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森 高弘句集「光れ光れ」

森 高弘さんは、「童子」の同人です。
私よりかなり若い方ですが、俳人としては10年も先輩。
既に2010年には、小早川忠義という俳号で歌集「シンデレラボーイなんかじゃない」を上梓されています。
6ページにもわたる序文を、辻桃子先生が書いていらっしゃいます。
この序文、桃子先生の高弘さんに対する愛情をひしひしと感じて、本当に感動しました。
童子の連衆と桃子先生との間には、このような深い繋がりがあるのだなあと、改めて感じて、ちょっと羨ましくなりました。
童子に入会して6年目の私には、桃子先生は残念ながら、まだまだ遠い存在ですね。

森高弘さんには、Twitterでフォローさせていただいていますが、先日の童子35周年の祝賀会で、初めて名刺交換だけさせていただきました。

句集に収められている句は、どれも景を淡々と描写していながら、ふっと湧き出てきたような作者の思いを充分に感じることができます。

荒東風や膝頭ひざがしらにてメモ書いて
こういう状態になることはよくありますよね。吟行でしょうか。春の強風もどこかうきうきとしたものを感じます。

童顔の押し売り来たり秋の昼
顔を見て、まさか押し売りだとは思わなかったのでしょう。見た目の判断ミス、わかります。

ラガーマン踏ん張る脚の隆々と
ラグビーの試合でここを見るか。いや、自分も見ていたはずだし、感じてもいたはずなのです。でも、改めて句にしたものを読むと、隆々としたラガーマンの脚がより鮮明に浮かんでくるから不思議です。

螢籠光れ光れと夜明けまで
句集の題名となった作品。だんだん光を失っていく螢への「光れ光れ」という呼びかけは作者自身へ向けられたものかもしれませんね。

目貼剥ぐついでに床のガム剥いで
高弘さんは、コンビニの副店長をやっていらっしゃったそうです。その仕事の景なのかなと思いました。「ついでに」という措辞で床のガムを剥ぐという行為が、仰々しくもなく、毎日繰り返される仕事の一端なのだと感じられます。でも、淡々とした詠み方の中に小さな不満のようなものを感じてしまうのは、深読みでしょうか?

修司忌やカレー饂飩に箸染まり
「修司忌」は寺山修司の忌日。寺山修司というと、私たちの年代は、どうしても「時には母のない子のように」とか「戦争は知らない」を思い浮かべてしまいますが、俳人としても秀句を残されているんですね。
でも、「カレー饂飩に箸染まり」は、やはり美味しいものを食べている間に知らず知らずのうちに汚されていく戦後の我々の危うさのようにも感じてしまいます。

この句集には多くの忌日句が収められています。「忌日句にはその人への畏敬の念が込められていなければならない」とよく言われます。私はつい忌日句を避けてしまうのですが、今年は、少し挑戦してみようかな。

六尺をきつく締め合ひ宵祭
桃子先生が、序文の中で、秀逸と評していらっしゃる句。本の帯にも、この句と桃子先生の序文が使われています。

祭の若い衆が互いに祭褌の締め方にも慣れず、六尺の長さをもてあましつつ、渾身の力で締め合っている。赤く力んだ顔と真白な締込みがくい込む尻が見える。あたりにはすでに、祭囃子が鳴り渡り、笛太鼓や掛け声の興奮が渦巻いているのだ。

まるでドキュメンタリーの一場面のような鑑賞文です。この句の素晴らしさが、桃子先生の感性を刺激したのでしょうね。

まだまだ秀句がたくさんあります。
この句集は、AmazonのKindle版でも読むことができます。

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