等々)」についてはただ沈黙している。しかし、"only"が付加されることによって、津田が来ようが、上坂が来ようがジョンは絶対に来ない、「水瀬がいるときだけ」、ジョンは来るのだ……と。
 厳密には文脈によるのだろうが、少なくとも上の「飲み会」設例に関する限り、「ジョンが来るのは水瀬がいるときだけだよ」と言われたら、「ああ、津田を呼んでも佐倉を呼んでもジョンは来ないんだなあ、水瀬がいるとき、かつそのときのみ、ジョンは来るんだなあ」と思うだろう――証拠はないが、そう感じる人は、決して少なくないと思われる。
 こう解釈するなら、「そのときのみ(only if)」は必要十分条件のことを言っている、と受け止めるのが、自然になると思う。少なくとも、日常用語的な意味から考えていく限り、この解釈は十分に成り立ちうるだろう。

 では逆に、「そのときのみ(only if)」が指すのは必要条件性だ、という解釈は、どうすれば出てくるのだろうか。先ほどと同じプロセスを繰り返そう。まず、「if 水瀬」だけだと、「水瀬がいる世界」の話しかしておらず(そのときジョンが来ることはわかっている)、「水瀬がいない世界」についてはただ沈黙している――「水瀬がいるなら、ジョンは来るよ」。これに、"only"を付加する。これにより、元々の「if 水瀬」文、すなわち「水瀬がいるとするよね、そのときはジョン来るよ」は、次のように修正される:「水瀬がいないなら、ジョンは来ないよ」、あるいは、「ジョンが来るなら、水瀬はいるよ」。これらと同じ意味で、「水瀬がいるときのみ、ジョンは来るよ」という文章は使えるのだ――これが「only if=必要条件性」説の主張であることになる。

なぜこうなるのか、さらに解釈を進めてみる。まず我々は、"if"文の時点で、「水瀬がいる世界(では帰結節がどういう状態になるか)」については語っている。だから、この世界の情報はもう要らない。それゆえ、さらに"only"を付加する理由があるとしたら、それは、『「水瀬がいる世界」以外の世界』について何かを語りたいからである。
 これを踏まえた上で、「only if=必要条件性」説による"only"解釈を考えてみると、そこには二つの選択肢があると思う:
 a)「ジョン, if 水瀬」における"if"は、「水瀬がいるなら〜」という形で、条件節の事実を固定するが、onlyがくっついて「ジョン, only if 水瀬」になると、今度は「ジョンが来るなら」というように、帰結節の事実を固定するようになる。つまり、"if"単体のときは「水瀬がいる世界」について語っていたのが、"only if"になると、「ジョンが来る世界」について語り始めることになる(これは確かに、「『水瀬がいる世界』以外の世界」ではある)。そして、「水瀬」は肯定形だから、「ジョン, only if 水瀬」は、「ジョンが来るなら水瀬がいる」となる。こうして"only if"は、必要条件性を示す表現である――「水瀬がいること」は「ジョンが来ること」の必要条件である――ことになる。
 ☞しかし、この解釈はどう考えても不自然だろう。上述した通り、ifというのは、常識的に考えれば、条件節を導く言葉(条件節の事実を固定する言葉)である。それが、"only"がくっついた途端に、帰結節の事実を固定するようになるのはおかしい。そんなアクロバティックな(?)解釈よりも、上で見た「only if=必要十分条件性」説の解釈の方が自然であるというほかないであろう。
 ただ、「only if=必要条件性」説には、とりうる選択肢がもう一つある。
 b)"if"単体の文では残ってしまう懸念(=水瀬がいる世界のことはわかった。じゃあ、水瀬がいないとどうなるのか?)を払拭するため、"only"の付加によって、『「水瀬がいる世界」以外の世界』、すなわち「水瀬がいない世界」を話題にする。その上で、「ジョン, only if 水瀬」は、❶「水瀬がいない世界においてはジョンが来ない」ことを意味すると捉える。つまり、「ジョン, if 水瀬」は、"only"がくっつくことによって、「not ジョン, if not 水瀬」というものに変わる(このように、条件節にも帰結節にも否定を分配すること、これが"only"の機能だ)、と理解していることになる。
 なるほど、ここまでは自然である。――というか、ここまでは、言い方は違うけれども、上で「津田が来る」とか「上坂が来る」などと言いながら述べたことと、同じであると思われる。つまり、ここで終われば、それは「only if=必要十分条件性」説に帰着する。別の言い方をすれば、ここまでの議論だけを前提とするなら、まず「ジョン, if 水瀬」情報(=水瀬がいるならジョンも来る)は保存されていて、それに"only"が加わることで、「水瀬がいなけりゃジョンも来ない」情報も追加された、と解釈することになるのである。
 その一方で、このb)解釈の場合には、❷『「水瀬がいる世界ではジョンが来る」(すなわち、ジョン, if 水瀬)とは限らない』という情報も追加される。つまり、「ジョン, only if 水瀬」というように"only"が付加されたことによって「ジョン, if 水瀬」の情報はなぜか無効となってしまい(保存されず)、その代わりに、上記❶(=「水瀬がいない世界においてはジョンが来ない」)だけが残る、ということになる。

 しかし、やっぱりこれは不自然ではないだろうか。

結論:ある意味では要らないし、ある意味では要る


 以上をまとめると、次のようになる:

(1)「"only if"は、"only"を付加することで、元々の"if"文の情報を保存しつつ、それに対する補足情報を提供するものである」という考え方
 ☞これを採る場合は、「"only if"は必要十分条件性を指し示す」と考えることになる(論理学における正統な用法と異なる)。

(2)「"only if"は、"only"を付加することで、元々の"if"文の情報を削除した上で、新たな情報を提供するものである」という考え方
 ☞これを採る場合は、「"only if"は必要条件性を指し示す」と考えることになる(論理学における正統な用法と同じ)。

 裏からいえば、少なくとも論理学の文脈では、「〜のときに限る(only if)」という言葉を(2)の意味で用いる、と定義されている、ということになる。

 しかし、ここでの問題は、既述の通り、日常的な用語法に照らしたとき、(1)と(2)のどちらが自然なのか、ということである。
 私自身の感想としては、(1)の方が自然だと思えてならない。なぜなら、"if"に"only"をくっつけたのに、なぜ元々の"if"文情報が消えてしまうのか、理解できないからである。"not"みたいな否定語がついているならまだしも……とまで考えて、そういえば"only"は準否定語だったな、と思い出した。
 事ここに至っては、もはや何が何だかよくわからなくなってきた――が、少なくとも、(1)の解釈は、日常的な用語法から辿っていく限り、(2)に劣らない程度の自然さを持っていること、これは確かだと思う。

 結局のところ、この問題の根源は、「〜に限る(only)」という言葉の曖昧性なのかもしれない。限るというが、何をどう限定しているのかが明確でない。「Aのときに限り、Xである(X, only if A)」なんて言い方をせずに、「Xのとき、Aである(A, if X)」とだけいうようにすればいいのに……

 いずれにせよ、本稿の結論はこうなった:

問い:「〜のとき、かつ、そのときに限る(if and only if)」という表現は、冗語か?

答え:「ときに限る(only if)」という言葉について、上記(1)の解釈を採るなら、確かに冗語である。しかし、上記(2)の解釈を採るなら、冗語ではない

主張(?):論理学では(2)の解釈が採用されているが、それに必然性があるのかはよくわからない。少なくとも、日常用語からみた自然さという点では、論理学における解釈は、ちょっと不自然なのではないか、と個人的には感じる。ただし、もちろん、言葉をどう定義するかは基本的に自由であるから、論理学における解釈が「間違い」だというつもりは毛頭ない

感想(??):最初から(2)の方が自然だと思う人もいるかもしれない(どうやってその認識に到達するのか、興味がある)。しかし私のように、(1)の方を自然だと思ってしまうタイプの人間は、「〜のとき、かつ、そのときに限る」という言葉を、モヤモヤしながら使い続けることになる。しかし今回、①自分は無意識のうちに(1)の解釈を採用していたこと、②(1)の解釈も、それはそれで日常的には自然であること、がわかって、満足している(特に①が重要である)。今後は、「〜のとき、かつ、そのときに限る」という言葉を、晴れやかな気持ちで使えそうである。

なお、英語でも調べてみたら、自分とまさに同じ疑問を持っていると思われる人がいた:

 ほぼ10年前の質問なのだが、色々議論がなされた後で質問者が追加したと思われる、質問文への付記が面白い:

I have read them carefully, and probably have done so for over a year. I understand what sufficient conditions and necessary conditions are. I understand the conditional relationship in almost all of its forms, except the form "q only if p." What I do not understand is, why is p the necessary condition and q the sufficient condition. I am not asking, what are the sufficient and necessary conditions, rather, I am asking why.

(何となくの訳):皆の回答を、もう1年以上、頑張って読んできた。必要条件と十分条件が何であるかは知ってるよ。ただ、only ifがなぜ必要条件の意味になるのかがわからんと言ってるんだ。必要条件と十分条件が何かを聞いているのではない。「なぜ」を聞いてるんですよ。

 おもしろ。


補論:「if→only if→if and only if」か、それとも「if→if and only if→only if」か

 上の(1)の解釈は、別の言い方をすれば、まず"if"の意味を考えて、それに"only"をくっつけることで、"only if"の意味を考える、というプロセスを辿った。すると、"only if"はそれ自体が必要十分条件性を意味することになるから、"if and only if"は冗語である、つまり、「頭痛が痛い」みたいな余計な表現であることになる。――"if"情報は"only if"の中に入っているのだから、それに加えて"if and"をくっつけるのは余計である、と。この追加はせいぜい、ただの強調表現だ、ということになるわけである。

 これに対して、"if"からいきなり"if and only if"を作り、そこから"if and"を引き算して"only if"を作る、というプロセスを辿ると、上記(2)の解釈が自然に得られるのかもしれない。つまり、まず十分条件性があり(if)、それを狭く「限定」したものとして必要十分性の表現を作る(if and only if)。感覚としては、「もしAだったら……ああ、ここで『もし』というのは十分条件じゃなくてもっと狭い意味ね」というニュアンスで、"and only if"を付け加える感じである。この場合、「Aであるとき、かつそのときのみ(、X)」だから、もちろん意味は必要十分条件である。これに対して、ただ単に"only if"とだけ言うと、上述したように"only"の意味は曖昧なので、何を言っているのかよくわからなくなる。だから、必要十分条件を表すときは、"if and only if"と言った方がわかりやすくて安全だ。
 こうして十分条件の表現と必要十分条件の表現が得られた。しかし、必要条件をどうしようか。「Xであるとき、Aである」とか、「AでなければXでない」と言ってもよいが、前者はAとXの順序が逆になっちゃって気持ち悪いし、後者は否定語が入るのでまどろっこしい。……ここで誰かが、「そうだ!」と思いつく:"if and only if"から"if (and)"を引き算して"only if"を作ればいい。この場合、必要十分条件から十分条件を引き算するのだから、その意味は必要条件だ、ということになるだろう。これで、AとXの順序を崩さず、否定語も使わずに、必要条件を表現できるじゃないか!

 ……と、こんな発想が背後にあったりしないだろうか。少なくとも、こう考えると、「なぜ"only if"は必要条件を意味するのか」が、直感的にわかりやすくなるのではないだろうか。

この仮説でいくと、歴史的に(?)、まず"if"表現と"if and only if"表現が出てきて、後から逆算的に"only if"表現が出てきた、という経緯がありそうな気がする。実際はどうなんでしょうね。




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