欲張りに生きる
幸せとは何か。
知り合いに、社長と結婚し出産し大きな一軒家を建て、家具家電すべて「1番いいやつ買ったの」と話す女性がいた。
新築お披露目パーティでは、まるで芸能人のルームツアーのように隅々まで見せてもらい、ウォークインクローゼットにはどこぞのショップのように並べられたブランドバッグの数々、子ども部屋にはトイザらスと見間違うほどの大量のおもちゃが陳列されていた。
ちょうど五月人形を飾る時期でリビングには等身大の鎧があり、「家の中に武者がいる…」と心の中で大変驚いた。
彼女は美人ではつらつとしていて、誰が見ても『幸せ』を体現している女性だったと思う。
ただ自分は、羨ましい気持ちより違和感が大きかった。
その違和感の正体は今でもよくわからないが、同時期に出産して母となった自分には『子どもの幸せ』が気になる点ではあった。
他所はよそ、である。
大事なのは自分が考える幸せとは何か。
これが非常に難しい。
今これを書いている自分の目の前にある、一杯のコーヒー。ここに幸せが詰まっているといえばそんなような気もする。
平日の昼下がりに、カフェで文章を書きながら美味しいコーヒーを飲む。
物思いにふける。
こんな幸せな時間はないだろう。
もう少し視野を広げると、ここは病院の中のカフェで、今から診察で、自分の体調は良いとは言えない。
まあそれを差し引いても、幸せと言える。
なぜなら昨日より体調がマシだからだ。
太陽の光を浴びながら、歩けることに感動した。
お昼は自分でパスタを茹でた。午前中には洗濯もした。必要な電話も何件かこなした。
動ける、食べられる、外を歩ける、なんて幸せなんだろう。
そう思う自分がいる一方で、家計は決して余裕はなく、子どもたちと旅行へ行きたいという夢は何年夢のままなのだろうか。
冬休みにハワイへ行ったお友達がいるらしく「なんでうちはどこも行けないの!?」と子どもに聞かれ胃が痛い。
子どもには子どもの世界があり、周りと自分を比較して初めて『社会の中の自分』を知る。
その過程で周りが羨ましく思えたり「なんで?」と思うことが出てくるのは成長している証拠だ。
自分は親から与えられず不満を持ったまま成長し、我が子にはなるべく与えてあげたいと思うようになった経緯がある。
だからハワイ旅行とまではいかずとも、国内、いや近場でもいいから連れて行ってあげたい。
なのにそれすらなかなか難しい。
そんな葛藤に苦しむとき、決して幸せとは言えず、やはりこの世はお金なのか…と絶望を感じる。
愛や時間や健康はお金で買うことはできない。
いや、買えるかもしれないが、それは本物の愛か?
未来の微々たる時間は買えるかもしれないが、確実に過去は買えない。
一流の病院で最上級の治療は買えるかもしれないが、以前と全く同じ健康体にはならない。
幸せとは何か。
お金で買うことのできないものを持っていたら『幸せ』なのか。
愛も時間も健康もお金も欲しいと思うのは人間の欲が過ぎるというものだろうか。
人間とは実に面倒くさい生き物である。
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