見出し画像

資本主義的な生―—ウェーバー『プロ倫』2章後半

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んできた読書会、今回は最終部である2章の後半が対象範囲でした。


ルター派以降の「禁欲的プロテスタンティズムの担い手」としてウェーバーが挙げた4つのグループのうち、カルヴィニズムを解説したのが前回。今回は残りの3つ(敬虔派、メソジスト派、洗礼派運動から発生した諸信団)の特徴を説明したのち、4つのグループの特徴が合わさって、現代資本主義を形づくっていく過程が描かれています。

改めてざっくりした流れ

まず、本の前半も踏まえて、プロテスタンティズム→資本主義の流れを書いてみます。大ざっぱにいうと、プロテスタンティズムの分派で発明されたいくつかの「倫理」が、その後の資本主義社会の「精神」を準備した、という流れです。

0) カトリックの時代…宗教社会と世俗社会は別のもの
1) ルターによる宗教改革…プロテスタンティズムの誕生。信仰を宗教の独占から解放するため、一般的な労働に宗教的意義を見出す【=天職観念の成立】
2) カルヴァン派…救済を確信するための自己統御【=禁欲志向】
3) 敬虔派…来世での救済ではなく、現世での労働の対価に意義をおく【=営利の追求】
4) メソジスト派…禁欲的に生きるための方法の重視【=合理化志向】
5) 洗礼派その他…儀礼や祭祀から離れ、個人の信仰を重視【=信仰の個人化】
6) 1~5の特徴が合わさったプロテスタント国家(イギリスやアメリカ)で資本主義が発展。やがて天職観念から宗教的な意義が薄まり、禁欲的・合理的に労働にまい進する精神(「時は金なり」)が一般的となる。

感想

さて、今年の春からウェーバーに関する新書と『プロ倫』を読んできましたが、読み終えたいま、改めてどのようなことが考えられるでしょうか。
まず率直な感想として、『プロ倫』で描かれている「プロテスタンティズムの倫理」は、現代に生きる私たちにとって身に覚えがあるものばかりでした。
たとえば「天職観念」は、作物を育てたり服を仕立てるといった労働に宗教的意義を見出したものですが、キリスト教徒やプロテスタントでない私たちにとっても、職業を人生そのものであるかのように考えることはきわめて一般的です。別に個人が仕事を生きがいと思っていなくても、世の中は「何かの仕事をしている人」で構成されていることになっています(私はいま無職なので、特にそう感じます)。
象徴的なのが、学校を卒業した後の立場を指す「社会人」という言葉が、実質的に「会社人」や「労働者」を指すことです。社会は、決して「何かの趣味をもっている人」や「何かの食べ物が好きな人」の集まりではありません。
他にも、禁欲を「遊びも浮気もしない」、合理的を「コスパよく生きる」、などと言い換えれば、そのまま現代の倫理として通用するものばかりです。
ウェーバーはこれらの倫理を「資本主義の精神」を形づくったものとして位置づけました。資本主義とは本来「労働と資本家の峻別」と「財産の蓄積」を是とする仕組みを指します。単純に読めば、『プロ倫』は「こうあるべき」という倫理=精神が宗教的な領域から経済的な領域に移った、という筋です。
しかし、ウェーバーのいう「資本主義の精神」が、そのような経済に限らず、人々の生き方そのものを覆うものであったとしたらどうでしょうか。プロテスタントの人々が導き出した(後世から見れば資本主義的な)倫理が、現代の私たちにここまでヒットするのです。現代の私たちは、資本主義にもとづいて経済を回しているだけでなく、そもそも禁欲的で合理的な「資本主義的な生」を送っているのではないでしょうか。
『プロ倫』は、そうした生が、ある時代ある人々によってつくられたものだということを示しています(と同時に、彼らが意図したものではないということも強調されていますが)。となると、私たちはあり得たかもしれない過去を考えるように、「資本主義的でない生」について思考することができるのかもしれません。
もちろん、資本主義の外部を考えることは、人類の歴史でたくさん試みられてきました。一番有名なのは共産主義です。ただし、それも一つの試みにすぎません。必ずしもそれに飛びつかなくてもよいでしょう。私たちがひとまず覚えておかなければならないのは、現代の私たちの生=資本主義的な生は歴史を持っていて、だからこそ相対化できるということです。「理想の生」とは超越的なものではなく、経験的なものである。

今回の対象範囲のメモ

敬虔派
・敬虔派は、来世での救済のために頑張るカルヴィニズム(予定説)と異なり、現実での祝福として労働の成果を受け取るというスタンス
・敬虔派をはじめとするピューリタンにとって哲学的思索は危険なものだが、物理学をはじめとする経験的な科学は重要だった。神が作った世界を哲学は人間的に=断片的にしか把握しえないが、自然の摂理を学ぶ科学はその全貌に近づくことができる
・職業における厳格な行動主義を謳ったカルヴィニズムに対して、敬虔派は「罪の赦し」を含む家父長的・感情主義的なスタイルをとった

メソジスト派
・救いの確証を得るための生活の方法化を探究した一派
・敬虔派以上に信仰を感情面で実感することを重視し、その「激情」は生活の合理化へと振り向けられた

洗礼派運動から発生した諸信団
・信団(ゼクテ)とは、教会に対抗する概念。制度ありきの組織ではなく、信ずる者たちのための組織。儀式や祭礼から可能な限り離れ、「内なる光」のみを信仰のよすがとする。つまり、信仰の限りない個人化の達成
・諸信団とは、バプティスト派、メノナイト派、クエイカー派

各派のまとめ
・これら、禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理は何をもたらしたか。大きく2点。
・1つ目、宗教上の「恩恵の地位を得ること」をモチベーションに、生活を合理的な方法にもとづいて統御し、職業を通して禁欲的な生を送ることが奨励されたこと
・2つ目、こうした教えが修道院ではなく世俗の人々のものとなったこと

天職倫理から資本主義へ
・彼らによれば、労働を通じて財産を得ることはとても重要だ
・財産を蓄積することが危険なのではない。財産という神が与えた「宿屋」にいつまでも休息しつづけることが危険なのだ
・労働はそのものが禁欲の手段であり、そのものが目的でもある
・職業の有益さを測るには、第一に道徳的規準、第二に公共性、第三に収益性。もちろん、実際には最後のものが最も重要となった。「肉の欲や罪のためではなくて、神のためにあなたがたが労働し、富裕になるというのはよいことなのだ」
・彼らにとって、財産を蓄積することは神の栄光のためであり、自己の義務であった。現代においては、自己の義務だけがその動機になっている
・プロテスタンティズムは、財産や時間の無意味な消費=享楽を批判し、その反面、財産の獲得を心理的な枷から解き放った。非合理的な営利と戦うために、合理的な営利を持ち上げた
・プロテスタンティズムの当事者からすでに、富を禁欲的に蓄積するということのジレンマは告白されていた。「宗教はどうしても勤労と節約を生み出すことになるし、またこの二つは富をもたらすほかはない。しかし、富が増すとともに、高ぶりや怒り、また、あらゆる形での現世への愛着も増してくる」
・機械産業が主力となった現代、資本主義は宗教的動機という支柱を必要とせず、天職義務の思想は内実を失った亡霊のように社会を徘徊している




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?