原典主義の危うさ

 僕はよく、いわゆる「古典」や「原典」、「名著」といったものを読もうとする。岩波文庫に入っている類の本である。そういう文献は読み切れることもあるし、読み切れないときもある。
 その原因はなんだろう、と考えたときにやはり小学生の頃に母と挑戦した新旧約聖書の通読があるように思われる。通読といっても母が毎晩一章ずつ音読し、私としては布団に寝転がってただそれを聞いているだけではあったのだけれど。ともかく休みもはさみながら、とうとう中学生に上がるまでには創世記からヨハネの黙示録まで、(プロテスタントなので)外典を除き読み通すことになった。聖書を読み通せばたちまちのうちにキリスト教に通暁した教養ある人間になれるかと言われればそんな簡単な話ではないのだが、ともかく私の原体験として「一度オリジナルに触れる」というのは非常に重要な価値を占めるようになった。
 中学時代においてはそういった読書等における原典主義はいったん鳴りを潜めたが、代わって様々なネットミームの元ネタを漁るようになった。仮面ライダー剣を履修したのもこの時期だし、「エアーマンガ倒せない」を聴いたときにはファミコンのロックマンシリーズは大方履修した。七色のニコニコ動画で流れている曲で好きな曲は原曲を聴きに行ったりもした。
 こうしてこのある種の「くせ」が強化されたまま、高校時代に入る。高校の世界史の授業で古今東西の名著が取り上げられている中で、当時塩野七生に傾倒していた私はカエサルの「ガリア戦記」とマルクス・アウレリウス・アントニヌスの「自省録」を読もうと決意した。これを手に入れるための小旅行についても語りだしたらきりがないのだけれど、ともかく自省録を入手した僕はこれを読み始めたわけだが、これがもう当時高校一年生の私が手に取って読むにはかなりハイレベルな代物。当然といえば当然で、紀元二世紀最高の哲学者の一人が書いた本に、当時十六歳の少年はこてんぱんにやられた。しかしそこでくじけなかったのは高校生の純粋さによるものか、あるいは哲人皇帝への憧れか、とにかく来る日も来る日も読み続け、ついに読破したのであった。こうして読破した本は私の中で特別な一冊となり、今なおそれを読み切ったという事実は私の自尊心の一片を構成しているとさえいえるだろう。そしてこれに味を占めた少年はその後も高校の世界史に名前の出ているような哲学書、あるいは小説でも古典的名作と呼ばれるようなものを中心に読んでいくことになる。

 と、ここまで私の「輝かしき」高校時代の読書体験をつづってきたわけだが、私はいまやこれを衒学的な知的興奮を楽しむ一少年の自惚れとしてではなく―いや間違いなく私の中にそういった感情は潜んでいるのだけれど―むしろ探究者として批判され得べき対象として紹介したいのである。ここまで長々と私個人についてのいささか自伝的な語りを続けてきたのは、この具体的事例からこういった学びの批判すべき点を例示するためである。
 こういった読書において、最大の問題は言うまでもなくその解釈が皮相になりがちであるという点である。あれだけ長々と自省録に対する感想をつづっておきながら、その主内容たる後期ストア哲学に対するコメントはほとんどないに等しい。読み切ってから時間がたっているというのは無論のことであるが、その哲学を体系的に理解できているかと言われると、はなはだ疑問である。批判的読解などできようはずもない。これではせっかくの読書もその価値を半減させられてしまう。
 また、ただ理解が不十分になるだけならまだしも、誤った理解をしてしまう場合がある。これは十全にわからないと感じているときよりもよほど問題である。誤解を恐れずに言えば、誤って理解してしまうならば最初から読まないほうがマシである。誤った理解に基づいて誤った解釈をすれば、誤った結論が出るのは必定である。探究者として本来の目的を著しく逸脱していると言わねばならない。
 あるいは、そういった理解は「正しい」のかもしれない。しかしながら特に哲学的な文章の場合、それを愚直に形而下に実現しようとすれば必ずや現状との軋轢が生じることになる。近年激しさを増す宗教の原理主義的宗派もその一つと言えよう。聖典などのテクストを字義通り解釈するのは、少なくとも今現在の世界をまったく無視した懐古趣味に過ぎない。
 では原典に触れたりすることは少なくとも初学者においては全く無意味なことであろうか。私はそうではないと考える。大切なのは、自らの解釈が間違っているかもしれないときには、それをいったん批判的にみることではないだろうか。
 言うまでもなく、著名な哲学者の著作やその思想は、既に様々な解釈や批判が積み上げられている。もし本当にその思想を深く理解しようとするならば、そういう巨人の肩に乗ることも必要だろう。
 ではそういう情報に一体どこで触れることができるか。手っ取り早そうなのは書籍だろう。世の中には哲学者の難解な著作を初学者にもわかりやすく説明しているものも多い。しかし、こういった書籍のタチが悪いのはどれが本当に有益な情報かわからない、ということである。インターネット上の情報は言うまでもないが、様々な書籍でも特に難解なテクストの場合にはどれが正しい理解か見極めるのが極めて難しい。そもそも見極める力をつけるためにこのようなことをしているのだから見極められなくて当然なのだが、見極める力をつけるために見極める力が必要なのでは卵と鶏状態になってしまう。ならばどうするかといえば、我々のような学生においては、まず身近に学問の専門家が多くいるというこういった探究において極めて恵まれた環境であるのだから、この指示を仰ぐのが良いと思われる。また本来、そういう要望が多くあるものについて開かれるのが学期期間の講義であるから、自らが関心のある講義を率先して受けることが理解につながるであろう。
 と、建前で考えればこういうことなのだが、実際にはそのように興味関心に合致した講義ばかりとは限らないし、万一そうであったとしても、その講義すら難解であることもあろう。第一、今の日本の大学の学部生がそんなことができるかと言われれば個人的、ないし社会的条件のために難しかろう。私自身、いまだこういった自らの意欲にしっかりと合致した研究ができているかと言われれば疑問である。
 しかしながら、それを差し引いたとしても大学が一般社会に比べてこういった情報を集めるのに適した場所であるということには変わりなく、その姿勢を持ち続けることが将来的な探究の進展にもつながるのではないか、等と思う次第であった。

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