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国語教育における「中心」という用語を考える5               中心人物をどう定義するか

 このシリーズ1~4までは、説明的文章に関わって「中心」という用語をみてきた。そして、「中心」が比喩として用いられていることを指摘してきた。「中心」という言葉を、比喩という自覚なしに、明確な定義をすることなく用いることは危うい。そのことは改めて指摘しておきたい。
 国語は、言葉を教える教科である。教師は言葉に対して敏感でありたい。だからといって、常にそうあらねばならないというわけでもない。敢えて、曖昧な言葉遣いをすることもあってよい。ただその場合も、やがては厳密な言葉遣いに向かっていくという意識は必要である。
 今回は、物語・小説の指導において用いられている「中心人物」について考えていく。 

「主人公」は曖昧である

 本題に入る前に、中心人物と似た用語である主人公について述べておく。ネットを検索すると、二者の違いを以下のように説明していたものがあった。
 
 作品の主となる人物を「主人公」と呼び、話の展開に必要な存在です。また、読む人の感情を掴むためときに過酷な状況に追い込まれたり、幸せな最後を迎えて人々を幸せな気持ちになる重要な人物を指します。
 もう一方の「中心人物」は作品の中でも重要な鍵を握る位置に立つ人を指すのです。問題が起きれば解決するため積極的に動き、みなの心を変えさせるため刺激を与える力があります。
 
 私には、「主人公」は「話の展開に必要な存在」、「中心人物」は「重要な鍵を握る位置に立つ人」という区別がよくわからなかった。
 「主人公」という用語を教師は用いない方がよい、と私は考えている。理由は、主人公の定義が曖昧であり、人によって誰を主人公と見るか変わる可能性があるからである。
 「スイミー」(レオ・レオニ)の主人公がスイミーというのは揺れない。しかし「ごんぎつね」(新美南吉)の主人公はごんなのか、それとも兵十だろうか。「お手紙」(A・ローベル)は、がまくんなのか、かえるくんなのか。「一つの花」(今西祐行)の主人公はどうだろうか?
 主人公という言葉は、日常的にも用いられている。それだけに、読み手や用いる側の価値判断が多分に入り込む。誰に重きを置いて、物語やドラマを読んだり見たりするのかという価値判断である。
 だからそのような言葉をわざわざ教室に持ち込む必要はない。それよりも「中心人物」という言葉を教えていく方が、ずっと分かりやすいし、子どもたちを混乱させることもなくなる。 

「中心人物」の定義

 私は、中心人物を次のように定義している。
 
物語の語り手が主として寄り添って語っている人物のこと。一人称の語りでは、語り手が中心人物となる。
 
 中心人物が明らかになることで、読者は誰に目をつけて読み進めていけばよいかが定まる。特に、低・中学年のうちは、中心人物を定めることが、子どもたちの物語理解をわかりやすくしていく。つまり、その作品が誰の視点に寄り添って語られているかというところを明らかにするところに、中心人物を決める意味がある。ただし、中心人物はすべての作品に存在するわけではない。
 わかりやすい例が「おおきなかぶ」である。「おおきなかぶ」は、登場人物の誰かに寄り添って語られているわけではない。「一つの花」もそうである。三人称客観視点で語られており、中心人物はいない。
 また「お手紙」の場合、お話はかえるくんに寄り添って語られている。がまくんに寄り添っていては、かえるくんが自分の家に帰ったところは語ることができない。この作品で、どちらが主人公かといった議論を子どもたちにさせても意味はない。どちらも大事な人物である。どちらが大事な人物かではなく、お話がかえるくんに寄り添って語られていることが分かることを重く見るのである。 

教科書などの説明を検討する

 東京書籍3年上の教科書では、中心人物を以下のように説明している。
 
物語全体を通して、気持ちやその変化がいちばんくわしく書かれている登場人物のこと。多くの物語では、さまざまな出来事を通して、中心人物が変化したり成長したりする様子がえがかれる。(p152)
 
 一つ注文を付けると、多くの場合は「気持ちやその変化がいちばんくわしく書かれている登場人物」でよいのだが、必ずそう言えるわけではない。「中心人物が変化したり成長したりする様子がえがかれる」という点についても同様である。
 また、次のような規定をする人もいる。
 
・物語の中で一番大きく変わる人物を中心人物とよぶ。
・「中心人物」=物語全体で、気持ちやその変化が一番詳しく描かれている 
 人物

 心に変容がある
 
 中心人物の気持ちやあり様が一番大きく変化することは多くの作品では言い得るが、そうではない作品もある。
 「白いぼうし」(あまんきみこ)の中心人物は、運転手の松井さんである。松井さんに寄り添ってお話は語られている。しかし、松井さんの気持ちやあり様が変化したかと言われれば、そうではない。少なくとも、松井さんの変化が明らかなように作品は書かれていない。
 「スイミー」の中心人物がスイミーであることには異論がないであろう。しかし、スイミーの気持ちが変化した作品とはいえない。
 物語の読解=心情を読むこと、と思っている人が多いようだが、間違いである。
 心情読みの問題については、改めて述べる。
 

おわりに

 「中心」という用語の検討は、一先ずこれで終わりにする。
 最後に改めて強調しておきたいのは、「中心」の曖昧さである。算数・数学では、円の中心とか中心角、中心線などといった用語が用いられる。そのどれ一つをとっても曖昧ではない。明確に規定されている。それに対して、国語における中心の何と曖昧なことか。学習指導要領ですら明確に規定していない。ここでは触れなかったが、短歌などでいわれる感動の中心なども危うい使い方である。
 私たちは、「中心」というだけで何となく分かったような気になってしまうのである。その危うさにしっかりと目を向けてく必要がある。国語は言葉を教える教科である。まずは教える者自身が、言葉としっかりと向き合うことである。
 

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