NO:004【茶番の剣心】

 今回は、いい加減なユーチューバー達と同じように、私もアニメを観ていて思った感想を語ろうと思います。
 でも、彼らと違って、別の角度から作品を観て語るので、読んでいる人は新たな発見と作品に隠された意図を読み取れれば幸いです。
今回取り上げるのは、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』と言う作品です。

https://rurouni-kenshin.com/

 まだ、放送途中ですが、あらかた製作者側の意図は読めますので呆れながら語ろうと思います。
私がこの作品を観て思った感想はズバリ!!『茶番の剣心』と言う一言に尽きます。
 なぜ、私がこの作品を『茶番の剣心』と呼ぶのか…それは、作品全体が一つのお芝居を演じているように制作されているからです。
 例えるなら、歌舞伎の舞台のような場所で役者が演じており、しかも、その役者は3流以下のへぼ役者である。
 面白いことに、2番目のオープニングで歌舞伎のような舞台を背景として使用している。

これは偶然なのか? それとも必然なのか? 今回はこの『茶番の剣心』について語ろうと思います。

【茶番に見えてしまう要因】
 この作品が『茶番の剣心』として観えてしまう原因は複数あります。しかし、1話ごとに語っていたら大変なことになりますので、今回はざっくり、
シナリオ・背景・演出・作画の4つの分野の観点から語ろうと思います。

【シナリオ】
 作品を語る上で、やはり、まず最初に語るべきなのは、シナリオ/脚本こと物語です。
 やはり、20年以上の前の作品ですから現在の日本の作品より物語はしっかり作られています。
そして、リメイクする際、全体的に話を整理しており、1章ごとのようなまとめ方をしているような気がします。例えば、1話は、神谷薫。2話・3話は、明神弥彦。4話、5話は、相楽左之助と言ったように、各話ごとに登場人物が初登場する話を区切るように綺麗に整理してシナリオを制作している。
 しかし、この物語の区切り方が作品全体の茶番感を生み出す要因となっていると考えています。
 これも失われたアニメ産業の技術なのですが、このような原作ものは、基本的に話の流れを区切るようにして作られてはおらず、必ず物語全体に一つの大きな流れを汲み込んで制作されます。特に、ジャンプ作品などの連載系の作品は、この流れが作品全体に組み込まれており、初期に登場した伏線がのちのち後で回収されることによって読者/視聴者の度肝を抜きます。
 一つ一つの独立した物語のように見えて、実際には大きな物語の一部としてそれぞれのエピソードがあり、最終回に繋がる。これこそアニメや漫画などの作品の面白さである。
だが、今回の『るろうに剣心』においては、あったはずのこの流れが上手く機能していない。
【東京編】と言う大きな区切りで、剣心と薫・弥彦・左之助の出会いなどが展開され、その後、単行本のエピソードごとの「斬左編」「黒笠編」「恵編」「雷十太編」をこの2クールのテレビアニメの中に組み込まれている。
この大きな枠組みがあるはずなのに、一つ一つの物語があまりにも綺麗に区切られてしまい各話の繋がりがなく、独立したような形になってしまっている。
例えば、序盤の段階で後半の話に繋がる重要人物を割と初期に登場されると言った方法があります。
 今回の『るろうに剣心』においては、4話、5話で、左之助の話を語った後、18話19話で左之助の親友であった月岡津南と偶然再会して、彼と共に内務省を襲撃すると言う話があるが、18話の冒頭から独立したようなナレーションを入れて物語を展開した為、茶番感を出した始まり方になってしまい、あまりにも不自然過ぎる親友との再会によって、茶番劇のように観えてしまう原因となっています。
 この場合、前もって、月岡津南が偽名を使って水墨画を描いている絵師で有名だとか、火薬関係の不自然な事件が起こっているなど、伏線になるような匂わせ方を前半に描いておけば、18話での伏線の回収で物語はより面白くなったものだと考えられる。

【背景」
 デジタル作画の影響で全体的に綺麗だが、この綺麗さが茶番感を生み出す原因となっています。
旧作において、そのような違和感を出さずに、作品に没頭できたのは、一言で言うと、『背景』の全てがアナログ作画で、つまり、絵具で描かれた絵であることが最大の理由だと考えています。
現在の背景作画は、アニメ産業の分業化の影響で、建物や特定の場所を作り込むような考え方はなくなり、その人物がそこにいると言う事実だけを抜き出したようなものになっています。
例えば、街に居れば街の背景、山に居れば山にいる背景と言ったように、そこにいる事実だけを抜き出して絵作りします。
作品の舞台が街だとした場合、その街が都会のような繁華街なのか、それとも田舎町にあるものなのか、それとも、海沿いの港町なのか、と言ったような違いがあります。 
しかし、現在の日本のアニメ産業においてはそのような細かい指定やこだわりはなく、ただ、脚本上で書かれているような、【○街・外(昼)】と言ったト書きの情報だけを引き出すことさえできていれば問題なく、視聴者も全く背景画などに興味や関心がないためそれほど問題視されません。
この影響によって、背景の作り込みの概念が失われ、背景よりキャラクターを中心とした絵作りがされるようになってしまいました。
それでも、アニメーションの背景画にはまだ、若干の力ありましたが、2010年代に入り、デジタル作画が主流になると、背景作画の大半がPC上で描かれるようになり、例えば、『名探偵コナン』のような綺麗過ぎる背景画が誕生する事態となってしまいました。
描かれる道路は全て、綺麗に舗装工事が完了したばかりの新品そのもの。
床のタイルも窓ガラスも天井も壁紙なども全てが新品であると言う、あの違和感丸出しの綺麗な背景画は全てPC上で制作された絵なのです。
全てのアニメーション制作において、必要な絵を全て用意することは容易ではなく、期間内に完成させなければいけない為、背景担当者たちは、手抜き手法として、絵の使い回しをするようになりました。
デジタル作画によって、絵具で描いていた時と違って、素材を1から作る必要がなくなり、床や道路、壁紙などの素材を前もって作って置き、それをPC上で合成して、絵コンテ通りに作画します。
さらには、他で描かれた絵を切り取って、絵コンテ通りに見えるようにPC上で調節して絵を作る。こうすれば、期限内に背景を全て用意できます。
また、よく絵の描き方をかじったド素人が言うパース話も簡単で、今はCGソフトを使ってある程度のパース合わせをしてからレイアウトを作ってこのパース問題を解決させます。
しかし、この手法がアニメーション制作において、背景の力を衰退化されることに繋がってしまいました。
手抜きを覚えれば覚えるほど、絵の質が悪くなり、さらに絵具の技術が失われ、違和感を生み出す絵の増産に繋がりました。その結果、難しい構図の絵や絵を見せる概念が失われ、
例えば、『アルプスの少女ハイジ』の美しいアルプスの山のような絵はもう2度と描くことができないほど、アニメーションの背景分野は落ちぶれてしまいました。
※綺麗な背景について、新海誠の話を持ち出す人はいると思いますが、彼の影響で衰退化したことも事実です。ここではそこまで語りません。

例:
『私の推しは悪役令嬢』

『名探偵コナン』

次は、【演出」についてです。若干長くなったので少し削って語ります。
 今の日本のアニメ産業は予算とアニメーターの技術・人材不足により、動かすことを拒絶しているため、止め絵のカットが多くなっています。
さらに今回作品を観ていて、驚いたのですが、本来、カット同士を繋ぐ動きのカットがあるはずなのに、そのカットを描きたくない為(理由は、たくさん動くため)、描かず、飛ばすと言うやり方をしている。

例えば、
第2話
これは分かりやすいシーンで、本来、剣心の周りに街の人が押し寄せるシーンとの間には、街の人が歩み寄る歩きのカットが必要なのですが、そのカットを描かず、2つのカットを繋げているため、非常に不自然な演出となってしまっている。

第10話
 短刀のシーンがあり、このシーンは本来、短刀が蒼紫によって投げられて、高荷恵の足元に当たって、止まるのが本来のアニメーション、映像として求められるシーンなのですが、動かしたくないため、音と止め絵のみで誤魔化しています。


私はこのやり方を【飛ばしカット】と命名することにしました。
 このやり方は、現在放送中の他の作品にもいくつか観られ、それだけ描きたくないために、用いられる手法だと考えられます。
 必要な止め絵や顔のアップなどで画面は誤魔化し、声優の会話劇だけで誤魔化す。
このようなことをするのならば最初からアニメ化する必要はなく、紙芝居にすればいい。アニメーションは動いているからアニメーションなのですから。これでは、アニメーションの本来の良さを冒涜しているに過ぎません。
 今後、今のような産業の衰退化が進めば、この手法が主流になり、さらに描くことができなくなると考えています。
 10年前や20年前、旧作の制作当時は、ここまでのこのような手抜きをするような考え方はなかった。
 しかし、これだけ時代が経ち、技術や機材の進歩があるにも関わらず、旧作に劣るような演出をしている時点で、アニメ産業の末期を見せられていることに気が付かなければいけない。
 しかし、指摘する者はいない。視聴者のレベルも制作スタッフのレベルも低いと言うことなのである。

【作画」
作品全体として、低予算アニメの中では上位の方に該当するほど予算がまだある方に該当する『茶番の剣心』なのですが、作品を作っている制作スタッフの考え方は透けて笑えて来るように手に取れる。
要するに、【描きたくない】のだ。
 一般的に、アニメを観ている視聴者は、作画が凄い、綺麗だなどと言って作品を褒めるが、アニメーション制作をしたことがある人や現場を知っている人間なら作品を観ているだけで作っている人間の心情が読み取れてしまう。
 例えば、絵は全体的に綺麗に作画されているが、これはデジタル作画の影響によるものであり、PCで作画することにより、絵を綺麗に描くことができ、細かいところを修正することができるため、このような綺麗な絵になっていることを理解しなければいけない。
 また、PC上で描かれた絵は縮小が自由自在のため、大きく描いた絵の素材を編集の段階でサイズ調整をしているため、顔の線画が潰れず綺麗に作画できる。
 ただし、これは本来の絵の見え方としては、間違っており、私達の目には近くのものは大きく細かく見え、遠くのものはボケてはっきり見えない。つまり、遠近法の概念から逸脱することになり、これは不自然な絵になるのだ。
今の日本のアニメーション業界全体は、絵を綺麗に描くことだけに神経を注ぎ、動かすことをなるべく避けるようにして、ほんの少しの動きを入れることによって、動いているように観せかける手抜き手法が横行している。
このような事態になったのは、予算問題とアニメーターの技術不足、人材不足によるものであり、10年、20年経とうが一切この問題を解決することができていないのだ。
そして、観ている視聴者の知能レベルの低さにより、実際に作っている制作スタッフのことを理解するような人はいない為、よくできているようで、できていない。発展しているようで衰退化しており、アニメ産業全体が劣化している現状になっている。

さて、ここで私が『茶番の剣心』を観ていて、茶番劇だと感じてしまった一番の要因について語ろうと思います。それが、【悪党の歯並びが綺麗なこと】です。

【悪人の『歯/歯並び』が綺麗】
 通常、日本のアニメーションにおいて、歯が綺麗な人物を描く場合、歯並びに自信があるような二枚目キャラや金持ちキャラなどを作画する場合のみ、最初から演出側からそう言った指示が出て、このような作画をします。
しかし、この作品は異常なほど悪人どもの歯/歯並びが綺麗なのです。
主人公サイドのキャラクターたちは、他のアニメと同じような描き方をしています。
通常ではこのような作画は行われません。
ここで考えられることは、2つあり、1つは、演出側から指示を出されている場合。もう一つは、デジタル作画の影響だと考えられます。
私個人としては、デジタル作画の影響だと考えています。
このような作画が可能になったのは、デジタル作画=PCで絵を描くようになったことが最大の要因であり、キャラクターデザインの段階でそのようにデザインされ、アニメーターがその通りに描いているのだと考えられます。
 旧作が制作された1996年の時や2000年代においては、歯の作画において、このような絵は演出側から指示が出されない限り描きませんでした。
なぜなら、どう頑張っても、歯を綺麗に描くことはアナログ技術において、鉛筆では、描き切ることが大変だったからです。
そのため、私達が良く知るような歯の簡略化した絵になったのです。
しかし、それはそれで作品を魅力的にする要因として機能していました。
では、今回のこの作品において、この異常なほどの歯並びの良さはどのように影響を与えているのか…それは、悪党側全員が役者のように見えてしまってしまう効果として発揮されていることが問題なのです。
本来、悪人やごろつきのような人物たちは、そこまで自分の歯並びを治すだけのお金や意識はありません。また、明治時代において、そこまでの医療技術が当時の日本にあったのかも疑問になります。
そこで、もし、彼ら(悪人/ごろつき)が全員役者と見るならば確実に説明が付きます。
意図的に起きたことか、偶然そうなったか、分かりませんが、今回の『るろうに剣心』を『茶番の剣心』に変えてしまっている要因となっていることは事実です。
※まぁ~指摘して初めて気が付く人が大半なのですけどねぇ。

さて、ここで最後に、リメイクした理由の考察と感想を語って終わりにしようと思います。

【『リメイクした理由』の考察】
 そもそも、なぜ、このタイミングで『るろうに剣心』を再度アニメ化する必要があったのでしょうか? 既に、映画化、アニメ化も済んでおり、そもそもこの作品をリメイクする必要性はないのです。
なのに、今回リメイクしました。この理由について考察してみるとします。

1)2期やるのでしょう~(笑い)
 まず、このことについて触れなければなりません。2期をやる気があると言うことです。
放送開始時、ネット上では、尺の問題があるため、リメイクには、無理があると言われていました。そして、放送が開始されて、その後、連続2クールアニメであることが判明しました。
しかし、旧作を観る限り、作品の一番の山場である『志々雄真実』が登場する【京都編】を制作するまでの尺が足りないことが分かります。
 だからこそ、このタイミングで私はこの作品を話題にしたのです。
 この作品は、放送後、2期の企画があり、【京都編】が来年の24年の春頃か夏頃に放送する計画であると言うことが作品の内容と話の切り方から判断できます。
しかし、この作品の続編を制作しても売れないと考えられます。
 なぜなら、旧作と見比べても、作品の質が違い過ぎるからです。
 旧作の場合、主人公たちが本当にそこで生活しているように観えるし、演出、作画などにおいて、どれも今のアニメより優れているからです。
しかし、このようなことを語ると決まってネット上で自称アニメファンを語る連中は共通してこう語ります。
『今の時代は配信があるから元が取れる』と…では、私はそんないい加減な意見を言うあなた方に聞きます。
あなたはお金を払ってまでこの作品を観ますか?と答えは同じでしょう。
 観ません。
 なぜなら、観たいと思うだけの内容ではないからです。
 『タダ』だから観るのです。
テレビやニコニコ動画などの配信サイトで『タダ』で観れるから観るのです。お金が発生したらこのようなクソアニメは絶対に観ません。
それぐらい酷い出来で、救いようがないく、こんな駄作を観るくらいなら旧作を観た方がはるかにましだからです。
分かります? 今の日本のアニメーションを観ている理由は全て、『タダ』だから観ているのです。お金が発生したら観ません。それぐらいの力しかないのです。

2)アニメ化理由は悪意から~【明治時代】がキーワード
でも、もしここに別の意図が込められているとしたら皆さんはどう考えますか?
もし、この『るろうに剣心』をリメイクした理由が、売れているから話題作だから人気作だからリメイクしたのではなく、別の目的でアニメ化する必要があったとしたら、どう考えますか?
そのキーワードが【明治時代】を題材とした作品と言う答えです。
この作品が放送された時、23年の夏アニメには、もう一つ【明治時代】を題材とした作品がありました。
 それが『私の幸せな結婚』と言う作品です。

https://watakon-anime.com/

 こちらも【明治時代】を題材とした作品であり、この2作が同時に放送されたのは偶然ではなく、必然だと言うことです。
壱原侑子:「この世には偶然などない。あるのは必然だけだ」

皆さんはCLAMPがなぜこの言葉を作品内で執拗に使うのか分かりますか?
 この2作品が【明治時代】を題材とした作品であり、同時に放送されたのか、分かりますか? もう分かるでしょう。
 そして、旧日本軍、大日本帝国軍、満…これ以上は放送禁止用語になりますので控えます。
もし、『るろうに剣心』に2期があった場合、同じようにこの『私の幸せな結婚』の2期も放送されることになります。
これは偶然でしょうか? いいえ、偶然ではないでしょう。そこには必然があるのですからねぇ。
そして、私から言える一言は、「もう、終わりなのだから諦めなさい」の一言に尽きます。
全ての始まりは手塚治虫の『鉄腕アトム』から始まり、2011年以降からのアニメ産業の乗っ取りから現在にまで続いているこの悪意の流れ。
まともな人は誰一人、このような連中については行きません。
そして、もう、終わりなのです。
アニメ産業が、かつてのような輝きを取り戻す日が来るとするならば、それはこのアニメ産業に隠された闇が表に明かされた時だと私は考えています。
もう、その術は解けてしまったのですからねぇ。

・感想
 今回、初めて『るろうに剣心』と言う作品を、ちゃんとした形で1話から観直すことになったのですが、本当に観れば観るほど、旧作が観たくなるような作品でした。
 綺麗なだけで、何もない。
 まるでNHKの大河ドラマを観せられているような気がします。
 時代劇で、現代みたいに舗装された道路がない中、土煙が舞うため、どこに居ても汚れてしまうような世界で、綺麗な服を着た役者が下手な演技をしてお芝居する不自然極まりない異常な世界。この『るろうに剣心』はその大河ドラマをアニメーションで描いたような作品のように観て仕方ありません。
 よく、ネット上では、色んな過去の名作をリメイクしろ!と言う声がありますが、ここまで劣化し続けるのでしたら、もう二度とリメイクしないでもらいたい。
 そして、過去があるから現在があることを忘れて過去の作品を馬鹿にする人が多いですが、日本のアニメの本質を知った時、過去の作品がいかに化け物じみているのかを知ることができると言うことを私はここで『断言』します。
 私達はそれほど凄いものを観せられていたと言うことなのですからねぇ。

ここまで読んでいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?