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倫理、それは芸人魂——ウェーバー『プロ倫』第2章前半

今回の範囲は、ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』第2章の前半部でした。

第1章では、資本主義の精神的な起源がルターの宗教改革、すなわちプロテスタントの誕生にある、とぶちあげたウェーバー。第2章では、ルター以降のプロテスタントの教義、特にカルヴァン派に注目しています。カルヴァン派の特徴である予定説(神に救われる人とそうでない人は、あらかじめ決まっている)は、一般信徒に大きな影響を与えました。なぜなら、あらかじめ救いが決まっているため、懺悔とか赦しによって悪行が清算されない。つまり、信徒が救われる確信を得るためには、24時間自己を律して強く生きるほかなくなったのです。この逃げ道を断たれたような「自己統御」の倫理が、どうやら後の資本主義の精神につながっていくらしい、という内容でした。

さて、前回の読書会では、本書における「倫理」「精神」という言葉はそれぞれどのような意味を持つのだろう、という論点が提起されました。
今回の対象範囲によれば、カルヴィニズムは大きく2つの影響を民衆にもたらしました。①徹底して自己を律して生きることが是とされる、②信仰が個人の内面の問題になる。つまり、「倫理的」に生きることが、そのまま個人の内面=「精神」の前提になったということです。ここでいう精神とは、個人の中にある心の世界。倫理とは、その心に「こうあるべき」というルールをもたらすもの、と言えるでしょう。

以前の記事で、ウェーバーの議論には社会の無意識を探るような「精神分析っぽいところ」があると書きました。それを思い出すと、倫理=「こうあるべき」というルールをもたらすものは、フロイトの言葉でいえば超自我、ラカンでいえば父です。どちらも、心の中に自我ではないもう一つの存在を仮定し、そこから命令のような形でルールが下されることで、人間は倫理的に行動することができる、という構図です。
ポイントは、そのもう一つの存在はどこかふわふわしている、ということです。たとえば、約束を守るとか、時間や期限を守るとか、集団のために役割を果たすといったことを、私たちは大事なこととして教わりますし、子どもたちにもそう教えます。しかし、その究極の根拠を答えることは簡単でありません。しゃかりきにルールを守るよりも、時には人よりちょっと楽をしたり、くつろいだりする方が幸福ではないかという反論は容易にはくつがえせないでしょう。

人の心には「ルールを守れ」という誰かがいる。しかし、ルールを守ることの究極の根拠はない。この困難を、ウェーバーはカルヴィニズムの教義で説明しました。根拠がないのは、救われるか捨てられるかのエンディングが見えないから。だからといって好き勝手生きるのではなく、より立派に生きろと自らに呼びかけるのは、そうしないと不安な自分をなだめられないから。こう書くと素朴すぎるかもしれませんが、人間の心はどこか無理をしているのです。

バラエティー番組のクイズで、A/Bと書かれた大きな壁に向かって解答者が飛び込むようなものかもしれません。答えは決まっている。でも解答者にはわからない。それなら、少しでもバラエティー的に「画が良くなるような」走り方で壁に飛び込むしかない。このとき、解答者の心に生まれる「芸人魂」が、超自我や父といわれるものでしょうか。
こう考えると、私たちは芸人魂をあまりに自明のものとしてきたようにも思います。芸人ノリの反対としての何か――シラケのようなものが、どこかにあるのではないか。あるいは、それもまた「作り出せる」ものなのか。

うまく論点の形にまとめられませんでしたが、今回の範囲で考えたのは以上のようなことでした。

最後に、前回同様、大まかな内容のブロックごとに見出しをつけたものを載せます。

1. プロテスタンティズムの心理的起動力となったのは「来世の思想」
2. その中でもカルヴィニズム(カルヴァン派)は「予定説」を説いていた。予定説とは、神が自らの栄光のために、ある人々に永遠の生命を与え、その他の人々には永遠の死滅を予定した。その選択はあらかじめ決まっている、というもの
3. 予定説は、「人間のために神があるのではなく、神のために人間がある」という前提に基づいている。そのため、選びの予定は人間が自ら変えることはできない
4. 予定説の浸透によって、カトリシズム由来の教会や儀式が廃棄され、個々人の内面的孤独化が進行した
5. カルヴィニズムが信徒に求めた労働は、神の栄光を増すためで、人間のためではない。そのため、合理的・非人格的=功利主義的なものとなっていった
6. キリスト教徒にとって、「自分が救われるか」は最大の問題である。たとえばカトリックは、生涯を通して善行を積むことで救いに到達しようとする。対してカルヴィニズムでは、善行は救いを得ることには無力だが(あらかじめ決まっているので)、自らの救いに確信を持つためには有効である、と考える。なぜなら、救われる人間は神の栄光を増すにふさわしい生きざまを見せるはずだからだ。カルヴィニズムは、救いの確信を行為によって作り出す
7. 生涯を救いへの道のりと捉えるカトリックでは、懺悔という帳尻合わせがあったため、ある意味生活での弱さが許容された。対してカルヴィニズムでは懺悔がないため、生活において徹底して合理的に、強く生きなければならない
8.こうしたカルヴィニズムの「自己統御」への志向は、原始キリスト教に起源を持ち、今ではイギリス紳士にみられるような類型を作った
9. 救いの確信を軸にした宗教的貴族主義は、カルヴィニズムによって修道院の外の世界=世俗へと広められた。彼らは、弱さを悔いるのではなく憎み、行為を持って克服しようとする。同時に、救われない方の人間に対する憎悪と軽蔑はより深いものとなる
10. 常に自己を審査し、改善していく「自己統御」の精神は、神との取引を行う、一種の事業経営に近いものになる

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