河の流れは_–序–

以下の話は、私の友人の伯母の話である。私が友人から聞いた話を、友人の許可を得て、文章に起こした。
友人の伯母は、昭和22年9月15日関東地方を襲ったカスリーン台風(台風9号)の災害に飲み込まれて、23歳の若さで亡くなったとの事だった。

山田登志子さん


河の流れは_00 –プロローグ–

川の流れは絶えずして、しかもその水は元に水にあらず。
方丈記冒頭の言葉のように、利根川の水が作り出す渦が流れにのって海に向かうが如く、伯母は逝った。
実際、人というのは、どんな存在なのだろうか。仏教の経典の一つ「ミリンダ王の問い」の中では、ナーガセーナが「人は実体ではない。」と説く。「テセウスの船」という古代ギリシャ哲学での「同一性問題」というパラドックス。分子生物学者の福岡伸一氏の著書「動的平衡」では、「生物とは、エントロピーという流れの中で、動的平衡状態にある現象」と定義している。
これらの言葉の意味を、しいて例えれば、人(生物)というものは、食物で構成された川の流れの中で一時期存在する渦という現象というみたいなものか。渦は、一瞬で消滅してしまう渦もあるが、一定時間、存在し続ける渦もある。一瞬でも一定時間でもどちらも有限時間である。だから時間の長短はあまり関係ない。人の一生もある意味一瞬だ。つまりは、人は実体ではなく単なる現象である、という事か。渦は儚い。しかし、一方強靭でもある。川の流れが変われば、儚く消えてしまう渦もある一方、流れの変化に対応し、渦の形を変えつつも、しぶとく残り元の形に戻る渦もある。或いは、流れの変化に対応した違った形の渦として残る場合もある。
では人という生物現象というプロセスの上に存在する知性とは、更にどんな存在なのだろう。現象の上に存在する知性は、もはや現象とも言えない存在。
現象が消滅した後、知性は何処にある?現象の上で育まれた知性は、現象が消滅した後は、更なる次元の高みの彼岸という彼方に向かうのか。利根川の水の流れに乗っていった伯母の知性も彼岸という大海原へ向かったか。

これは、23歳で亡くなった伯母の事である。
伯母は、昭和22年、関東地方を襲ったカスリーン台風(台風9号)の犠牲になった。この災害で犠牲になった人は、関東圏で、1,000名以上。群馬県だけで、約600人にも上ったそうだ。
伯母の足跡を辿る過程で、伯母がこの様な大災害に巻き込まれていたという事がわかってきた。そして同時に伯母が生きていたという足跡が身内の記憶にしか残っていないという事が分かってきた。
墓もない。せめて慰霊碑の様な石碑の類などないものかと伯母が流されたであろう土地を巡ってみた。伯母の足跡の全てを巡ってはまだいない。これから巡ろうと考えている地もまだ残っているが、結論から言うと、今のところ何も見つかっていない。ただ巡る過程でわかってきたこともあった。

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