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私は小さい頃から生きづらさを感じていたが
悩んだことはない

集団での行動が苦手で
できれば一人で遊んでいたい
争いごとも好まず
出来るだけ避けたい

そんな子供なわけであったため
幼稚園のお遊戯で
主役に立候補はしつつも
親分女子に
「えりちゃんはやっちゃダメ!」
と遠回しに言われ
反抗することもなく
譲ってしまうぐらい
争うごとは避けたい子供だった


小学校に上がってからは
学校に行きたくないストレスから
入学式の次の日には
体調を崩し
発熱の症状がないため
母親に引きずられながら
学校へといった思い出がある


というぐらい集団での行動が苦手で
いつも
「変わってるね」
分類に属されている

この評価に対しては
なんの感情も感じなかった

そんな状況は
好きなことはとことん続ける性質を発揮し
その結果を得たことで
「変わっている」分類から
「すごいね」評価へと変化したのだ


しかし、その中でも葛藤はあったわけで
集団スポーツの難しさと、自分の他人との関わりに関しては
ずっと違和感を抱えていた

その違和感に関しては、
自分が一人で生きていくためだけの人生であれば
自分がどこに属して、どこにいれば生かされるかを
どこに自分がいたいかなど判断できていたのだが
母となり、子供のことを主軸に考えなければ
ならないと自分に言い聞かせていた時期には
うまく判断ができなくなった

なぜなら
自分の基準ではなく
子供にとってのベストを
選んであげたいと思ったからである

そして、そこが私にとって
居心地が良い場所であるとは
限らないのである

子供いとって良い環境と
私にとって良い環境は
イコールではなかった


しかし、いったん社会から離れてしまった私にとって
自分の居場所を見つける考えは持てず
子供の居場所と自分の居場所を
一緒にしてしまったことで
苦しい思いをしたのだ


だから考えたいのは
自分の今いる場所に違和感を感じるなら
自分がいたいと思う場所は確保しておくことだ
無かったら見つけることだ

これは別に子供と向き合っていないわけでも
育児をおろそかにしているわけでも
子供を愛していないわけでもない


子供も私も一人一人の個性だ
私の感覚と子供の感覚は違う
自分がいたいと思う環境も違う
だからこその行動なのだ


その居場所を得るためにも
情報は必要だと思う
しかし、情報は取りに行かないと
手に入らない

待っていても
見つからないのだ

誰にでも届くように
そんな社会にしたい


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