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『史記』「鴻門之会」(授業のヒント)

 状況を想像させる発問が授業を活性化する。そのためには生徒に、具体的な状況が重要なのだと感じさせる必要がある。
 今回は「鴻門之会」を取り上げて、状況を想像させる発問を工夫してみる。

 「鴻門之会」宴席の場面での発問では、「項王はなぜ范増の合図に応えなかったのか?」というものがある。グループ学習に取り上げられたのを見たことがあるが、活発に学習活動が行われているとは思えなかった。課題が難し過ぎるのである。正解らしい答えが出なくても、いろいろ違った意見が出てくればいいのだが、この課題ではそれが難しい。また、この問いを突き詰めて考えていくと、結局、項王の人格的な面を取り上げることになる。具体的なものや状況を想像するようにならないので、読みが深まった気になりにくいのである。
 そこで、次のような発問はどうだろうか。この発問は一通り内容を押さえた後で、振り返って取り上げるという方がいいかも知れない。

【発問1】張良が「甚だ急なり。」と言ったのはなぜか。

 これに対して、「項荘が剣舞にかこつけて沛公を殺そうとしたから」という回答が出るだろう。「今者項荘剣を抜きて舞ふ。其の意常に沛公に在るなり。」張良がそう言っているのだから、間違いではない。「其の意」とは何かをきちんと捉えている。だが、この回答では不十分である。不十分である理由は、張良が樊噲を呼び出した直前の場面にある。その具体的な状況を想像すれば、不十分であることが分かる。そこで、直前の場面での状況を確認するために、次のような発問をしてみる。

【発問2】項荘は沛公を殺せたのか?

  ・項荘は沛公を撃ち殺すことができなかった。

 張良が樊噲を呼び出しに軍門に行く前に、「荘 撃つを得ず。」とあるから、この回答は正しい。
 では、なぜ項荘が沛公を撃ち殺せなかったのか。それは、項伯が剣舞を舞いながら、項荘の剣から沛公を守ったからである。項荘と項伯は剣舞を舞いながらの攻防を行っている。この攻防が長く続けば、項伯が不利になり、いつかは沛公が殺される、ということになるかと言えば、決してそうはならない。項荘と項伯の関係、項伯と沛公の関係(補助資料を与えておくといいだろう)から考えると、項荘が項伯に斬りかかり、隙を見て沛公を撃つ、といったことはできないだろう。項伯は沛公を守り続けるだろう。そうして剣舞が長くなれば、項王が剣舞を止めることもあるだろう。いわゆる膠着状態である。つまり、項荘と項伯の剣舞の攻防は膠着状態にあり、その状態は項荘が剣舞を止める時まで続くということである。緊迫した状況である。けれども、項荘には沛公を殺すことはできない。だから、このことだけで「緊急事態である」とは言えないのである。
 それらを踏まえると、【発問1】は、次のように変化させることができる。

【発問3】張良はなぜ膠着状態にもかかわらず、「甚だ急なり。」と言ったのか。

 この発問を考えるために補足的な発問をしてみよう。

【発問4】張良はなぜ樊噲を呼び出したのか。

 回答例を挙げる。

  ・項荘が剣舞を舞いながら、沛公を殺そうとしているのに気づいたから。

 さきほど取り上げたように、張良の言葉だけから考えると、こういった回答が出てくるのだが、状況からすると不十分な回答である。

  ・樊噲に沛公を助けてもらうため。

  ・沛公の参乗である樊噲に命をかけて沛公を守ってもらうため。

 この辺りまで来ると、「項荘以外の誰かが沛公を殺そうとしている」状況にあるから、張良は「甚だ急なり。」と言ったのだと分かってくる。

 張良の立場からすれば、樊噲に宴席に入らせるのは、命を捨てても沛公を守らせるためである。もちろん樊噲もそのつもりのはずだ。すると、樊噲の「之と命を同じくせん。」というセリフは、沛公と生死をともにすると解釈するべきではない。自分が死んでも沛公をお助けする、という気持ちが込められていなければならない。項荘と生死を共にするという解釈もあるが、項荘と刺し違えても沛公が無事とは限らない。項荘だけでなく、その他の人物からも樊噲は沛公を守らなければならない。結局、樊噲が沛公と二人で宴席を抜け出すということを考えると、「之と命を同じくせん。」は運命をともにする、と解釈するべきだろう。伏線的なセリフだと解釈するのがいいかも知れない。

 具体的な状況を想像させるために、もう一つ前の場面を利用することも出来る。

【発問5】范増の合図に項王が応えたとしたら、范増はどうしたか? そして、どうなったか?

 この発問は設定の仕方によっては、グループ学習に適している。「范増はどうしたか? そして、どうなったか?」をできる限り具体的に討議させるのである。そして、疑問が湧いてきたらメモしておくように指示しておく。
 当然、「范増は沛公を殺せと命令した。」という意見が出るだろう。そこで終わってしまうグループもあるだろうが、具体的に、誰に、どういう風に沛公を殺させるのか、について話し合うグループも出てくるだろう。疑問が次々に出るようになったら、発表させて黒板に書いていくのである。付箋紙に書いて貼らせるというやり方もいいだろう。
 出てくる疑問の例としては次のようなものか。グループ討議が停滞するときに提示してもよいだろう。
 
  ・誰が殺すのか?
  ・暗殺者がいたはず。
  ・暗殺者は一人ではないだろう。
  ・暗殺部隊はどこにいたのか?
  ・項荘が外から入って来たから、暗殺者も外にいた。(項荘も暗殺部隊のひとり?)
  ・項羽が合図を無視しても、范増が命令を下せば、暗殺は行われたのではないか?
  ・范増は勝手に暗殺命令を出せたのではないか?
  ・項王が暗殺部隊を抑える部下を配置していたのかも。
  ・項伯は暗殺部隊を牽制する部下を置いていたかも。
  ・宴席の外でも膠着状態になっていたのか?
  ・范増の合図に応じた項王は、それから范増との力関係が変わったか?
  ・范増と項王の信頼関係は、殺さなかった場合と比べて変化したのか、しなかったのか?
  ・范増はどうやって沛公を殺すかまで指示したのだろうか?
  ・沛公が殺された後はどうなるのか?
  ・その後の中国の歴史そのものが変わったかも。
  ・項王は暗殺部隊とともに沛公を殺すのか?
  ・項王は自らの手を汚すのか?
  ・項伯はどうなるのか?
  ・項伯は項王を人質にとるのではないだろうか? 
  ・范増の暗殺計画は成功するのか?
  ・暗殺計画が失敗するとしたら、どんな要因があったのか?

 「鴻門之会」はセリフに力があって、それを読むだけで引き込まれるのだが、そのために、どのような状況でそのセリフが出てきたのかを疎かにしてしまう。そのことを意識すれば、具体的な状況を想像させるための発問が工夫できるだろう。

初出「漢文教育」 (第44号) 2019年12月(広島漢文教育研究会)

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