【連続小説】ブルーアネモネ 13
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しまった!寝過ごした。
たっぷり寝た。そりゃそうだ。その前の晩は殆ど寝ていない。それにしても寝過ぎだ。
うちのマンションの裏手にある小学校のチャイムの音で目覚めた。
恐る恐る時計を見ると、9時36分と表示されていた。
スマホを確かめると、アラームをセットしたつもりだったが、セットしてなかった。時間を合わせてから保存するのを忘れたのだろう。そんなミスをするぐらい、昨夜の僕は疲れていたのだと思うようにして、遅く起きてしまった事を諦める事にした。気持ちの切り替えが必要だ。
すぐに顔を洗い、歯を磨いて、着替えを済ませ、部屋を出た。河端先生への電話は後でしようと思った。
僕は趣味がないと言ってきたが、敢えて言うのであれば、車の運転が唯一の趣味かもしれない。
政治家一家に生まれて、割と不自由なく育てられた僕だが、大学進学とともに東京の実家であるおじいちゃんと一緒に住んでいた経堂の家を出て、今住んでいるマンションで一人暮らしを始めた。ここは、大学のある高見が原からは二駅も新宿寄りなのだが、各停と通勤時間の通勤準急しか停まらない駅で不便だ。だけどもあえてこのマンションに住んだのは、駐車場が安いからで、それほど僕は自分の車を持つ事にこだわりがあった。
別に暴走したい訳ではないが、運転するからには、ドライビングを楽しめる車が良い。だから僕は今軽のスポーツタイプの中古車に乗っていた。黄色くて小さいコンパーチブルだ。
マンションの駐車場へ向かい、そのコンパーチブルに乗り込み、僕は伊豆・修善寺へ向けて走り出した。
途中で何度か小さな渋滞に巻き込まれたため、修善寺の美月ちゃんの家が経営するホテルの前に着いたのは、昼過ぎだった。
ホテルは大きな前庭とスロープがある立派な9階建ての建物だった。
前庭には宿泊者用の駐車スペースが広くとられているが、チェックアウトタイムでもチェックインタイムではない今の時間は、送迎用のマイクロバスだけが止まっていた。
僕は宿泊者ではないので、エントランスから一番遠いところに車を止めて、エントランスへ歩いて向かった。
エントランスへと続くスロープを登り切った後、僕は駐車場の方へ振り返り、僕の黄色い車を見た。あの車の助手席に美月ちゃんは乗ってくれるのだろうか?そんな事を考えた。
ロビーに入ると、意外にこじんまりとしたフロントがあった。
室内は多少冷えすぎかなと思えるほどよく冷房が効いていた。
ここまでフルオープンで走ってきた僕には、この涼しさはありがたかった。僕は首筋を流れる汗をタオルハンカチで拭いながら、フロントのカウンターへ向かおうとした。すると、横から暑いのにキチっと和服を着こなした女将が僕の側に寄ってきて、「ご来館、ありがとうございます。秋葉さんでしょう。どうぞこちらへ」と言った。
河端先生から連絡が来ていたのは間違いないので、分かって当然なのだが、それでも僕はちょっとビックリした。僕は女将さんに促されるままにロビーの応接セットのソファーに腰掛けた。女将さんは僕の正面に腰掛けると、「暑かったでしょう?どうぞこれをお使いください。」と言って、手に持っていたビニール袋に入ったおしぼりを渡した。受け取ると、キンキンに冷えているのが分かり、思わず僕は袋からおしぼりを出し、顔を拭い、頭に載せ、最後には首の後ろに載せて冷やした。すごく気持ちがよく、さっぱりした。
「もう一つ、おしぼりをお持ちしましょうか?」と女将さんが訊いてきた。
いかん、いかん、ふっと僕は我に返った。「結構です。すいません、あまり気持ちが良かったもので、つい…あの僕、美月さんと大学の同級生だった秋葉です。河端先生から連絡があったと思いますが…」
「ええ、いただいております。でもね、折角こちらまでお出でいただいたんですけど、今は美月はこちらにはいないんですのよ。」
「えっ?どこにいるんですか?」
「私の実家である小田原の家に一人でおりますの。」
「小田原?」
「そう、小田原。住所を教えてますわ。今からそっちに行っても夕方までには着けるはずだから。」そう言って、女将さんは持っていたメモを渡した。住所と携帯番号が書いてあった。
「ありがとうございます。女将さん、僕の来訪も目的はご存じですか?」
「ええ、分かりますわ。」
「で、行ってもいいと?」
「ぜひ、お願いします。どうか、あの子を救ってやってください。」
「救う?」
「そう、悲しみの中からあの子を救ってあげて。」
「分かりました。じゃあ行きます。」
「お願いします。」
僕はホテルを出て、車を出した。
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