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【連続小説】ブルーアネモネ(11)


ブルーアネモネに帰ってきたのは、9時過ぎだった。
店の前にはまたもや「臨時休業」の札がかかっていたが、店の中は明るく、窓から覗くと河端先生が一人でコーヒーを飲みながら、壁掛けTVを見ていた。
ちょっと音が漏れており、いつも通り日本ハムの試合の中継だった。
河端先生は帯広の出身で、自分は熱狂的なファイターズファンだと公言していた。
僕がドアを開けて、まず俯いたままの有紀ちゃんが中に入り、マサさんが後に続いた。最後に僕が中に入った。
有紀ちゃんは、いつものレジ横に一番近いカウンターの席に座った。相変わらず俯いたままなので表情は読み取れない。
「おかえり、どうしたんだい?珍しい組み合わせじゃないか?」状況を察したのか、努めて明るい調子で河端先生が訊いた。
「いや、色々ありましてね。良平さんには後で説明しますから、ちょっとみんな休ませてもらえませんか?」とマサさんが言った。
「そう、色々ね。あるよな、みんな、色々。いいよ、どうせ僕は野球が大変だから。今さあ、ファイターズのチャンスなんだよ。負けててねえ。1点差、でも、ノーアウト1塁3塁で万中なんだよ。逆転のチャンス。」
「じゃあ良平さんはそっちに集中してください。有紀ちゃん、晩飯食ったかい?」
有紀ちゃんは俯いたまま首を小さく振った。
「じゃあ腹減ったろう。何か作ろうな。」
「私、お腹空いてません。」
「そんな事言うなよ。ああ、じゃあ食べれるものを作ろう。おい、オミ君、ちょっと手伝ってくれないか?」
「何しましょう?」
「昨日作った焼きイモの余りが冷蔵庫にホイルに包んだままあるんで、それをオーブントースターに入れてくれ。時間は10分。チンって言ったら、出して、へたを取って、皮剝いて、適当に輪切りにして、中くらいのボウルに入れてくれ。」
「分かりました。」
万波は、レフトに犠牲フライを打った。河端先生は、声を出さずに小さくガッツポーズをした。
スコアは2対2、同点だ。
「有紀ちゃん、今、美味いもの作るからな。ちょっと待ってて。」
有紀ちゃんが急に顔を上げた。「マサさん、マサさんはどうして私に優しくするんですか?どうしてほっとかないんですか?」
「優しくって?ただ、俺は有紀ちゃんを心配しただけさあ。オーディション落ちて落ち込んでたろう。でも、それでいきなりAVはいくら何でもちょっと自棄が過ぎると思っただけだよ。有紀ちゃんは金が要るのかい?」
有紀ちゃんはまた俯き、頷いた。
「いくら?」
「100万ぐらい」
「100万、大金だなあ。どうした、そんな金、どうして要るんだ?」
「引っ越さないといけないから…」
「引っ越す?有紀ちゃん実家じゃなかったのか?」
「実家だけど、引っ越さなくてはならなくて…」
「何だそれ?良かったら、詳しく話してみないか?」
「…私、婚外子ってヤツなんです。お母さんと二人暮らしだったんですけど…ウチのお母さん、兎に角男の人がいないとダメな人で…三年前にいきなり男について行って、そのまま帰ってこなくて…でもね、私のお父さん、もうおじいちゃんの人なんですけど、松田哲三って人で、私哲ちゃんって呼んでるんですけど…私の事、とても可愛がってくれてて。今住んでるマンションも哲ちゃんがママに買ってくれたヤツで…ママいなくなったら、哲ちゃんが私の面倒見てくれて、高校も卒業出来て…でも、哲ちゃんが一年前ぐらいに急に死んでしまって、そしたら、今の哲ちゃんの奥さん、三番目の奥さんで若い人なんですけど…ウチのマンションは松田哲三の名義の不動産なんで、立ち退いてくれって言ってきて…一年前から急に私、大変になっちゃって、学校にお金払えなくなっちゃったんで専門学校も辞めて、それだけならまだよかったんだけど、急に電気やガスや水が止まってりして…、そんで私、慌ててバイトを掛け持ちで始めたりして…」
有紀ちゃんは堰を切ったように一気に話した。話しているうちに感情がこみ上げたらしく、大粒の涙をこぼし、嗚咽し、咳き込みながら話した。
「そうか、そんなだったか…大変だったなあ、有紀ちゃん。で、いつまでに引っ越さなければならないんだい?」
「今月中…」
「そら大変だ、1週間しかない。良平さん、いいですか?」
「いいんじゃない。祥さんの好きにすればいいよ。」
「ありがとう。じゃあ有紀ちゃん、俺からの提案だが、うちに住まないか?うちはかみさん達の実家だったんで、大きくて広いんだよ。使ってない部屋がいくつもある。そこで暮らすのはどうだい?」
「えっ?何でですか?」

チンと言った。僕はイモをオーブントースターからトングで出した。
アルミホイルを剝がし、イモをまな板の上に載せると、へたを取り、皮を剥き輪切りにして、ボウルに放り込んだ。
マサさんは、そのボウルの中に蜂蜜をたっぷりとグラニュー糖を大匙4杯入れて、牛乳、ホイップクリーム、バター、そして塩を少々入れ、マッシャーを出してきて、「これでイモを潰してくれ」と僕に指示した。
僕は早速マッシャーでイモを潰し始めた。

「何でって、君から今の話を聞いた。俺は有紀ちゃんという人間が好きだ。だから、何とかしてやりたい。幸いウチには空いてる部屋がたくさんある。良平さんも了解した。だからだ。ダメか?」
「好きって…マサさん、私の事、何も知らない。」
「ああ、知らないさ。でもな、有紀ちゃんは店に来て、みんなに愛想良くしてくれて…兎に角なんでも笑うだろう。あの笑顔は本物だと思うんだ。だから…」
「でも、マサさんも河端先生も赤の他人でしょう?他人なのに、私なんて優しくしなくてもいいじゃないですか?私がAV女優になっても、二人とも関係ないでしょう?」
「ああ、確かにそれはそうだ。君がもし単純に職業としてAV女優の道を選ぶなら、俺に止める権利はないし、俺も止めはしない。でもな、有紀ちゃんは違うだろう?パフォーマーになりたいんだろう?」
有紀ちゃんはまた俯いた。涙がカウンターに落ちた。
「パフォーマーが夢なのは何故だい?」
「パフォーマーになって、TVとかに出たら、ひょっとしたらママに見てもらえるかも…」
「ママに会いたいんだね?」と河端先生が言った。
有紀ちゃんは俯いたまま頷いた。「ママは、私と二人でいる時は優しかったから…」
「じゃあパフォーマーになろう。君、ダンスの専門学校だったよね?それも復学したらいい。学費は僕と祥さんで出しとくよ。出世払いで返せばいい。なあ、祥さん?」
「そうですね。学校行けばいいよ。但し、毎日学校が終わったら、速攻で帰ってきて、うちのバイトだけをする事。後、うちの家事を手伝う事、それでいいか?」
有紀ちゃんは俯いたまま何度も何度も頷いた。で、「ありがとうございます。」と言った。

マサさんは潰したイモをアルミカップの上で成形し、幾つも作った。その手つきをまねて僕も手伝った。

サツマイモは7本もあったので、成形したカップは30個もあった。
マサさんは、一個一個に溶いた卵黄を刷毛で表面に塗っていった。
「出来上がりだ。」そう言って、マサさんは、30個がきれいに並んだトレイをオーブンに入れて火をつけた。

「ありがとうございますは、いらねえよ。有紀ちゃん、何も聞かずにいて、悪かったなあ。俺はな、昭和な人間だから、やれパワハラだ、何やらハラだっていうのに弱くってな。何か、プライベートの事を聞くのが怖くって。だから、俺も反省してるんだよ。つまり俺の償いの意味もあるんだ。だから、これからみんなで一緒に暮らそう。それでいいかい?」

10分経った。

マサさんがトレイを出すと、香ばしくも甘いイモの香りが広がった。
「有紀ちゃん、これなら食べれるよな?飲み物はジャスミン茶でいいかな?」
有紀ちゃんは頷いた。
有紀ちゃんの前にスィートポテトが載った皿とジャスミン茶のグラスが並んだ。
有紀ちゃんは、スィートポテトを一つ指で持ち、口に運んだ。小さく噛んで咀嚼し、飲み込んで「美味しい」と言った。
「そりゃそうだよ。マサさんスペシャルだからな。さあ、みんな食べよう。」
河端先生が「祥さん、こんなん作れたの?知らなかった。」と言った。
「これだけはね、珠美の店のメニューじゃないんです。あいつがね、愛のおやつに作ってたのを思い出して、有紀ちゃんのおやつにね、作ってみたら、有紀ちゃんに好評でね。」
「そうか、じゃあ、初なんで僕からいただいてみようかな。」と言いながら、河端先生が一口食べた。「あーんま!なんじゃこら、こんな甘いの?」
「元々はこんなに甘くはないんですけどね。有紀ちゃんのリクエストを聞いてるうちにどんどん甘くなって…」
「有紀ちゃん、何でこんな甘いのがいいの?有紀ちゃん、甘党じゃなかったよねえ?」
「味がおせちに入ってる栗のヤツに似てて…私が子供の頃、うちのお正月は、二日の日に哲ちゃんも来て、お年玉くれて、哲ちゃんとお母さんと三人でおせち食べて、私おせちの中で栗のヤツが一番好きだったの。」
「栗のヤツって、栗きんとんの事かい?そう言えばあれもサツマイモを使うよなあ。で、恐ろしく甘い。なるほど…」
「そう、甘いんです。でも、あの味は哲ちゃんとお母さんと仲良く食べた味で…私の幸せの味なんです。」
「そうかあ、甘い味は幸せの味ね。分かる気がするよ。秋葉君も食べてみたら?甘いよ。」
僕も食べた。本当に甘かった。でも、ブラックコーヒーを飲めば食べられない事もなかった。
マサさんが言った。「これ、全部は俺らは食えないから、有紀ちゃんが食べられるだけ食べてくれたらいいよ。」
有紀ちゃんは「ありがとう」と言って、スィートポテトを食べた。
僕も河端先生もマサさんも食べた。
有紀ちゃんは、今日のスィートポテトの味を一生忘れないだろう。僕は勝手にそう思った。



スィートポテトを食べながら、みんなで西武×日本ハム戦を見た。
なんと有紀ちゃんは、西武ファンだった。有紀ちゃんのお母さんは、川越の生まれで、熱狂的なライオンズファンだったらしく、その影響で有紀ちゃんも小学6年生までライオンズのジュニアファンクラブに入っていたそうだ。
あの後、日ハムが1点追加点を取り、9回まで3対2でリードしていたのだが、9回裏に西武がホームランで同点にした。そして、11回表。西武の中継ぎピッチャーが、なんとフォアボールを2つも出してしまい、2アウトながら一打逆転のピンチを迎えていた。河端先生は、目を瞑り、胸の前でガッチリと手を組み合わせ祈っている。
有紀ちゃんは、イケー!と雄叫びを上げている。
野球に興味がない僕と、楽天ファンのマサさんは、半ば呆れながら、二人を見ている。
西武のクローザーが何とか抑えた。
有紀ちゃんは「やったあ!」と声を上げた。
河端先生は「まだまだあ!」と怪気炎を上げた。
「先が思いやられるよ…こんなん毎晩続くのかと思うと…」と、マサさんが言うと、河端先生が「有紀ちゃん、気をつけろよ。楽天戦なんて、こんなもんじゃないからな。祥さんは、楽天が勝ってたらいいけど、負けたらなあ、えらい不機嫌に事になる。」
「ああ、それはバイト中に経験済みですから、大丈夫です。TVで楽天が負けると、マサさん、途端に料理もコーヒー淹れるのも全部雑になるから。後、ずっとモゴモゴと聞こえない声で文句ばっかり言って。」
野球は12回時間切れ引き分けになった。
有紀ちゃんは、マサさんが付き添って家に帰った。2、3日後には引っ越すようにするみたいだ。

店には僕と河端先生だけになった。

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