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【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】ブルーアネモネ(7)


9月もあと数日で終わりという日なのに、今日はずっと真夏みたいだった。でも、夕方5時に迫ると、流石に辺りの空気は夕方のそれとなり、少しだけ温度も湿度も下がったような気がした。僕はTシャツ一枚だけだ。何か羽織るものを持ってくればよかったなと思いながら歩き、ブルーアネモネに着いた。
ドアを開けると、カウンターの中にマサさんがおり、有紀ちゃんはいなかった。
「お邪魔します。」
「いらっしゃい。流石いつも通り、時間通りだな。」とマサさんが言った。
「いや、そんな…約束を破るのが怖いだけですよ。」何だか、いつも時間を守っている事を指摘されて、何だか気恥ずかしい気分になった。
「何だい、拗ねたか?約束を守るのは大事な事だぞ。」
「拗ねるなんて、そんな…今日は有紀ちゃんは休みですか?」
「ああ、明日大きなオーディションがあるらしくってな。今日はその最後の調整で一日中練習するんだとさ。受かると良いんだけどなあ」
「オーディションって、パフォーマーですか?」
「そう、今サブスクの番組とかでよくあるヤツみたいだ。」
「そうですか。ホント、受かると良いですね。」
「そうだね。コーヒーでいいか?」
「マサさん、今仕込み中ですよね。」
「ああ、もうちょっとでポテサラができるとこ。」
「じゃあ、それやってていいですよ。僕、勝手に冷蔵庫から麦茶出しますから。」
「そうかい?悪いな。じゃあ、そうしてくれ。あともう少しでポテサラ仕上げっちまうから」
僕は、カウンターの右側にあるレジの横の冷蔵庫から麦茶のやかんを出し、グラスに注いで、席に戻った。
マサさんはポテトサラダの全部の具材を大きなボウルの中で混ざ合わせていた。
僕は麦茶を一口飲み、スマホを取り出してメールをチェックした。勿論、美月からの返信はなかった。僕はまったく気にしてないフリをして、他のSNSを見始めた。
店内には、マサさんがポテトサラダを混ぜる音だけが響いていた。
 
「オミ君、大丈夫か?」と僕の横でマサさんが言った。
その声で、僕は起きた。どうも寝落ちしたようだ。
昼メシの後、昨日病院でもらった薬を飲んだせいかもしれない。
「あっ、大丈夫です。最近、睡眠が足りてないみたいで…すいません…」
「そうか、激務なんだなあ。身体、大事にしろよ。」
「ありがとうございます。」
「仕込みは全部終わった。有紀ちゃんが急きょ休む事になったんで、ちょっと時間がかかってしまった。待たせてごめんな。」
「ごめんだなんて、そんな…大丈夫です。で、お話って、何ですか?」
「ああ、オミ君はさあ、美月ちゃんの事が好きなのか?」
「えっ?」
「いいよお、俺にだけは隠すなよ。誰にもしゃべらないから」
「マサさんがしゃべるなんて1㎜も思ってないですよ。」
「だったら、言ってみろよ。好きなんだろう?」
声を出すのが怖くて、僕は下を向いて頷いた。
顔は上げられなかった。今まで堪えていた思いが溢れそうになった。
何故か涙が出てきた。
「昨日、アカネちゃんにさあ、メールを送ってもらうように頼んでたろう?返信はあったのか?」
僕は下を向いたまま、首を振った。
「そうか…そうだろうなあ。オミ君は美月ちゃんが何で急に大学を辞めたか、知ってるか?」
「し…知りません…知って…るんですか?」
「ああ、知ってる。あの子がな、学校辞める前の日にここへ来てな。河端先生と話したいって言って…でも、良平さんがあの日、大学の教授会で帰ってくるのが遅れてな。で、俺と話したんだ。あの子な、2つ上のお姉さんがいたんだ。美晴さんっていうな。そのお姉さんは生まれながらに身体が弱くって、学校にも満足に通えなかったらしい。その美晴さんが身体が健康なら、やりたかったのがな、実家のホテルを拡大して、ゆくゆくは海外に展開できるようにする事だったらしいんだ。」
「美月ちゃんの実家って、ホテルだったんですか…どこですか?」
「伊豆だよ。美月ちゃんは、美晴さんのその思いを受けて、清廉に入ったんだ。良平さんの生徒になるためにね。知っての通り、河端良平という人は、国際経営学のエキスパートだからな。」
下を向いてる僕の顔は赤くなっているのが自分で分かった。胸の中は恥ずかしさで一杯になった。彼女はそんな事を考えて河端先生の生徒になった。なのに僕は…ただ、彼女と一緒にいたいだけで、河端ゼミに入った…
「大丈夫だ、オミ君。君は何も知らなかっただけだ。」マサさんは慰めるように僕に言った。
その言葉に僕は堪らず嗚咽し始めた。
「でも、彼女は急に大学を辞める事になった。それはな、お姉さんの美晴さんが急に亡くなったからなんだ。お姉さんはコロナにかかってな。どうしようもなかったらしい。」
「そうなんですか…」
「彼女にとって美晴さんはかけがえのない存在だったようで、彼女が死んで、美月ちゃんの心は空洞になってしまったと言ってた。」
「それほどだったんですか…」
「そう、それでな、もう何もかもが嫌になっちゃって、学校辞めて、伊豆に戻ってしまったんだ。」
「じゃあ美月ちゃんは伊豆の実家にいるんですか?」
「そう、もう2年以上引きこもってるみたいだ。俺は時々、メールでやり取りするんだが、聞いてるとまだ全然、外には出られないみたいだ。」
「マサさんは、マサさんには、何で彼女はそんなに詳しく話をするんですか?」
「それはな、俺も大事な人を失くしてるからだよ。」
「大事な人を失くしてる?」
「ああ、俺はな、女房と娘をいっぺんに亡くしてしまったんだ。」
「いっぺんに?事故ですか?」
「東日本だ。」
「あの大震災ですか?」
「そう」
「津波?」
「いや、ウチは家屋の倒壊だな。俺はな、元は気仙沼で牡蠣の養殖をする漁師だったんだ。あの日、俺はウチの牡蠣で回転寿司チェーンがフェアをやってくれる事になったんで、その打ち合わせのために大阪に行っててな。俺ん家は、俺の獲った牡蠣を中心にしたレストランをやろうと、自宅を改装中で…俺の嫁の珠美と娘の愛がそこにいて、改装中のレストランが完全に潰れて…下敷きになって死んだ。」
「そうだったんですか…お気の毒というか…言葉になりません…」
「俺はな、良平さんの義理の弟だが、それはな、良平さんの奥さんだった昌代さんと、うちの珠美が姉妹だったからなんだよ。話を聞いてるとな、二人とも流石コーヒールームパンジーの創業者の娘でな。料理が上手くって…美味いコーヒーを淹れてくれて…この店の俺が今使ってるサイフォンは全部、元のパンジーの本店で使ってたヤツなんだ。俺は飲んだ事ないけど、珠美はこのサイフォンでコーヒーを淹れるのが上手かったらしい。でも、二人とも死んでしまった。それに俺は娘の愛まで失くしてしまった。」
「ええ…ええ…」
「俺は何もやる気が出なくなってしまって、引きこもりだよ。昔から酒が好きだったからな。朝からずっと酒呑んで酔っ払って、意識がなくなるまで呑んで…そしたら、俺は救急搬送されて、その病院に良平さんが来てくれて…俺はそれまで、良平さんとは殆ど話した事なくて、でも、その日初めて良平さんと腹割って話して…良平さんが昌代さんを失くして、どんなに悲しかったか、どんなに悔しかったか、全部聞いて。俺も珠美と愛への思いを全部話して…で、今に至る訳だ。」
「分かりましたって、言うか…実は全く分かってないかもしれません。すいません。」
そう、あっさり分かりましたと、僕ごときが言えるような話ではなかった。でも、心の傷はちょっとは共有できてる気がした。
「オミ君は、正直だなあ。君のそういうところ、俺は好きだよ。」
「正直だなんてそんな…じゃあ、この店のメンチカツとポテトサラダと牡蠣のグラタンは、ひょっとしてマサさんの奥さんのレシピですか?」
「鋭いねえ。そう、珠美のレシピだ。焼け残ったウチの中から唯一取り出せたのがそれだけ。」
「それで、この店ではそれだけを作っている?」
「そう、俺は元は漁師だぜ。そんなになんでも作れねえ。ただ、珠美の残したメンチカツやポテサラ、牡蠣のグラタン、昌代さんが残したシフォンケーキとプリンだけは何とか作れるようになった。それで、ここで店を始める事にしたのさ。」
「そんな話を全部、美月ちゃんにはしたんですね。」
「まあな。彼女にとって慰めになるかは分からんが、少なくとも大切な人を失くしたのは美月ちゃんだけではないよ。俺らも同じだよって気持ちは伝わったと思う。だから、俺は今でもちょくちょく美月ちゃんとメールでやり取りしてるんだ。」
「マサさんには返事が返ってくる?」
「ああ、返って来るまでにちょっと時間はかかるがな。それでな、オミ君、君に訊きたいんだ。」
「何ですか?」
「君は何で美月ちゃんが好きなんだ?」
何で…
「そ、それは、彼女が笑ってくれたからですよ。」
「笑ってくれた?」
「ええ」
「どういう事だい?」
「…今まで誰にも言ってなかったんすけど…僕、何て言うか…所謂コミュ障っていうか、対人恐怖症で…人と目を合わせて話せなくて…初めて話す人なんかもうダメで、何でか知らないんすけど、顔が赤くなっちゃって、言いたい事、何も話せなくて…で、美月ちゃんと最初に会った時なんすけどね、2年の時に学生課の掲示板のとこで会ったんですけど…あの時はまだ、コロナで行動規制がかかってたんですけどね。僕、何だったかは覚えてないんですけど、学校に来る用があったので、ついでに掲示板に来たんすよ。ゼミのお知らせを見に。僕はそもそもエスカレーターで大学まで上がっちゃったんで、それまでゼミとか全く気にしてなくて…就職もそうです。うち、政治家一家だといつか話した事あったと思うんですけど、おじいちゃんもまだ現役で、おじいちゃんが引退したら、地盤はそのままお父さんが継いで、僕はお父さんの後を継ぐとか、人生が見えてるところがあって…だから、就職も全く興味がなくて…だから、ゼミの事なんか何も知らなくて…で、誰もいない掲示板で、一人で色んなゼミの案内を見てたんです。そしたらね、後ろから僕の肩をポンポンって叩くヤツがいて、振り向いたらそれが美月ちゃんで…美月ちゃんがね、言うんすよ。「君、私と同じ経営学部の秋葉君じゃない?」って。こっちにしたら、驚きですよ。僕は実は1年生の時から知っていて、何となく可愛い子だなあって思ってたんですけど…いや、また、軽く嘘をつきました。入学して間もない頃に、学内で彼女と偶然出会い、その時、僕は心臓を撃たれたような衝撃で…一目惚れですね…でも、僕、上手くコミュニケーション取れないし、そもそも自分に全く自信がないし、だから、彼女には何も伝えられずで…時々学内で、彼女を見かけて、それだけで嬉しい気分になって…そんな感じだったんですよね。それが今日は美月ちゃんが目の前にいて、あっちから声かけてくれて、僕の名前を知ってて …美月ちゃんが僕の名前を知ってるなんて… 青天の霹靂?まさに、そんな感じで… それで…僕は真っ赤になるかなって思ったんですけど、不思議とならなかったんですよ。それどころか、「そう、俺、秋葉和臣、君は藤谷さんだろう?」って、切り返したりして…こんなの僕の人生で初の出来事だったんです。で、彼女が「そう、私藤谷美月だよ。」って言って、パって、していたマスクを取って、僕の目を見て、笑ったんです。大きな笑顔で…その笑顔が僕の頭の中にこびりついて…不思議なんですけどね、ずっと離れないんです。あの時らへんは、誰もマスクとる人なんていなかったでしょう。だから、余計に頭に残っちゃって。何だか僕のために笑顔を見せてくれた事が嬉しくて…」
「で、会いたい訳か?」
「そうです。」
「でも、オミ君はウチの店に来てる時は、とてもコミュ障には見えなかったけどなあ…」
「それがおかしいんですよ。彼女がいるから河端ゼミに入ったでしょう。で、最初にこの店に来た時も彼女がいた。そうするとね、マサさんを含めて、彼女と一緒にいる全員が、怖くなかったんですよ。不思議な事に…」
「そうか、それじゃあ、君にとって彼女の力は偉大だなあ。」
「そうなんです。」

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