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普通の人びとの普通の生 『かもめ・ワーニャ伯父さん』

新潮文庫『かもめ・ワーニャ伯父さん』には、チェーホフの2つの戯曲が収録されている。

どちらの作品でも、さまざまな立場の人々が、お互いに恋をしたり、憎んだり、蔑んだりする。
いずれもすれ違いで、片思いである。双方に思いを分かち合う、というシーンはほとんどない。共有したように見えても、その後に破綻する。
「かもめ」も「ワーニャ伯父さん」も、主人公が「僕のこの気持ちを、きみがわかってくれたらなあ!」というセリフを連発するが、この雨でイベントが台無しになってしまったような「伝わらなさ」が作品全体のカラーになっている。

では、根源的な伝わらなさにチェーホフはどうケリをつけるのか。
「かもめ」の終幕では、生きている意味を見つけられないという主人公の青年に対して、苦難を経たヒロインが「自分の使命を思うと、人生もこわくないわ」と答える。しかし青年はその言葉を受け止められず、自殺してしまう。
一方「ワーニャ伯父さん」の最後の場面では、「はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね」という姪の言葉を、主人公の中年男性がじっと聴く。2作のエンディングはよく似ていながら、対照的でもある。

「ワーニャ伯父さん」のラストは、映画『ドライブ・マイ・カー』でも映画内劇として上演されていた。
映画の主人公である男性が演じるワーニャに、手話話者の女性が演じる姪がくだんのセリフを語りかける。姪は座っているワーニャの後ろに寄り添い、顔の前で手話を話す。ワーニャはその静かで雄弁な両手をじっと見つめている。
2人がひとりになったかのようなこの場面で、両者は伝わらないものをついに分かち合ったのだろうか?
そうかもしれない。そうだとすれば、一人ひとりが背負うほかない伝わらなさをこそ伝えあったのだろう。

私はこの本を、入院した祖母と、近くの老人ホームで暮らす大叔母を訪れるための新幹線で読んだ。祖母から言葉を聞くことはできなかった。大叔母からは「人それぞれが道を選んで、相応のものを背負っている」という話を聞いた。
普通の人たちが、すれ違い、人生を耐え忍ぶ。そうした作品の普通でなさは、どこかにつながっているように思われる。

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