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ブルーランド回想録 n.1 〈連載小説〉

ブルーランド回想録

 蛍のように、きれいな水辺をさがしていた。でもそんな場所は何処にもなくて、私たちは息の根を止められる思いで世界を彷徨うハメになってしまった。
 これはそんな日々をくぐりぬけてきた私たちの物語。どこにも辿りつかなかった、二人のお話。みじめで、不器用で、消えそうで消えない儚げな光と。
 ブルーランド回想録。

          ✴︎

 ベッドからもそもそと這い出して、カーテンをあける。夢の中で何か願いごとをしたような気がするけど、窓ガラスにふれた途端に、冷たさのせいでそれは消え去ってしまった。ほんの少し、隙間から外気を吸い込む。昨日とは違う空気だと思うのは、私が昨日とは違う人間だからなのか。鏡の前に置いてあるマトシェルの小物入れをそっとひらいて、中を覗きこむ。いくつかの指輪があって、私の指先は、自動的にそのうちのひとつを摘みあげた。こんなの、いつ手に入れたんだろう…?水滴のように指先で影を失ってゆくそのリングを見つめながら、私は悲しみに似た何かがやってくることを予感した。ほんの一瞬、時間が止まって…それを窓の隙間から放り投げる。
 私のなかで、何かが失われた。

 何事かのはじまりと、その自覚にタイムラグがあるように、終わりにもそれはあるのだろうか。私のなかの野生動物の感性は、もうすっかり退化してしまっていて、第六感どころか、五感さえも何ひとつ確かな手応えを探り当てることができない。いくつものとりとめのない思いがちらつき、花弁のように消えた。見ると、はるか遠くから、街の上空から、数千もの色褪せた雲たちが戻ってくる。帰りつく港のない小舟の群れのように。ずいぶん前から、私のランドスケープを占めていきつつあったこれらの掴みどころのない形について、どうしてか私は注意を払うことをしなかった。目を凝らしてみても、その雲たちが何をのせているのかは分からない。なぜならそれらは、私には見覚えのないものばかりだったから。
 誰だって、何かを失うつもりで手に入れるわけではない。それどころか、ほんのちょっとぼんやりしてさえいれば、何ひとつ失わないつもりの足どりで此の世をちょろちょろしてしまう。でも、たぶん、それはいずれにしろ、何処までいっても〝つもり〟に過ぎないのだろう。この部屋であろうが、想像上の極地であろうが、私たちは時間の流れが付随しない場を設定することができないので、手のひらに置かれた氷砂糖は、いずれ消えてなくなってしまう。湖が小さな波を立てて木の葉を向こう岸へとつれていくあいだに、雲間から光が差して島々を目覚めさせるあいだに、私たちはいくつの氷砂糖を噛み砕くのだろう。そして、湖水が干上がり、太陽が消えてしまった後にも、その甘く冷たな舌触りを、私は憶えておくことができるのだろうか。もし、忘れてしまうとしたら、そのあとには何が遺されているんだろう。
 たぶん、あの朝から…気がつくと私にからみついていた不可思議な喪失感みたいなもの。それはぼんやりとしたものだけど、ふとした時に気持ちを落ち着かなくさせる。何かをしていてもしていなくても、私はその感触をひとつずつ指で辿ることができる。どんなに辿ったところで、何もたしかなことは得られないと知りながら。

 どんな呼び方でもいい。たとえば、架空の物語、夢の記録、置き去りにされたノートの断片…それとも、失われた季節の回想録…?

 失われし時を求めて。

 この言葉は一体どういうことなんだろう。ただ私は何かを失ってしまったような気がしていて、それは、とても大切なことで。それなのに、どうしてもそのことを思い出せないまま、ぼんやりとこの先の時間を過ごしていくことになるのだろうか。そんなことを何日も考えている。私はすこしだけ言葉を綴ってみたい。どんなことが書けるかは分からないけれど。
 窓の外には、日が落ちていくまでのほんのわずかな時間しかない。今もむかしも変わらず、私たちに残されているものとして。

          ✴︎✴︎

〈失われたノート〉

 世界は半分くらい終わりかけていて、今日も私は地下のショッピングモールで、あと半分の終わりを待ちながら、ソフトツイストに食いついている。地下と地上ではほんの少しだけ時間の流れが違う…ような気がする。錯覚に過ぎないのだけど。でも、錯覚って何だろう。本当のことを嘘だと思うか、嘘のことを本当だと思うか…。どちらも確かな事柄としてら捉えているという点においてなら、たいした違いはないんじゃないか。どうでもいいこと。テーブルの上でシマウマの刺繍が施された小物入れをあけて、三角形のピアスを眺める。均質な槌目の表面に光が反射しているようすは、すごく綺麗なのに、何だかとても歯痒くて…それはたぶん、自分もこうなりたいのになれないもどかしさからくる感覚なのかも知れない。もちろん、アクセサリーになりたいなんて、おかしな話だとは分かっているけれど。
 ガラス張りの店内から外を見ると、いくつもの通路があって、たくさんの人々が往き来している。私はテーブルに両肘をついて、手のひらで自分の重たい頭を支えながら、そのようすを眺めた。…地下世界は今日も慌ただしい。きっと暇なのは私だけなんだ。目玉だけを動かして、だれにも見られていないことを確認してから、顔をくしゃくしゃにして遊ぶ。そしてふたたび三角形に目を落として、心の声だけで語りかけるように、どうして…?と問う。いろいろな場所で、いろいろな物事を眺めながら、何度となく発してきたこの問いは、答え合わせをするような類いのそれではなくて、よく分からない事柄に向かい合う時に反射的に口をついて出るため息のようなものだった。

 その夜、星明かりの下で、シマウマの背に揺られた。何処かへ辿り着く予感がずっとしているのに、目的地らしいものは一向に見えず、青ざめた荒野がどこまでもつづく。いつのまにか、片手にはコップが握られていて、そこにはミルクがなみなみと注がれている。揺れのせいで今にも零れ落ちそうなそれを、零れるより先に飲んでしまおうと口もとへ持っていくのだけど、どうしてかほんのちょっとずつしか口にふくむことができない。扉がひらくと、過去に出会った人たちが不思議な姿をして広間を行き来していた。時も場所も、親密さの度合いも関係なく、たくさんの顔が一堂に会して、それはパントマイムのように、柔らかく、無言で、目を疑うような、手を尽くした虚偽のように映った。私は、誰かに気づかれてしまう前にと、そっと後ずさりし、出口をさがした。通路にならぶ窓の外では、絹をひろげたような何かが山脈をかすめるように推移して、谷間を横切るたびに影を落としていく。いつだったか、この光景を見たことがあると思った。思って、その先はない。
 やがてあたりは暗くなってしまって、私はひとりでいた。見上げても星は見えないのに、あるようなないような道を、静かな光が照らしだしている。何かが間違っているという漠然とした感覚。後ろを振り返って、ぼんやりとする。引き返すことができるのだろうか。というより、この道を歩いてきたんだっけ。透明な空気を吸って生きているのに、私は透明になれない。思惟は水のように流れて、足もとに沁みわたる。後ろを振り返っても、辿ってきた道すじを憶えていないとすれば、振り返るとは何だろうか。暗闇のなか、鉱物のような呼吸をしながら、でも私が透明であるかどうかを判別するのは、世界のほうだと思い至る。あと半分の終わりが、ほんのすこしだけ進行した。冥府。

_________

 ふと部屋を抜け出し、コンビニへと向かう。とくに用事があるわけではない。ただ自分の内情があまりにも空っぽでやりきれないので、部屋に一人でいると、その向こうの闇に捕まってしまいそうな気がして、少しだけ外界との接触を取っているに過ぎない。見上げると、東西に長くのびた雲が、半分は夕日を背に影として、半分は夜を背景に仄白い光として浮かんでいる。ネガとポジの境界線のないグラデーション。世界はいつも簡単に此の世のからくりをちらつかせてくる。こんな景色には倦き倦きしているんだと言いたげな自分の横顔がどんなに無様だろうと、私はそうやって歩くことしかできない。
 モンスターの冷たい缶を握りしめて、ホットメニューのケースからチキンを取り出す。見ると、ケースの右上に手描きのポップが貼り付けられている。まるっこいグミみたいな文字で【土よう日だけ!ホットメニュー10%オフ♪】と書かれていて、その下のほうにはチキンと肉まんが並んでにっこりしているイラスト。なんか可愛い…ていうか、今日って何曜日だっけ。ぼんやりとした頭の中で日付けを辿ろうとする私の視線は、思考を置き去りにして、カウンターの向こう側にいる女の子に吸いよせられてゆく。スンとした掴みどころのない佇まい。彼女はブルーの髪を束ねて、今日も変わらずクールだった。バーコードを読み取る音を聞きながら、私はその髪を見つめていた。彼女はどんな世界を見ているのかな。

 この世を救うために、この世には救いなどないということを知らせなければならないと気づいた人々。いつか分かってもらえるなんて、約束されてもいない日々を黙って過ごすよりは。
 ハートマークの起源を探究する。スリットを通過して直進しつづける光を計測する。そして、沈黙。視界は暗転して、見ると洞窟のなかに、小さな、黒い花が揺れている。すべての目が、それを黒だと認識する。でも、ちょっとはなれて観察すると、人間たちの背後には、白い花があって、彼らは、その影を見ている。つまり、何も知らされていない。振り向くことはできない。それが影だということがわからない。白い花は存在しない。何も知らされていない。黒い花を見ている。黒い花がある。
 遊歩道に外灯が等間隔の明かりを落としている。空想は、私をほんのすこしだけ元気づけてくれた。さっき見上げた雲はすでになくなっている。私は自分が後ろの空を振り返ることを想像したのだけど、ほとんど同時に、そうはしないということを直感した。
 冷えた空気を吸い込む。それは私の内側を循環する。私は自分のなかのどこかにある空洞を思い、そこを冷気が通り抜けていくさまをイメージする。きっといつか、こういう感覚にも慣れてしまって、それは水のように回って、空にのぼって、あの雲になって、また何処か別の大陸に降り注ぐのかも知れない。操縦士のいなくなった爆撃機が、塩分濃度の高い湖の上を通り過ぎ、荒地へと墜落していく。何が夢で、何が現実なんだろう。音もなく、青い炎が揺れている。過ぎ去っていくものをつなぎとめておくことができずに、黄昏は夜にのみこまれていく。
 何千年も前に凍りついたまま、人の手にふれられることなく、いくつもの層を成して、長い年月をかけて、ただただ何もかもを氷づけにして…本当かどうかも分からないし、たしかめる術もないのだけど、世界の果てには、そういう場所があるという。どんな名前をつければいいのかな。何処かにある未知の領域について、冷たさ以外のことを想像できない私は、無力で、悲しく、ほんの小さな存在でしかない。私は私だけの冷凍睡眠カプセルを思いえがく。髪をほどいて、好きなお菓子の袋をいくつか抱えて、スリープボタンにそっと触れる。次に目が醒めたとき、このネイルはどうなっているんだろう。


                 〈つづく〉

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