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加藤典洋が論じた「ねじれ」

今回の課題本は加藤典洋『敗戦後論』でした。
有名な本でしたが、初めて読みました。たしか前回の読書会で、「社会や政治、特に現代の日本の状況に通じる本」ということで決まったように思います。

加藤は、日本の戦後には「ねじれ」があると書いています。ねじれとは、矛盾から発生するちぐはぐな事態を指します。代表的なのが、平和のためには武力を持たないとする憲法を、米軍の武力による威圧の下に制定したという矛盾、そして戦争の最終的な責任者であった昭和天皇が免責され、部下のみが死刑となったという矛盾です。

それらの出来事が時を超えて、本が書かれた当時(90年代)の日本政治や社会のねじれとして表出しました。ある総理大臣は、侵略戦争は間違っていたとアジアの国々に謝罪し、ある大臣は戦争に大義があったと正反対のことを言う。あるいは我々が、アジアの犠牲者2000万人と、日本軍の死者300万人のどちらかしか追悼することができず、どちらを追悼するかでイデオロギーの一極に振り分けられてしまうという状況。

加藤はまず、このねじれを見て見ぬふりをしてはいけないとし、歴史の中で、声をあげたり独自の姿勢で抵抗しようとした文学者たちの姿を探します。そして、ねじれを解消するために、現行憲法を自分たちで改めて選び直すという方法を提案します。また死者の追悼については、まず日本軍の死者を追悼し、その無意味さを引き受けることで、はじめてアジアの犠牲者を追悼することができる、という思考を展開します。この最後の主張は多くの反論を喚起し、発表後に交わされた議論が本書の後半にも反映されています。

こうした内容の『敗戦後論』ですが、読んでみて考えたことを大まかに3つ書いてみます。

1つ目は、思考の足跡が小松左京に似ているなということです。
小松左京は10代で敗戦を迎えた作家ですが、デビュー作は「地には平和を」という短編で、日本が8月15日に降伏せず、本土決戦に突入した並行世界を描きました。作品の最後は、平和な戦後を過ごしている「この世界」の人物に、壊滅的な並行世界の記憶が一瞬流れ込む、というシーンです。
『敗戦後論』のたとえば下のような箇所を読むとき、加藤と小松の思考が近い場所を歩んでいたことが感じ取れます。

1945年8月に欠けていたのは何だったろう。
……この時国体の護持などということ以上に大切だったのは、はっきりと相撲をいったん負け切ること、この“負け点”の護持、継承だったはずである。
……「敗けた」という声を発すべきところ、「喧嘩はよくない」ということからはじめられたわたし達の戦後……(p97)

2つ目に、小松の愛読者でもある東浩紀が、加藤から大きな影響を受けているのがよくわかったということです。
加藤は、戦後のねじれを「言っていることとやっていることが一致しない」と表現していますが、東はその表現を借りて、「ねじれの自覚こそが戦後日本の表現の前提である」といいます。

戦後日本の表現は、敗戦のことばかり考え続けてきた。前号に続きふたたび加藤典洋の言葉を借りるとすれば、「ねじれ」についてばかり考え続けてきた。戦後日本の文学と芸術が、そしてそこから生まれたマンガやアニメのようなサブカルチャーが、ともに短いあいだに世界にも類を見ない特異な――奇形的と言ってもいい――発展を遂げたのは、ぼくたちの社会が、70年前の敗戦のため、言葉と現実、文学と政治、理想と実践のあいだに大きな「ねじれ」を抱え込んでしまったからにほかならない。『ゴジラ』も三島由紀夫も宮崎駿も村上隆も、ほとんどなにもかもがその磁場のなかにある。(「ゲンロン4」p36)

おもしろいことに、この後に「批評もまたその磁場から自由ではない」「時代の状況にあえて触れないこと、それそのものが時代への批評になる」として、ねじれを指摘する批評という行為自体もある種の転倒を抱えていることを明らかにしています。

3つ目は、加藤が提示している天皇への疑義に近いものが、最近読んだ柳美里の『JR上野駅公園口』という小説で異なる視点で描かれていることです。

『JR上野駅公園口』で語られるのは、上野で暮らすホームレスの一生です。彼の人生は常に天皇家とリンクしていました。彼は平成天皇と同じ年に生まれ、幼いころに地元を訪れた昭和天皇を出迎える大衆のひとりとなって万歳を唱えるという強烈な体験をし、令和天皇が生まれるのと同じ年に息子が生まれました。

しかし、家族を故郷においたまま東京で何十年も出稼ぎをしているうちに、息子は21歳の若さで亡くなってしまい、彼が故郷に戻った数年後に妻も亡くなります。他の家族の迷惑になりたくないと考えた彼は、再び東京に向かい、ホームレスとして孤独に生きることにしました。しかし、上野公園で暮らすホームレスたちは、「山狩り」と言われる特別清掃のたびに、シートの家をたたみ、公園から外に出なくてはなりません。山狩りは、皇族が上野の美術館やホール、博物館を訪れるたびに自治体によって行われます。ホームレスたちが皇族の目に入らないようにしているのです。何度目かの山狩りのあと、ホールから出てきた平成天皇を見た彼は、思わず他の人々といっしょに手を振ってしまいます。天皇と同じ年に生まれながら、正反対の悲嘆に満ちた人生を歩み、天皇にまつわる権力に住むところを追われているにもかかわらずです。

国民の平和を祈るのが務めである天皇のために、目に見えない国民が住まいを追われている。そしてその事態に抵抗して然るべき国民が、天皇を賛美してしまう。この小説は、戦後の「ねじれ」そのものを描いているように思えます。

以上、『敗戦後論』の感想でした。この本は他にも、太宰治やアーレントについての興味深い論を展開していますが、私はまだその骨子をしっかりとつかむことができていません。いずれどこかで再読することになるのかなと思います。

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