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【連続小説】 ブルーアネモネ(10)


夜は眠れなかった。
帰ってすぐに、マサさんからもらった紙を全部スマホにメモし、紙はデスクの引き出しにしまった。
そのメモを何度も開けて閉じを繰り返してるうちに夜が明けた。
朝早いのだが、僕は大友さんに電話した。大友さんはすぐに出た。
「大友さん、お願いがあります。」
「会社の事ですか?」大友さんは何でもお見通しだ。彼に分からない事はないようだ。
「そう、辞めたいんです。今日、会社に退職願いを出しに行きます。」
「分かりました。秋葉先生には私からお伝えしておきます。会社へはこちらから手を打たなくてもいいですか?と言っても、先生が新聞社の社長には電話されると思いますが…」
「そうでしょうね。大友さんからも太陽新聞広告社へ連絡していただけますか?」
「分かりました。そのようにさせていただきます。和臣さんは退社後、どうなさるおつもりですか?ウチの事務所ですぐに働きますか?」
「いえ、ちょっと療養したいなと思ってます。」
「それはこないだの倒れた時の?」
「いや、そうではなくて…僕、大友さんには初めて言いますが、コミュニケーション障害だと思うんです。そういう医者にはかかった事ないけど…対人恐怖症とかね、兎に角人とコミュニケーションを取るのが難しくて…それをこの機会に少しでも直そうかなって思ってるんです。」
「では、それ専用の病院で治療を受けると?」
「それはまだ分かりません。まずは何もしない時間を作って、自分で自分に向き合ってみたいんです。」
「なるほど、かしこまりました。」
「それで、この事はおじいちゃんには内緒にしておいていただけませんか?」
「承知致しました。」
「助かります。大友さん、今まで黙っててごめんなさい。」
「大丈夫ですよ。私は分かっておりましたから」
電話を切った。本当に大友さんに分からない事はない。


腹が決まった。
僕は退職願を書いた。



会社へ行くと、淡々と退職に関する手続きが行われた。全ては人事部の会議室で行われ、担当者が出してくるいくつかの書類にサインして判子をつけば完了となった。
あまりにあっさりとしていて、ちょっと拍子抜けした。
多分、大友さんからの電話が効いているのだろう。僕の局の局長も部長もそして斎藤さんも引き留めには来なかった。
全部の手続きが終わったので6階へ行き、自分のデスクへ行った。
お昼前の中途半端な時間で、デスクにいるのは数名だけだった。局長も部長も外出しているようだった。机を片づけるのは後日になるようなので、そのままオフィスを出た。

会社のビルを出ると、丁度昼時で、周りのビルからたくさん人が出てきていて、地下道はごった返していた。この地下道にはサラリーマンのための飲食店が両サイドにあり、どの店も行列ができていた。
僕はもうどの店にも行かなくていい。そう思うと、スッキリした。
そんないい気分のままに、僕は地下鉄駅を目指した。

僕は駅の近くの町中華で、オムライス界で一番美味いと思っているオムライスを食べた。その後、自分の部屋に戻り昼寝をした。
退職の手続きが済むと安心したせいか、眠気が襲ってきたからだ。
今晩はまたブルーアネモネへ行かなくてはならない。そのためには今は睡眠が必要だ。
だから、着替えて寝た。



起きると夜が始まっていた。9月も終わりとなると6時を過ぎると夜の様相だ。
僕は顔を洗い、髪を軽く直してから、部屋を出た。夕食はまたブルーアネモネで食べるつもりだ。三日同じメニューになるが、僕は気にしなかった。学生の頃はいつもそうだったからだ。

ブルーアネモネには7時半に着いた。
大窓から覗くと、店にはマサさんしかいなかった。しかも、慌てた様子だ。
「今晩は」そう言いながら、僕はドアを開けた。
「ああ、オミ君か。助かる。ちょっと、一緒に来てくれないか?オミ君、運転免許持ってるよな?」
「ええ、持ってますけど、どうしました?」
「詳しくは車で話す。俺は都内が苦手なんで、オミ君、運転してくれないか?」
「都内のどこです?」
「新宿」
「分かりました。で、何があったんですか?」
「有紀ちゃんがな、大変なんだ。」
「有紀ちゃんが?」
「ああ、車に乗ろう。」
ブルーアネモネの店の裏手に、マサさんと河端先生の車が置いてあった。マサさんのは仕入れにも使うワンボックスだった。
僕は運転席に乗り込んだ。マサさんは助手席でナビを入れた。
僕は車を出した。



高見が原からは東名高速、首都高渋谷線を乗り継ぎ、都心へと向かう。新宿までは大体20㎞ぐらいだ。高速に乗ると、マサさんが話し出した。
「昨日、有紀ちゃんが大事なオーディションだったってのは話したよな。」
「聞きました。」
「あれ、一次審査で落ちたらしいんだよな。でな、有紀ちゃんよっぽど悔しかったんだろうなあ、自棄になったみたいで、前に新宿でスカウトされそうになったAVの事務所に向かったみたいなんだ。フローレンスって事務所なんだけど。」
「ええ?AVですか?」
「そうなんだよ。これって自棄だろう。彼女が冷静な判断をしたとは到底思えないんだ。一つオーディションに落ちたからって、そんな無茶をしなくてもいいと俺は思うんだ。だから、一旦、彼女を助けに行く。」
「じゃあ今、そのフローレンスに向かってるって訳ですか?」
「ああ、1か月ほど前にな、フローレンスって名前を有紀ちゃんから聞いたんだ。「スカウトされちゃいました」って、笑いながら言ってな。それを思い出して、フローレンスって会社をネットで検索して、この新宿の住所を見つけたんだ。だからそこへ行く。事務所じゃなくて、いきなりどっかのホテルなんかに行ったんじゃ、無駄足になるけどな。」
「何でフローレンスに行ったと分かるんですか?」
「あの子がさっき「今日もバイト休みたい」って電話をかけてきた時に、言ったんだよ。「オーディション、落ちました。このままじゃ終われないので、AVに人生賭けたいんです」って。それ言って、いきなり切って、こっちからかけ直してもつながらなくって…」
「人生賭けたいですか…よっぽどですね。」
「だろう。だからな、ちょっと頭冷やして考え直してもらいたくってな。」
「間に合うと良いですね。」
「そうだなあ…」
僕は車を追い越し車線に出して、スピードを上げた。

新宿と言ったが、ナビが指してる場所は新宿御苑の近くで、中層のビルが立ち並ぶ静かな通り沿いだった。ナビにあった住所の場所は、ビルというよりマンションだったが、ただありがたい事にエントランスに自由に入れた。
マサさんはエレベーターに乗った。僕は車で待機する事になった。




車の中は静かだった。通りは街灯があり、明るいのだが、人通りが少ないし、車もあまり通らない。今の僕にこの静けさは少々不気味で、心臓が大きく膨らんでしまったかのように、自分の鼓動だけが車内に響いている。
何もする事がない僕はダッシュボードのデジタル時計だけを見つめていた。
マサさんがエレベーターに乗ってから8分が経過していた。
たった8分?
時計の数字を二度見した。やっぱり8分、今9分になった。
自分の感覚では、もう30分は立っている気分だ。
僕のこれまでの人生で、こんなハードボイルドな時間は経験がなかった。
だから、正直焦っているし、全身でヒリついてる。心臓の横に冷たい鉄板がくっついてる感じがするし、顔の皮膚に冷えたナイフを当てられてる感覚がある。そして口の中が鉄臭い。
血を舐めた時に感じる鉄の味だ。但し、今の僕はどこも怪我してないから、どこからも血は出ていない。
吐き気がしてきた。何とか抑え込もうと、運転席で蹲る。窓の外を見ると吐きそうだからだ。
眩暈がする。自分の中の緊張感が極限に達しようとしているのを感じてる。

サイドウィンドウにノックされた。
顔を上げて、外を見る。マサさんがいた。後ろに俯いた有紀ちゃんもいた。
僕はロックを解除した。
二人が後部に乗り込んできた。
マサさんの顔を見たら、急に吐き気が引っ込んだ。
僕は車を出した。

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