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【小説】ひとつではない世界で(前)


夜明けの新宿副都心辺り。
どこからか、バカみたいに早くからやっている朝の情報番組のお天気コーナーで、今日何度目かの「この秋初めての本格的な冷え込み」という説明をしている声が聞こえる。
 
夜が明けた。
 
新宿のビルをオレンジ色に輝かせる。
道路では、カラスがアスファルトに降り立ち、ゴミを漁っている。
自転車で走る人、散歩をする人、走る人。朝が来たばかりなのに、もう通りには人が行き交う。
 
バスが走る。トラックも、タクシーも。
さっきまで酔っ払っていた人が、タクシーを拾おうとするが、中々捕まらない。
 
それにしても寒い。
 
息も、車の排気ガスも白く光る。
 
私は、ユウタの部屋のドアのスリットに手紙を入れて、マンションの玄関を飛び出た。
 
昨日のままの格好。
ゾクッと寒さを感じた。
 
ジャケットは、ユウタの店に置き忘れてきた。
 
寒い…
 
寒さが癪に障った。
舗道の足元に転がっていた缶を蹴った。
 
「イテえ!」
 
缶は、ゴミの横の灰色の大きな布袋に当たったはずだった。
しかし、その布袋は大声を出した。
 
「誰だ!」
 
私は、あまりに意外過ぎて、足が竦んで、その場から動けなくなった。
 

布袋が立ち上がると、それは大きくて、太った人だった。
 
「缶を蹴るんじゃないよ。痛いだろう。」
と、大きな人が間延びした声で言った。
 
私の前に立ちふさがるその人が、あんまりにも大きすぎるため、私は怖かった。
だから、顔をあげる事もできずに、その場に立ち竦み、「ごめんなさい。」と、つぶやくように言った。
 
「人に謝る時は、目を見て、謝るんだよ。顔を上げな。」
そう言われて、私は恐々、顔を上げた。
 
大きな太った人は、チリチリの髪が長く肩まで伸びた黒人の女の人だった。
大きな黒い瞳には、優しい光が宿っていた。
 
「ごめんなさい。」
「アンタ、泣いてるの?」
「…」泣いているのかと訊かれて、言葉が出ない。
「アンタ、お金、持ってる?」
「…少しなら…」
「じゃあ、私に朝食を奢ってくれない?そしたら、アタシがお返しをするよ。」
「お返し?」
「アタシがアンタを癒してあげよう。」
私は頷いた。そして、私たちはそばのコンビニに入っていった。
 

コンビニで、大きな黒人の女の人は、高菜のおにぎりを8個と、カレーパンを4個、そして、クリームパンをやっぱり4個、それにほうじ茶のペットボトルを買った。私も喉が渇いたので、お茶のペットボトルを買った。
 
買ったものを持ち、私たちは新宿中央公園に入っていった。
もう太陽はだいぶ高くなり、公園の中には走ったりする人の姿が多く見えた。
 
ベンチに座ると、女の人は、買ったものを全部出し、自分の大きなトートバッグから鍋とスプーンを出した。
そして、おにぎりの包装しているビニールを取り除いていった。
おにぎりが全部終わると、今度はカレーパンを全部袋から出した。
そして、おにぎり8個を鍋の中にちぎって入れていく。見てると、高菜も指で小さくちぎっている。
おにぎりが終わると、カレーパンもちぎって鍋に入れる。
全部入れたら、今後は大きなスプーンで、中の物を細かく砕くように叩き、よくかき混ぜた。
何度もかき混ぜると、やがて、彼女は満足そうに頷き、混ざったものをスプーンで掬い、口に入れた。
そして、彼女は笑った。
「美味い!」
何とも奇妙な食べ物だが、何となく美味そうだなと、私も思った。
しかし、そうなるとクリームパンの行方が気になる。
傍らに置いてある4個のクリームパンを私は、思わず凝視していた。
「これかい?これは、デザートだよ。で、1個はアンタの。」
「えっ?」
「いっぱい泣いたんだろう?なら、お腹が空くからね。甘いものを食べた方がいい。」
「ありがとう。そう、お腹が空いた。お願いがあるんだけど。」
「何だい?」
「それ、食べてみたいんだけど。」
「ああ、食べてみるといい。スプーンを出してあげるよ。」
彼女は、バッグから別のスプーンを出して、渡してくれた。そして、私の前に鍋を差し出した。
私はスプーンで掬い取り、一口、食べた。
「美味しい…」
「だろう。ちょっと、分けてあげるよ。」
彼女はそう言い、トートバッグからプラスティックのボウルを出して、私のスプーンで取り分けた。
「本当に少しでいい。」と、私が言うと、全体の1/5ぐらいを取り分けて、ボウルにスプーンを入れて、私によこした。私は、ボウルを受け取り、スプーンを握った。
 
霜が降りる芝生の上のベンチで、私たちはそれぞれの朝食を食べた。
霜が朝日を受けて輝き、キラキラとした風景を見ながら。
 

私たちは食べ終わった。
 
「さて、話をしようか。アタシはノラ。アンタの名前は?」
「サリュー。」
「OK、サリュー。おはようございます。気分は如何?」
「さっきまで、最悪だったけど、今は、ちょっと、落ち着いてきてる。」
「そう。それは、良かったわね。じゃあ、話してくれる?何がツライ?何がクルシイ?」
 
私は黙ってしまった。
何がツライ?何がクルシイ?
整理ができていない。
時系列で整理するか?
そもそも整理整頓ができる話なのか?
 
「OK、分かったわ。じゃあ、昨夜からのお話を聞かせてよ。」
 
それなら話せる。
 
「昨日は、夜、仕事を終わって、いつものようにユウタの店に行ったの。」
「ユウタって、誰?彼氏?」
「彼氏みたいな、そうじゃないみたいな…」
「お店は、どこにあるの?」
「新宿。東口の方だけどね。」
「そう。ユウタ君の店は、どんな店?」
「ユウタ君と、ユラ君って、友達と二人でやってる小さなバー。」
「そこへ行ったの?何時?」
「仕事を終えてからだから、9時ぐらいかな。」
「そう。ところで、アンタ、仕事は何をやってるの?」
「美容室でアシスタント。」
「その仕事がやりたかったの?」
「そう。私、地方の出身なんだけどね。どうしても表参道辺りの美容室で働きたくって。で、東京の専門学校に通って。それで、今は原宿の美容室で働いているの。」
「そう。その仕事は楽しい?」
 
仕事は楽しい?
 
仕事はツライ…
 
そうか、これがツライ事のひとつ目か…
 
「どうやら、楽しくはなさそうね。」
 
そう言われて、目から大粒の涙が零れた。

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