河の流れは

河の流れは_01 ー父の事ー

発端は、父親のいまわの際の言葉から始まっている。父から伯母の事を聞いて驚いたが、その当時は、父の事で手一杯で、伯母の事をゆっくり考える余裕などなかった。父の事が一段落した頃、改めて伯母の事を考えてみた。すると驚くほど、情報が断片的なのだ。改めて、当時の状況、父の言い残した言葉を思い出し、伯母の事を考える。
まるでピースの揃っていないジグソーパズルを手元に残っている断片的ピースだけを頼りに、不明なピースを見つけながらパズルを完成させていく様な作業であった。

そもそも、私は父から話を聞くまでは、伯母の存在を知らなかった。正確に言えば、知ってはいたが、私が生まれる前に既に伯母はこの世にいなかった。だから、あまり気にかける機会もなかったし、父も殆ど話題にする様な事もなかった。嫁ぎ先の墓の下で眠っており、既に伯母の弔いは済んでいるのであろうと漠然と思っていただけだ。
伯母の事を父から改めて聞いたのは、父が、医者から余命宣告を受けて、最後の時を自宅で迎える日の一月ほど前である。

父は、その年の夏になって突然体調不良を訴えだした。何処かが痛いとか、熱があるとか、寝られないとか、という具体的な症状があるわけではないが、何となく食欲がなく、気力が振るわないらしい。
コロナ禍の最中であったので、近所のかかりつけ医に診てもらい、PCR検査をしても陰性。特に異常が見られないため、様子を見ているうちに、息切れが加わり、オキシパルスチェッカーの値も90を切るようになった。
胸のレントゲンだけでは、判断しかねたのか、医者は紹介状を書いて、市内の設備の整った病院に診察するように計らってくれた。
父を車に乗せ、自宅から10分ほどの市内の病院に連れて行った。父は、しんどそうにしていたが、自分で歩いて、病院の入り口をくぐる。父親と診察室に入るなり、担当医の先生が、「えっ?」と驚いている。先生「ご自分で歩いて来られたんですか?」
父親「はい」
担当の先生には、紹介状と共に胸のレントゲン写真等のデータが既に届けられていたらしく、診察前からある程度の父の病状を予見していたようだ。
「歩けるんですか。」と驚いた様子で続けて医者は問う。察するに、父の病状はかなり末期であり、普通であれば、自力で立って歩けるほどの体力などない、と予見していたのであろう。それが、歩いて、診察室に入ってきた父を見て驚いたのであろう。
詳しい検査は後日に行われたが、その日のうちの問診・初検で、医者はある程度断言的に所見を伝えてくれた。
数年前に、母を脳梗塞で先に見送っている父は、既に未練ない様子で、「先生、正直に言ってください。覚悟はできていますから。後、1年ですか。2年ですか。」
先生「い、いや、年を越すことは難しいかもしれません。」
父は、自身衰えを感じてはいても、まだまだ1年位の体力はあると思っていたのだろう。実は私自身もそう思っていた。
流石に先生のその言葉を聞いて、父は驚いていた。
しかし、覚悟をしていた父は、直ぐに事実を受け入れた様子で以後の終末医療の選択肢を冷静に聞いていた。
入院という選択肢もあったが、コロナ禍の最中という事もあり、一度入院すると、最後の時を家族と迎えることは難しい、と考え、本人も最後は自宅で迎えたいとの希望もあり、在宅介護を選択した。
診断では、肺癌に加え、胆のうにも癌が見つかった。胆のう癌の肥大の為、胆管を圧迫し、胆汁が出てこず、黄疸の症状がひどい。
その為差し当たり、症状を和らげる為、胆管にカテーテルを入れる施術を行う為の入院をし、その後自宅戻った。
それは夏の終わりの頃だった。父が入院中に介護ベッドやヘルパーさんの手配等を済ませ、看護師である妹が我が家に寝泊まりしてくれる事で、受け入れの準備を整えた。
その後、父は、11/14に息を引き取った。果たして先生の見立ては正しかった。

河の流れは_02 ー伯母の事ー

そんな在宅介護をしていた中、突然、父の口からこんな言葉があった。
父「この絵のモデルはなぁ、俺の姉なんだ。」
余命数か月と先月、医者から告げられた父が、介護ベットの上で、一枚の絵ハガキを私に見せながら、徐に語りだした。

私「えぇ!これ裸婦像じゃない。このモデルが、鹿児島の伯母さん!?あの厳格な伯母さんが?ほんとかぁ?」
かつては、鹿児島の県会議員に立候補するほどの厳格者の伯母が、モデルとはいえ、人前で裸になるなどという状況が全く想像できなかった私には俄かにその話は信じられなかった。
父「いや、鹿児島の姉じゃぁねぇよ。もう一人上の姉だ。戦後まもなく死んじまったがなぁ。ほれ、そこの神棚に飾ってある写真。あれだよ。」
私「あ、この写真?」
いつも神棚の脇に立てかけてある一枚の白黒の肖像写真。一人の若い女性が写っている。撮影時期は、昭和20年頃であろうか。そうであれば当時の写真事情を踏まえれば写真館かどこかで、撮られたものであろう。顔は正面を向いておらず、斜め前方からの写体である。何処か憂いを感じる。この写真の女性は何時も見ていたので、知ってはいたが、特に説明もないままだったので、私はてっきり、祖母の若い時の写真か、母方の姉妹の誰かであろうと勝手に思っていた。

父「嫁ぎ先の群馬の山の中で、山津波に会って死んじまった。遺体なんてでてきやしなかった。お腹には子供がいたらしい。」
私「ふ~ん、そうだったんだ。」
父「昔は、ありふれた話だったが、親父と相手との手紙とのやり取りだけで、親父が勝手に相手を決めて、嫁がせやがった。」
続けて父「昔は、親の言う事に従うのが普通だったからな。姉は、一度もあったこともないその相手に、親の言うがままに、種子島から群馬に嫁いでいったよ。今ならひでぇ話だよな。」

父は、昭和6年、東京で生まれた。恐らく、二人の姉も東京生まれだと思う。
父の父、つまり私の祖父は、明治9年生まれで、日清戦争に従軍した軍人だったそうだ。
祖父の生まれは、種子島。代々種子島に住んでいた家系で、祖父は、日清戦争従軍後、東京に出てきて、印刷業で身を立てたらしい。父たち姉弟が生まれた頃は、事業はそこそこ順調にいっていたようだ。
母もそうだったが、父は、戦中、戦後の事は今まであまり話さなかった。時折、断片的に、種子島での生活や祖父が戦後まもなく死んだときのことを話すことはあった。
父は、最後の時を迎えるにあたり、憶えている事、全てを言い残しておこうと思ったのだろうか。少しでも多くの事を話し残しておこうとでも思ったのだろうか。急に多弁になった。多くの事を言い残そうとする為なのか、話題がポンポンあちこちに転じ、あらぬ方向に流れてしまう事が度々であった。
この時も、自分の姉の話をしていたかと思うと、突然、自分の名前の話を話題が転じたりする。時代背景や時系列に話をしてくれないので、聴いているこちらは情報の整理が追い付かない。
父「俺が生まれた時、親父は56歳。下手したら、俺の名前は五十六になるところだったよ。」

第二次世界大戦の最中、いよいよ東京が危なくなってきたと思った祖父は、故郷で当時も今も親戚がいる種子島に疎開することを決めたらしい。そして、一家で種子島の親戚の家に身を寄せた。
祖父は軍人あがりだったという事は以前聞いたことはあった。だからなのだろう、父に対しても軍事教練的な教育もしていたようである。
或る時は、鹿児島で戦国時代から伝わってきた示現流による棒振りをさせられた事もあったと言っていた。
父「あんなもんは、武道じゃぇねえよ。ただ、ひたすら木刀を狂ったように、振るんだからな。あれで剣術が上達するとは俺にとてもじゃないが思えなかった。」
私は、戦国時代を舞台にした歴史小説を好んで読んでいたので、多少知識として示現流の事は、知ってはいたが、戦時中の一時期とはいえ、父がその修行をしていたというのは意外に思えた。
父の話は、更に転じる。
父「種子島の砂浜で、馬上訓練していた時に、米軍機が飛んで来てなぁ、あの時は、機銃掃射されてお終いかと思ったよ。だけど、何故か何にもせずに、俺たちの頭上をそのまま飛んでっちまったな。あんな逃げ隠れする様な場所がないところで、機銃掃射されたら、絶対助からなかっただろうなぁ。」
私「ふ~ん、そんなこともあったんだ。」
父「戦争が終わって、種子島に居ても仕事なんてないから、福岡の筑紫炭鉱にも行ったな。金は良かったけど、身が危なかったから、半年で辞めて種子島に戻ってきた。その後は、やっぱり東京で生まれたからな、従弟を頼って、東京に戻った。」
戦後になって、東京生まれの父は、田舎暮らしが合わなかったらしく、自分が生まれた場所の東京に戻ってきた。
私「炭鉱で、危ないってどういう事?」
父「坑道を掘り進むのに、硬い岩盤なんかがあると進めないから、発破使って、硬い岩盤を砕くんだ。発破仕掛けるときは、皆外に出て、発破が爆発するのを待つんだ。爆発したら、また作業に戻るために、坑道に入るんだ。坑道を掘り進む、発破を仕掛ける、発破が爆発したら、坑道に戻る、それの繰り返しだ。それで発破を仕掛けるときに、仕掛け数は前もって知らされるんだ。10発とか、20発とかな。それで、外で待っている間に、発破の爆発回数を数えるんだが、たまに、事前に教えられた仕掛け数と爆発数が、合わない時はあるんだよ。爆発数が、仕掛け数より一つ少ないとかな。という事は、一発不発になっているってことだ。発破が一発不発のまま、坑道の中に入って行って、その後、不発弾がふいに爆発したら一たまりもないだろ。」
私「そんないい加減なことなんてないだろ、戦後間もない時代とはいえ。」
父「いや、それが結構あるんだよ。危なっかしくてしょうがねぇ。いつ死んでもおかしくないから、半年で辞めたよ。」
訓練の話にしても、炭鉱の話にしても、今の時代にいる私にとっては、「本当かよ」と思ってしまう話ばかりが飛び出てくる。
祖父の最後も豪快だったようだ。聞いていて何時の時代の話だと思ってしまう。
疎開中、川向こうの知り合いの家に酒を飲みに行き、帰りは、橋のある所迄、回り道するのを嫌い、川を泳いで渡ろうとしたところ、折からの大水で、川に流されて、海まで流されて溺死したとか。翌朝、近所の人から「お前の親父が河口のところで死んでるぞ」という知らせで、慌てて馬に乗って、駆け付けたとか。
私「馬?なんで」
父「そりゃぁ、種子島なんかに当時気の利いた交通手段なんかあるもんか。農耕馬に乗って行ったんだよ。酒が入っているからといっても、泳ぎの達者な親父が川の流れ具合や自分の体調等の読みを誤るとは思えないから、不思議に思って現場に行ったんだが、遺体を見て合点がいったよ。後頭部がパッカーンと割れてるんだよ。ありゃぁ、きっと大水で流されてきた流木か何かで、後頭部をやられたんだろうなぁ。そりゃぁ、助からねえやな。一瞬で意識失ったんじゃねぇか。」
普通は身内の遺体を見て冷静でいられないと思うのだが、冷静沈着というか、あっけらかんというか。
祖父が溺死したのは、昭和24年の戦後の出来事だったから、私は祖父を知らない。祖父についての話を私の方から父に尋ねたこともなかった。薄情な話なのかもしれないが、祖父とはいえ、そもそも一度もあったこともない人にあまり興味を持つこともなかった。父の死を間近に感じてきた今、また父がこのような話をしてきた今、真摯に聞けるようになった気がする。

父にしろ、会ったこともない祖父にしろ、「死」という観念が今どきの人とは少し違う様な気がする。「死」を淡々と話す。昔は、「死」が日常に身近だったのかもしれない。今は、多くの場合、病院で、家族から隔離された状態での「死」が多いせいなのか・・・。伯母の死について語る父の口調は更に淡々としていた。

河の流れは_03 ー日高安典さんの事ー

話がそれてしまった。
私「それで、この絵と、俺にとっての伯母さん、親父のお姉さんがどう関係するんだよ。」
父「この絵の作者、日高安典さんは、俺の従弟にあたるんだ。ほれ、この家系図にあるだろ。安典さんのお父さんは、俺の親父、お前の祖父と兄弟でな、元は、羽生家だったんだけど、日高の家へ養子に行ったんだ。養子縁組なんて昔はよくあったもんだ。」
私「ふ~ん」
父「安典さんは、美術学校に入学する前までの一時期、東京の俺の家に下宿してたんだ。」
私「そういえば、前に言ってたね。親父の生まれは、東京で、世田谷に住んでいたって。」
父「そう、羽生は、元は種子島なんだが、親父が、東京に出てきて、始めた印刷業が少しあたって、世田谷に家を建てたんだ。」
父「戦争がひどくなってきてから、種子島へ一家で疎開していたがな。」
私「じゃぁ、その伯母をモデルにした絵は、その世田谷の家で描かれたんだ。」
父「違うよ。安典さんが、俺の家に下宿していたのは、美術学校に入る前。俺もまだ小さかった頃だし、6つ上の姉貴だって、まだ12歳位の子供だったから、モデルになんかなれるわけねぇ。」
父の話は、時系列に並んでいないので、話しが一段落した時に、時系列に整理してみた。
日高安典さんは、大正7年生まれ。父は、昭和6年生まれ。父の直ぐ上の姉は、昭和3年生まれ。件の父のもう一人の姉は、大正14年生まれ。
つまり、父の言葉をそのまま信用するとすれば、安典さんが、世田谷の父の家に下宿していた時期は、恐らく、昭和12年頃か。安典さん、18歳か19歳頃?。
安典さんが、下宿していた頃の姉弟の年齢は、夫々、父は6歳、一つ上の姉は9歳、二つ上の姉は、12歳位だったのだろう。
そして、件の絵が描かれた時期は、安典さんが出兵する直前だったようだから、昭和16年辺り。
安典さん、22か23歳。父が言うモデルになったという姉は、16歳位。父の直ぐ上の姉は、13歳。父、10歳位か。
そういうイメージで改めてこの裸婦像を眺めてみると、モデルは、少女の様にも見えてくる。
年代的にも父の話に今のところ、矛盾する点はない。
それにしても現代の価値観ならば、それなりに覚悟はいるかもしれないが、16歳でヌードになるのもあり得る話かもしれない。
しかし、戦時中のあの時期の価値観を考慮すると、16歳の少女が、モデルとはいえ、人前それも男の前で、裸になるかなぁ。やはり考え難い。
それはひとまず置いておこう。父の話の続きを聞く事にする。

私「それじゃぁ、何処で絵を描いてたんだよ。」
父「安典さんは、美術学校に入学してからは、うちの下宿を出て、池袋近郊の長崎町のアパートで暮らしていたからな。そこでだ。」
私「そのアパートに、その伯母が行ってモデルになってたのか?親父もくっついて行ったのかよ。」
父「姉は、男も前でもポンポン服脱いで裸になるような女だったよ。」
父は、私の質問には応えることもなく、当時、観ていた事を改めて思い出すように、親父特有のべらんめえ口調で、そう表現した。
父のこの様な表現は、初めて聞く者には、まるで自分の実の姉が、娼婦の様な女だと思わせる様な言い方をするが、それは、親父一流のテレが含まれている。誤解を受け易い。
どういう状況で、父がこのことを知っていたのか、又伯母がどういう経緯で、心境で、安典さんのモデルになったのかは、今はもう知る術はない。
これはあくまでも私の推測だが、父は、姉と共に、安典さんのアパートに行ったのではなかったのか。姉(伯母)にとっては、弟を付き添わせることで、狭いアパートの一室で、裸になる自分と男と二人っきりになることを避ける為に。
伯母の心境はもっとわからない。安典さんと恋愛関係にあったのか、或いは、死を覚悟して、出征していく安典さんの希望に、単に応えてあげようと思っただけなのか。
仮に父が存命中に訊いてみたところで、わかるはずはなかっただろう。当時10歳そこそこの子供に、大人の琴線に触れる様な微妙な感情等くみ取れるはずもない。
しかし、この時は、わからなかったが、後日、伯母の足跡を訪ねている過程で、私の中に、或る仮説が浮かんできた。その仮説では、伯母の心境は、前者ではなかったのと。それは、先の祖父宛てに送られてきた手紙がきっかけだった。
父が今頃になって、この様な事を話したという事は、本来は誰にも言わずおこうと思っていたのではないか。しかし、ここで自分がいなくなったら、姉の事を知る者が誰もいなくなってしまう。だから息子の私、父の姉から見たら、甥にあたる身内には伝えておこうと思ったのかもしれない。
父は、話し続ける。

私「それで。その絵が所蔵されている信州上田にあるその私設美術館に親父は行ったのかよ。鹿児島の伯母はその事を知ってるのかよ。」
父「ああ行ったよ。もうだいぶ前だがな。」
父は、伯母の存知については、触れなかった。
私「それで、伯母のその後は、俺が生まれる前に死んじゃったのかな。」
父「あぁ、山津波に呑まれて、死んじまったよ。死体も出てこねぇ。あれしか残ってねぇよ。」
父の指差す方向には、神棚の中に小さな写真立てがあった。
私「あの写真、おばあちゃんか、お袋の母親の若い頃の写真かと思ってた。あの写真がそうなのか。」
父「姉貴は、こんなたった一通の手紙だけで、会ったこともないこの人の所に、嫁いでいって、山津波で流されて死んじまったんだよ。」
父は、古く黄ばんだ手紙を出してきた。差出人には、山田進と書いてある。あて先は、当時種子島に疎開していたという祖父宛てだ。羽生猛夫様とある。
手紙の内容は、よくわからないが、どうも出征の記録というか、山田さん自身の履歴書の様なもののように見えた。日付は、昭和21年4月とある。
父「たったこれだけで、嫁に行っちまったよ。昔は、男親の命令は絶対だったし、女に教養なんて必要ねぇ、なんていう時代だったからな。上の姉は、親の言う事に従う様な女だったけど、下の姉は、よく反発してたな。意見なんてあいやしねぇ。」
私「なんで、この山田さんという人の所に?」
父「そんなの知らねえよ。親父が勝手に決めたんだろ。」
私は、その時は祖父の知り合いか何かで、当時はそんなことは普通にあったのかな、と思った。もし、伯母が日高安典さんと結婚の約束をしていたとして、昭和21年なら、既に伯母は安典さんが亡くなっていた事を知っていただろう。
そして親の言う事は絶対だったのなら、安典さんと伯母の間の事など、知っていないだろう祖父が、伯母に嫁ぎ先を命じたのだろう、という父の言葉もあり得る話なのかな、とあまり深く考えずに思った。

河の流れは_04 ー父の最後ー

そんな話を聞いてから、約一月後、父は逝った。
その後も当時の色々な話を聞いた。自分が亡くなる前に、自分の足跡を言い残しておきたかったかのように。
亡くなる1週間ほど前だったか。
トイレもままならないほど衰弱はしていたが、それでも頭はボケることもなく、しっかりしていた。
あるとき、ふとベッドサイドに私が見るともなく、視線を移すと、マークシート用紙の様な紙の束が挟んでおいてある。
私「なんだ、これ?」
父「ロトシックスだよ。」
私「はぁ?、まだそんなのやってんのかよ。」
父「うるせぇ、これが日課なんだよ。俺の金でやってんだ。文句あるか。」
私「まぁ、ぼ~っとしてるより、いいけど・・・、もうちょっと、建設的な何か、他にねぇかなぁ。それに、当たったら、どうすんだよ。使ってる暇ねぇだろ。」
父「もうじき死んでいく人間に建設的もくそもねえだろ。当たったら、遺産代わりにくれてやらぁ。」
私「いらねぇよ。そんなあぶく銭。責任もって、自分で使いきってくれよな。」
また、唐突に話題が変わる。
父「智行、ちょっと手ぇ貸せ。」
私「今度はなんだよ。どうすんだよ。」
父は、ベッドの上で、半身起こしている身をベッドから足を出し始めている。もう体の自由も利かない筈だ。
父「トイレ、ちょっとしょんべん。」
私「もう自分で立てないんだから、小便位なら、そこに尿瓶あるんだから、ここでしちまえよ。持っててやるから。」
父「うるせぇ、男たる者、しょんべんは立ってやるもんだ。立ってやるから、トイレまで連れていけ。」
仕方がないので、父が立つところを、手助けする。しかし、立ったところまでは良かったが、一歩が出ない。流石に、歩くところまでは、手助けできない。酸素吸入の管を鼻に装着しているのだ。管が絡まってしまう。
私「ちょっと、待てよ。歩けないじゃないかよ。やっぱり、ベッドの上でしろよ。尿瓶用意するから。」
父「じゃぁ、このまま支えていろ。そして、尿瓶を、ここに持て。」
どうしても、立ってする気らしい。私に尿瓶を持たせ、自分のものの前に、尿瓶を持ってこさせる。なかなか出ない。だいぶ軽くなっているとはいえ、ほとんど自力で立てない父の体重が重くのしかかる。そのうえ尿瓶を支えているので、その支えている手が震えだす。額から汗が噴き出てきた。内心「まだかよ。早くしてくれよ。」
ようやく、出たらしい。力を抜いた父親をゆっくりベッドの上に戻す。もう少し時間がかかるようなら、手を放していたかもしれない。
本人は、何事もないような顔つきを装っているが、小便一つが大仕事になってきている様だ。だいぶ体力も落ちてきている。最後の日も近いか。
父のそばに頻繁にいると、「なんだ、俺が死ぬのを待ってるのか。」と言いかねない父なので、私も普段通りを装っている。父は自力ではできないことが日に日に増えてきているが、それでも可能な限り自分自身で日常を通そうとしている。
その一環が、ロトシックスであり、トイレである。衰えている父の顔ではあるが、顔に悲壮感は見られない。

その日は、私の出張中にきた。出張先は遠方であった為、前泊で日曜日に家を出た。3泊4日の日程の出張。その間に逝ってしまう可能性が非常に高く思えた。しかし、そういう日常を変えてしまうのは父の望む所ではないであろう。

数舜躊躇したが、開き直って、そのまま予定通り出張に出た。最悪その瞬間に立ち会えなくとも、会話ができるかどうかわからないし、母の時の例もある。
出張先のホテルに到着し、荷物を整理する。一段落した後に、明日からの仕事の備品購入をする為、日曜大工センターで、備品購入中の時だった。妹から、スマホにラインビデオが届く。商品棚が並ぶ通路で受けた。妹の切迫した声。妹が、父親の顔をスマホの画面に映し出す。
薄く目を開けているが、少し虚ろな父の顔が画面一杯に映しだされる。苦しそうな表情ではないようだ。
黙って、画面越しに私を眺めている父親の顔。もう話す力もないようだ。しかし、穏やかな顔。なんと声をかければいいのだろう。「お疲れ様」では逝っていいよ、と言っているようなものだし。かといって、「もう少し頑張れ」、というのも苦しさを長引かせるだけの様で、これも口に出せない。しかし、何か声をかけないとと、言葉を必死に探す。
今日は、日曜日。そうだ、大相撲の九州場所初日じゃないか!相撲観戦は父の娯楽の一つだ。
私「親父、今日は、九州場所初日だね。九州場所、千秋楽まで観てったら、どうだ。俺も出張から帰ってるし。」
私自身、(2週間ももつわけないだろ!無茶言っている)と思う。しかし、他の言葉が思いつかない。
黙って、私を見つめている父親。父親の口元が微かに緩んだ様に見えた。それが最後だった。そのまま表情が固まった。「親父?」そのまま、数秒間。
スマホをかざしている妹に向かって、「おい、親父の心臓止まってないか。確認してくれ。」店内でもあるにかかわらず、つい声が大きくなる。たまたま通路には、人影はなかったが、もし聞いていた人がいたら、きっと驚いただろう。
「わかった。一旦電話を切る。」涙声の妹の声が返ってくる。
一分も経たないうちに、LINE通話がかかってくる。
「お兄ちゃん、心臓止まってるよ。」後は、泣き声だけが続く。
私「わかった。直ぐ戻る。今すぐ、帰りの便が取れれば、今日中に戻れる。悪いけど、妻と協力してくれ。」
その日から、慌ただしい1週間が始まった。
癌が見つかってからの闘病生活は2か月半。父は自分の死に対して、真直ぐに向き合ってきた。最後の時も、声こそ発する事はなかった、発するだけの体力がなかった?が、顔には何の動揺なく、堂々としていた。わが父ながら見事な死に様だった。自分の時は、こんなに堂々としていられるだろうか。

河の流れは_05 ー感想文ノートー

父が亡くなって、家の事、墓の事諸々の手続き等で、落ち着いて、父が語り残した伯母の事をゆっくり考えることができるようになったのは、半年位過ぎてからの事だった。
伯母がモデルになったという絵については、今更、確認してもどうという事もないが、父も見に行ったのだ。私もいずれは観に行ってみようとは考えていた。それは特に慌てていくようなものでもなかったので、次いでの機会に行くつもりだった。
その次いでの機会は、夏に来た。時間に余裕が出てきた時であった。陽気もいいし、ぶらっと行ってみよう。
件の美術館は、JR上田駅から、私鉄に乗り換えて行く。その私鉄の最寄駅からは、バスもあるようだが、天気もいいし、元々歩く事が好きであったので、歩いて行った。駅周辺は、住宅街であったが、数百mも歩くと、田園風景が続く平坦な道が続く。一面稲穂が拡がっている。平坦であるので、行く先が見渡せる。稲穂の拡がりが終わる辺りから、小高い山の斜面が始まり、やや上り気味の道になるようだ。
夏である。歩き始めると直ぐに汗が噴き出す。しかし、標高があるので、時折吹いてくる微風が心地よい。噴き出す汗の量が増える。流石にフェースタオルで汗を拭う。ペットボトルの水がうまい。
山の斜面を登り始めると流石に少ししんどい。急に噴き出す汗の量が増える。それでも、途中から生い茂る木々が直射日光を遮ってくれるのは有り難い。

私鉄電車を降りてから、30分も歩いただろうか、小高い丘の頂上付近に着く。白い建物が、木々の中にある。白い壁が、木々の木漏れ日絶妙なコントラストを醸し出す。
正面が入り口だろうか。扉がある。美術館の入口っぽくないので、別方向に正面玄関があるのかと思い、右側から側面に廻る。無い。更に廻り込む。無い。更に・・・
結局建物を一周して元の位置に戻ってきた。扉を改めて眺める。なんだ。良く見ると「ここからお入りください。」と書いてある。入館料は、展示物を廻覧後、お支払いください。とある。
一寸、入り難い雰囲気を醸している扉だが、そっと、開けてみる。中は薄暗い。ほぼ開館開始時間直後だったせいもあり、館内に人影はみられない。どうやら、私が一番乗りの様だ。中に入り、そっと扉を閉める。
入って直ぐ扉を閉めるなり、びっくりした。
父に見せられた件の絵が、入り口付近に飾られていたからだ。真っ先に目に飛び込んできた作品が件の絵だった。
そして、その横に、日高安典さんの作品が続く。自身の肖像画もある。この絵のモデルが本当に伯母なのかなぁ、改めて思う。
その後は、一通り、館内を巡り、作品を観て廻る。私が観て廻る間に、ちらりほらりと人が入館してくる。人は増えても館内は静けさの中にある。
館内に展示されている絵には、80年も前のホントにあった出来事が刻まれているだったんだよなぁ、と思いを馳せる。日本では80年前の出来事かもしれないが、世界に目を転じれば、今も若い人達が、家族を守る為に、好まぬ紛争に巻き込まれている地域もある。
件の絵も確認できたし、一通り作品を観て廻ったので、出口に向かう。出口付近の受付窓口では、件の絵の絵ハガキやCDを机の積まれ、販売されていたので、入館料支払いと合わせ、幾つか購入し、家路についた。

絵の確認もできた。甥の私が絵を見に来たからと言って、伯母の供養にもならないだろうが、これで一段落だな。

家に着いて、あらためてCDに付属している詩集を眺める。そこに感想文ノートという、美術館に置かれている来館者が自由に書き込めるノートに書かれてあった一節が、活字にあった。そこには、「安典さん.日高安典さん 私来ました。」で始まる文章だ。
おかしい、父の話を信じるならば、伯母は、安典さんが、戦死して2年後には既にこの世にいない。こんな文章を残せるはずがない。モデルは、やはり誰か別人か?父の話が違うのか。
まぁ、真偽のほどは、今となっては、どうでもいいかとも思った。仮に今、その真偽を明らかにした所で、何がどうなるものでもない。
この絵が伯母かどうかも正直、今は重要ではない。甥とはいえ、当事者でない者が根掘り葉掘りほじくり返す類のものでもない気がしている。当事者の胸の内にそっとしまっておけばいい事だ。
これで、伯母の件はお終い、と思っていた。

しかし、その後、数日経ち、数週間が経ち、また伯母の事が気になり始めてきた。自分自身でも何故伯母の事が気になるのか、よくわからない。伯母の何が気になるんだ。自問自答しだした。
伯母は土石流に巻き込まれ、遺体も見つからないまま、死んだ。と父は言った。「ん?何も残っていない?墓は?いや一家で流されたのなら、供養する人もいない?当時、父たちは、種子島に居た。当時の交通事情を考えれば、おいそれと群馬迄来られたとも思えない。
じゃぁ、伯母の最後の事の詳細は誰も知らないのか。父は、あの調子で、「何も残っちゃぁいねえよ」、だと。それでいいのか。
せめて、伯母の最後の時の状況を確認しておくべきではないか。それが私の伯母の事が気になる理由かと、ハタと思い当たった。

河の流れは_06 ー伯母の足跡ー

河の流れは_06 – 伯母の足跡 –
或る意味安典さんは、いい。「戦死」。骨も戻ってこなかったようだ。誰もいないジャングルの中で、一人逝ってしまったのかもしれない。それはそれで、確かに大変な目にあったのだろうことが容易に想像できる。しかし経緯はどうあれ、絵が公開され、安典さんの名は、世に知らしめられた。別に世に認めてもらいたくて、絵を描いてはいなかったのかもしれないが、絵なり、彫刻なり、小説、音楽の類を創作する者にとって、作品が世に紹介される事自体、全く望んでいないという事はないだろう。
しかし、伯母の場合はどうだろう。絵のモデルの件はおいておいてもいいだろう。本人も公にしてほしくないかもしれないのだ。しかし、通常であれば、死ねば墓に納まる。そして、それなりに供養もされる。しかし伯母は、不慣れな土地に嫁いでいき、子を生したのもつかの間、その子、夫諸共、川に流された。しかも亡骸も見つからない。墓があるのかどうかもわからない。伯母の生きた痕跡がない。僅かに身内の記憶の中だけである。
それは、あまりにも伯母がかわいそうだ。せめて、伯母の足跡を記録に残すべきではないのか。
伯母が亡くなって、既に76年経っている。小さな事故なら、新聞に記事程度残っているかもしれないが、何分戦後の混乱期であり、記録も風化して残っていないかもしれないが、とりあえずやってみよう。
手掛かりは、山田進さんという人が、祖父宛てに書いた手紙。そして、そこに記してあった住所。後伯母が亡くなったとされる日。昭和22年9月15日という日付。
今はネットがある。詳細は、当時の新聞のアーカイブを当たるしかないだろうが、ネットであれば少なくとも手っ取り早く自宅からでも検索できる。先ずはそこから始めてみよう、より詳しい事は、図書館の新聞記事アーカイブ、そして、何よりも手紙に書いてあった住所に直接いかなければならないが、それは十分下調べをしてからでも遅くない。いや、下調べをしてからでないと無駄足になる恐れが高い。

先ずは、ネットで、「群馬県」、「山津波」、「昭和22年9月15日」をキーワードに検索することから始める。小さい事故なら、ヒットもしないかもしれないが。
すると、「カスリーン台風」、「関東圏で、犠牲者1,000人以上」、「群馬県で、600人以上が犠牲」等の見出しが多数ヒットする。
私「はっ?なんじゃこりゃ。昭和22年にこんな大災害が起こっていたのか?!」
これじゃぁ、かえって、伯母の名前なんて見つけられないかもしれない。しかし、これだけ大きな災害ならば、慰霊碑の類が現地に建立されているかもしれない。それならば、伯母の名前も載っている可能性もある。
兎に角、ネット等のオープンソースの情報を先ずは当たってみるか。そこから先は、群馬の図書館等をあたってみよう。ネットは便利だ。いまやほとんどの公立図書館、市役所はネットにホームページを持っている。探し易い。
そこで、あたりを付けた図書館に行って、新聞アーカイブを閲覧しよう。
群馬県立図書館ホームページに、調査相談という項目を見つけた。どうも調査したい内容をなるべく詳しく相談をすれば、現場資料を代行して調べて、メールで報告してくれるらしい。
これは便利だ。どうせ現地に不案内な私が不用意に現地に行っても得られるものは少ない。ダメもとで、経緯を説明した相談メールを送ることにした。
問合せをした数日後、伯母の名前までは確認できなかったが、件の住所付近で、4名が犠牲になったとの記録が残っているという。その資料は、『勢多郡誌』。他にも関連していそうな資料名や本の類を紹介してくれていた。膨大だ。凄い、私一人ではとても調べられるものではない。ネットの凄さを改めて実感した瞬間だった。
これらの資料の確認は、今後時間をかけて一つ一つ確認していくことにしよう。

河の流れは_07 ーカスリーン台風ー

今年の3月になって、現地へ行く準備ができた。先ず群馬県立図書館に行き、昭和22年の記事が保存されている複数社の新聞アーカイブを閲覧を行う。当時の履歴と言っても、既に76年前だ。そんな昔のアーカイブが保存されている新聞は流石に限られた。期待しているのは地元の新聞社のアーカイブ。次いで大手の新聞社数社の群馬県版だ。大手の新聞社は全国版が主流。群馬県版の記事に限れば量は多くない。
多くは、PDFファイルになっていて、調べ易いが、一部はマイクロフィルムになっている資料もある。こちらは一々投影機を通して、拡大表示しなければならないので手間だ。

図書館の職員の人に事情を説明し、閲覧をお願いしたら、殊の外丁寧に教えて頂いた。76年も前の事なので、わからなくて当たり前と思ってやってきたのに、お役に立てなくて、と頭を下げられた。こちらの方が恐縮してしまった。
残念ながら、名前は愚か件の場所での被害状況すら、記事を見つけることは出来なかった。当時群馬県内のあちこちで、被害があり、かなり大規模な被害の記事が目立った。だからだろう、先の郷土誌に載っていた4人程度の被害は小規模すぎたのだろう。それに地元の新聞社は、9月15、16日当たりの日付の紙面はあったが、その後数日間、休刊が続いたようだ。その次の日付が数日飛んでいた。
新聞社自身・社員自身も被災していたのかもしれない。そして、混乱期であろうことが、アーカイブを観ていて改めて思い知らされた。台風関連の記事は、9月25日を過ぎる辺りから、急速に減っていった。
その代わりに一家3人皆殺し事件とか、当時を反映してかGHQというワードの記事、復員兵の記事などが目立つようになってきた。殺人事件の記事は多かった。
当時の混乱が、紙面の記事からも察することができた。
数社の新聞を閲覧したが、結果伯母の名前は愚か、「北橘村」、「山田進」という名前さえ、見いだせなかった。
短時間で眺めただけなので、見逃した可能性もある。台風が関東圏を直撃した9月15日~凡そ1週間分の記事の複写をして持って帰ることにした。家に帰って見直せば或いは載っているかもしれない。
現地訪問は後日と思っていたが、図書館閲覧が午前中で終わったこともあり、現地は図書館のある最寄駅、前橋駅からもさほど離れていなかったので、午後は、現地に行ってみることにした。一度の訪問で済むと思っていないので、下見気分で行ってみよう。

今回調べて分かった事だが、被害は、赤城山を端に発する利根川を中心に災害が大きかったようだ。
土石流などは、河川全域で起こったわけではない。被害地は飛び飛びであり、その被害も小規模から大規模、様々。祖父宛ての手紙に書かれてあった住所付近での事故は、残念ながら新聞記事では見つけられなかった。
しかし、先の図書館からのメールにあるように、郷土史ではその災害の記録が残っていたようだ。

河の流れは_08 ー渋川駅ー

件の住所は今はない。自治体の合併等で、現在は、群馬県渋川市に併合されている。当時の住所に相当する地域の最寄り駅は、渋川駅である。
その日の午後、前橋駅から、渋川駅に移動する。前橋駅から渋川駅までは、時間にして20分程度。前橋に比べると、物静かな田園風景が目立つ。渋川駅に近づくにつれ、車内から利根川の流れが見えてくる。
車窓から眺める利根川の全景は、赤城山から延びる台地を大きく削って、雄大に流れるさまが見渡せる。海まではまだ遥か先なのに、既に大きな流れになっている。こんな川が氾濫したら、確かに凄い事になるなぁ、と想像できる。そんなことを思いながら、車窓からの眺めを楽しんでいたら、あっという間に渋川駅に到着する。
ホームに降り立つと、閑静な佇まい。意外と多くの人が乗り降りしている。ホーム自体は古いのだが、案内板などは、新しく感じられる。英語やハングル語でも表示されている。この駅は、海外の観光客も多いのかな?
駅前はきれいで、階層のあるビジネスホテルも建っている。駅舎もいかにも観光名所風の小綺麗だ。しかし、駅前から見渡す限りでは、何か特徴的な観光スポットがあるようには見えない。
人はそんなに多くはないが、大きなスーツケースを持った若い男女、観光巡り風の家族連れなどがちらほらと見受けられる。
人がいるわけではないのに、タクシー乗り場には、タクシーが数台待機している。
特に観光する様なランドマークがある様子もないのに、なんでかなぁ、と不思議に思いつつ、駅前のタクシー乗り場、バス停などを巡る。バス乗り場の行先表示を見て、合点がいく。行先に「草津温泉」、「伊香保温泉」とある。
そうか、ここ渋川駅は、伊香保温泉等の観光スポットへ行く観光の拠点だったのだ。案内板を見てみると、伊香保温泉迄、約10km。車で行く分には十分近いが、歩いていける距離ではない。電車を利用してやってくる観光客は、渋川駅から、タクシーやバスを利用しているのだな。

余計な詮索に時間をかけてしまった。さて、私の目的は、観光ではない。伯母が暮らしていたであろう現在の住所を、予め検索しておいたグーグルマップを表示する。
手紙に記してあった住所は、「群馬県勢多郡北橘村字八崎船戸」となっている。現在の住所で最も近い住所は、「群馬県渋川市北橘町八崎」だろうか。
ここをマップで表示すると、結構広い範囲が表示される。そりゃそうだ。番地を入力していないのだから。昔は、番地のない住所も結構あったのだから、仕方ない。
兎に角、ここまで行って、恐らく利根川沿い付近だろうと当りを付けて、付近を歩いてみよう。渋川駅前から、距離にして、約3.5km。十分歩いていける。
目的地は、渋川駅から見ると利根川の対岸にあるので、途中、大正橋という利根川に掛かっている橋を渡らなければならない。
大正橋を渡りながら、前方を見ると、ちょっとした集落がありそうだ。橋を渡りきると、右手に車2台がギリギリすれ違えるかと思える様な狭い道が川沿いに続いている。
ここら辺かなぁ、先ずは第一候補とするとしておいて、決めつけないで、少し川から離れてしまうが、真直ぐ歩いてみる。右手に寺かな、と思える。建物が見えてきた。寺ならこの辺りの歴史に詳しそうだ。お寺の住職さんとかに会えるといいな、と思いながら近づいていくと、入り口には、「天理教会」とある。ちょっと当てが外れる。更に先を行く。
今度は「落合簗」と言う川魚を供する店なのだろうか、店?駐車場?の様な建物が見えてきた。
とりあえず、大正橋とある交差点まで行ってみることにした。この交差点までの間に、右手に入れる道は、最初の川沿いの道を含め、2本だけだった。
やはりあの川沿いの道かな、交差点の所で、Uターンし、元来た道を、先ほどの小道まで戻ることにした。
川沿いの道に入り、石碑の様なものがないか、ゆっくりと川沿いの道を歩く。本当はもっとじっくりと探してみたいところだが、普通の民家も続いているので、あまりうろうろしていると不審者と間違われる恐れがある。
なるべく散策している人間に見える様にして、ゆっくりとだが、道を通り抜ける様な感じで歩く。すると、200mも歩いたところで、また「落合簗」という店が見えてきた。どうやら道は、この店の所で行き止まりの様だ。
どうもこちらの方が、川魚料理のお店の様だ。さっきの道沿いの建屋は、単なる駐車場だったのだろう。
ここまでに目ぼしい碑などは見当たらなかった。同じ道を通って戻っても仕方ないので、川から離れるが、一本奥の道、恐らく先ほど確認した2本あるもう一本の道に通じるであろう道で戻ることにする。こちらは完全に民家しか建っていない。なるべく怪しまれない様に、一軒一軒の表札を確認しながら歩く。山田さん家なんてないかなぁ、と。
山田さん家をみつけられないまま、先ほどの大通りに出てしまう。
地元の人に訊いてみたいけど、絶対怪しまれるよな。それに76年も前の事だ。地元の人でも記憶している人なんてそうそういないよな。しかし、折角ここまできたんだ。もう少し歩いてみよう。
元々一度でわかるとは思っていなかったし、再度、再々度でも来るつもりだけど、少しでも多くの情報を集めてみるつもりで、なるべく川から離れないような道を選んで歩き始める。

ウオーキングは趣味なので、歩く事自体は苦ではない。しかし、当てどもなく歩いていても仕方がないようなぁ、と考えながらぼんやりと歩いていた。
そういえば、当初ネットで調べ始めた時に、この辺りに歴史資料館がいくつかあったよな、確か「北橘歴史資料館」という資料館がここからそんなに遠くないところにあったはずだ。
立ち止まって今一度、グーグルマップで場所を確認する。2.2km。この道沿い真直ぐ行ったところらしい。歴史資料館とあるいう位だから、もしかしたら台風被害の資料があるかもしれない。
当てどもなく歩くよりはいい。ダメもとで行ってみよう。今からなら、まだ開館している時間には間に合う。

河の流れは_09 ー北橘歴史資料館ー

そこは、利根川から少し離れた小高い段丘の上にあった。土曜日の午後。晴れてはいるが、少し風が強い。静かな佇まい、人の気配はない。資料館の入り口付近には、昔の土器だとか、縄文時代か?と思わせるような住居が再現されている。
入り口付近を改めて見回してみて、少し当てが外れたかもしれないと思い始めた。歴史資料館とあったのはそういう事かと。恐らくここにある展示品の資料は、台風被害に関する最近の資料ではなく、遥か昔数千年以上前の昔の歴史資料であろうことが見て取れた。縄文時代や赤城山がまだ活発に噴火活動をしていた頃の歴史を残す資料館。
しかし折角来たのだから、中を覗いてみることにする。
館内の受付で、入館料200円を支払う。どうも今の時間の来館者は、私一人だけの様だ。受付付近から見える展示物をざっと見たところでは、やはり先ほど入り口付近で見た展示物と同様の物の様だ。
私一人だけのせいであろう、受付の方が、中から出てきて、資料の見方・順路などを丁寧に説明してくれる。
一通り、説明を聞き終えたところで、ダメもとで、この資料館を訪ねてきた理由を説明し、件の手紙のコピーを見せた。
この昔の住所は現在はどのあたりなのだろうか、と尋ねてみた。
すると、この方は、この資料館の館長さんで、以前は地元の学校の先生をされていたとのこと。殊の外、地元の事、郷土史にも詳しいらしい。この資料館には、台風被害に関する資料はなかったが、この辺りで起きた台風災害の事はよくご存じだった。地元の地図をわざわざコピーしてくださり、件の手紙の住所は恐らくこの辺りではないかと示してくれる。
郷土史に詳しい館長さんは、70年以上前にこの辺りで起きた大災害もご存じで、当時利根川河川沿いで大きな崩落があったのはここら辺だろう、と教えてくれた。当時北橘村で一番大きな被害のあった場所だそうだ。
その場所とは、正に先ほど渋川駅から歩いて渡ってきた大正橋という利根川にかかった橋の袂付近ではないか。
そうか、やはりあそこだったのか。この収穫は大きい。この後、また渋川駅まで戻るのだから、再度あの周辺を歩いてみることにする。もしかしたら見落としたかもしれない、慰霊碑の類を見つけられるかもしれない。

河の流れは_10 ー北支派遣軍ー

この資料館では、更に思わぬ収穫があった。
手紙のコピーを眺めていた館長さんが、ふいに「おや、この山田さんという方は、北支派遣軍に所属されていたのですね。」
と思わぬ話をされ始めた。
私「え、そうなんですか?私には、この手紙は、山田さんが、祖父に宛てた自分の経歴書とは、思っていましたが、中身の細かい部分は、古くて全く分かりませんでした。」
館長さん「うん、私の父と同じ部隊に所属していたんですね。山田さんは、父より一歳年年上の人だったみたいですね。」
私「そんなことまでわかるんですか?」
館長さん「えぇ、ほら此処に、「昭和13年1月、北支派遣軍通信隊兵役入隊」とあるでしょう。これで、この人の年齢がわかる。そして、ここに「昭和17年12月、西部第74部隊に於いて満期除隊」とあるでしょう。そして、更に「昭和19年1月、東部第16部隊入隊」と戦時中に再度入隊している。この人は、入隊期間満了で、一度除隊して、内地に戻ってきているのですね。
私の父の場合も、期間満了で次の年に除隊しているのですが、戦局が悪化してきていたのでしょうね。昭和18年除隊組は、除隊して直ぐに召集がかかって、そのまま再入隊。内地に戻ってこられず、実質、継続入隊になったのですよ。この山田さんは、運が良かったですね。除隊後、内地に戻ってこられた。しかも19年に再度入隊しているけど、今度は東部部隊だから、外地に戻らず、内地勤務だったのですね。そして、そのまま終戦を迎えたみたいですね。」
私「この履歴書だけで、そこまでわかるのですか。凄いですね。私には、全くわかりませんでした。特に部隊名だけで、何処に配備されている部隊か、なんてさっぱりわかりませんでした。」
館長さん「この北支派遣軍というのは、北京に本部を置いて、主に満州方面に配備されていた部隊ですよ。だから、山田さんも北京か或いは、満州方面に配属されていたのではないですか。それと「山田」という姓は群馬県には多い苗字なのですよ。」
私「そうなのですか。ありがとうございます。」
そうか、山田さんはやはり昔からこの辺りの地元に住んでいた人だったのか。じゃぁ、この辺りの当時召集された人たちは、大体同じ部隊「北支派遣軍」に編入されたのだろうか。そして、満州に出兵していったのだな。
ん?「満州」?あれ?確か、日高安典さんは、フィリピンで戦死しているけど、最初の赴任地は、満州といっていなかったか?
もしかしたら、安典さんと山田進さんは、満州の戦地で、同僚だった?安典さんと山田さんは、満州で接点があった?
父は、伯母は祖父の命令で、群馬県に住む山田さんの所に嫁いでいった、言っていたが、よく考えてみれば、祖父と山田さんの関係がよくわからない。父の話を聴いた時は、祖父と何らかの関係があったのかなと、深く考えずにいたが、安典さんと山田さんが戦場で知り合いになった可能性がある今、山田さんが、安典さんから伯母の事を伝えられた、と考える方が自然ではないか?

河の流れは_11 ー日高安典さんと山田進さんー

戦後、山田さんと祖父、或いは伯母との間でどんなやり取りがあったのかは孫の私には分かりようはずもないが、もしかしたら、その縁で、伯母自身が、山田さんの所に嫁ぐ決心をしたのではないのか?
昭和20年といったら、父はまだ、13、14歳。子供だった父にその当時のやり取りなど、知る由もないだろう。であれば、祖父が勝手に伯母の縁談を決めたと思い込んでも不思議ではない。
伯母が、何故、恐らく全く土地勘のない群馬に嫁いでいったかは、今となっては当事者でない者にはわからない。しかし、安典さんつながりであれば、何となくわかるような気がする。
なんと形容したらいいだろうか。点と点が線で繋がった様な、ジグソーパズルのミッシングピースを思わぬ場所で見つけた様な感じだ。

館長さんから、帰る際、先ほどの場所を通るのであれば、ここから入っていくといいですよ、ここから入ると、途中神社とかもありますから、何か碑の様なものも見つけられるかもしれませんよ。と地図を拡げて説明してくれた。
残念ながら、帰り道館長さんに教えられた通りの道順で渋川駅に向かったが、先ほど同様なにも見つけることはできなかった。

帰りの車中で、今日の判明した情報を頭の中で整理する。すると、整理の先には、やはり感想文ノートの文章が出てきてしまう。やはり感想文ノートの件もわかる範囲で確認しておいた方が良いように思えてしまう。真相を暴く、という気持ちは更々ない。しかし、伯母の事を記録するのであれば、やはりなるべく正確に知っておきたい。そして羽生家の記録として残しておく。
決めた!その次の週末、再度、信州上田の美術館に行く。
今度は、感想文ノートというものを閲覧させてもらいたいという趣旨を説明するために、今までに集めた資料を持参する。

河の流れは_12 ー感想文ノートー

この日も朝一番で訪問するつもりで、夜明け前に家を出た。前回は真夏。今回は3月。春とはいえ、信州の山々は、まだ雪景色かもしれない。関東はまだ少し寒さが残ってはいるが、厚手の上着は必ずしも必要ではない。しかし、信州は標高が高い。念のため冬支度で家を出る。前回夏に行った時は、節約して青春18きっぷを利用した。
実はJRの在来線だけで埼玉から上田に行くには少々手間なのだ。北陸新幹線が開通したため、横川から軽井沢のJRの在来線が廃止になった。
その為、埼玉から全てローカル線で行くためには、先ず高崎まで行く。そして横川駅行きの信越線に乗り換えて、終点の横川駅まで行く。
横川駅から、JRバスに乗り、碓氷峠を越える。終点は軽井沢駅。軽井沢駅から上田駅まではJR線はない。その代わりに「しなの鉄道」が軽井沢を起点に上田駅を経由して篠ノ井駅迄の区間を走っている。従って、軽井沢からは、しなの鉄道に乗り換え、上田駅に辿り着く。
しなの鉄道とJRバスは、18きっぷでは乗れないので、別途料金が必要になる。
上田駅迄は、JR新幹線か、しなの鉄道を利用する事になる。そして美術館に向かう時に利用する上田電鉄別所線に乗り換える。青春18きっぷだけでは行けないのだ。
もし、どうしても青春18きっぷを最大限利用して、上田駅に行きたければ、中央線を利用して、松本まで出てから、しなの鉄道に乗り換えるしかない。
それはとてつもなく、遠回りになる。単に鉄道の旅を楽しむだけならば、日帰りで上田まで行って戻ってこれるが、上田で美術館に立ち寄り、所用を片付けるのであれば、日帰りは難しくなる。
前回は、軽井沢ルートで行ったが、今回は新幹線を併用した。高崎まで、18きっぷで行き、高崎から上田までは新幹線を利用する。
高崎駅から上田駅までは、新幹線で30分程度の旅程である。途中軽井沢駅に停車する。軽井沢駅前にはスキー場が拡がっているのだが、スキー場は営業しており雪で真っ白だった。遠くに臨む山の上の方は白い。
8時前には、上田駅に降り立った。
空気は流石に冷気を含んでおり、ひんやり感じたが、晴れていたこともあり、思っていたほど寒くはなかった。雪もない。
最寄駅からの道順は覚えている。駅間の間隔なども大体わかっている。新幹線を利用したので、十分に時間的余裕がある。
今回は最寄り駅の一つ手前の駅から歩いてみることにする。
降りた駅が違うのだ。当然、道順は違うが、前回で土地勘ができたので、自信はある。今回は美術館に向かってほぼ最短の道のりで行けたと思う。
2度目だ。見覚えのある扉を開け中に入る。レイアウトは変わっていない。父が伯母だと主張する件の絵がそこにある。
美術館内は前回じっくり見学させてもらっているので、絵には目もくれず、真っ先に受付に向かう。
前回は、女性であったが、今回は男性が受付にいる。
男性「あ、料金は後でいいんです。先にゆっくり作品を見学なさってください。その後にお支払いください。」
私「いや、そうではないんです。作品は前回十分見ています。今日は・・・」
受付の男性に、今日私がこの美術館を訪ねてきた理由を説明し、感想文ノートの閲覧をお願いした。
男性「あ、それなら・・」とそこまで言った所で、受付にある固定電話が鳴る。
私「あ、お先にどうぞ。」と受話器を取るよう、男性に促す。
男性は、「では、」と言って、電話に出る。私は電話応対はすぐに終わるものだと高を括っていたが、去年TVで放映されてから、この美術館は有名になっていた。この後、立て続けに電話が続き、男性は電話対応に追われることになる。
その間、私は受付の前をうろついていた。感想文ノートなるものがないか。そして、聴くともなしに電話対応の会話を聴いていた。
或る電話は、どうも秋田に住んでいる方からの問い合わせの様だった。上田は新幹線が停まるから、秋田から新幹線で一本で行けるか、と訊いている様だった。秋田からだと、秋田新幹線で、大宮駅迄行き、そこで北陸新幹線に乗り換えなければならない筈だ。
そして、上田からタクシーを使うと料金はいくらぐらいだとか。それだけ聞いているだけでも男性の対応の大変さ、が窺われる。私も辛抱強く電話対応が一段落するのを待っていた。
電話が3本位立て続いただろうか。やっと一段落ついたようだ。私もしびれを切らし始めていたので、又電話が鳴ってしまわないうちに、要件の続きを手早く説明した。
男性「用件はわかりました。しかし、その感想文ノート、実はここにはないんですよ。」
私「え?ないのですか。」
男性「いや、あったのですが、今はここにはないのです。詳細は館長でないとわからないので、館長に確認してみます。一寸待っていてください。電話してみますので、その間、絵など鑑賞されていてください。」
私「わかりました。」
仕方がないので、以前一度見た作品群だが、もう一度展示コーナーに行き、展示されている絵を眺める。もう一度日高安典さんの絵の所に行き、改めて何かヒントになるようなものでも見つけられないか、眺める。安典さんも伯母も私よりはるかに年上だが、今の私の年齢よりもはるかに若い時に逝ってしまった。そこに描かれている安典さん、伯母?の絵は、若い時のまま今にある。
数分後、受付に戻る。
私「わかりましたでしょうか。」
男性「詳細は、やはり館長でないとわからないです。明日なら、館長がこちらに来ますので、館長に聞いてみてください。」
私「えっ?明日ですか?今日は土曜日だから、明日の再訪出来なくはないですが、今日、埼玉から来てるんです。2日続けて、埼玉と長野を2往復するのは、ちょっとぉ。」
男性「館長はあれ以来忙しくて、講演等の依頼が多くて、来週は、沖縄なんですよ。明日を逃すと次にここに来るのは、再来週なんですよね。」
館長は、去年のTVで主人公のモデルになった人だ。私みたいな者が会うなど、少し恐れ多い。
私「それに、館長さんにお会いするなんて、なんだか恐れ多いんですが。」
別に慌てているわけでもないので、改めて出直すかとも考える。その一方で、どうせ館長と会わなければ決着がつかないのなら、折角の機会に早くけりをつけた方がよいかと思い直す。ええぃ!、明日再度来ることに決めた。
男性「どうします?」
私「わかりました。明日また来ます。明日何時にここに来れば宜しいですか?」
男性「明日の14時に来てください。ここではなく、この下にある第二展示館に行ってください。そこの受付に行けば、わかるようにしておきます。」
私「わかりました。色々お手数おかけしました。ありがとうございます。」
こんなことなら、美術館訪問は、今日ではなく、明日来ればよかった。とタイミングの悪さを後悔した。
まぁ、それでも館長と会えるアポが取れたと思えば、考えようによってはラッキーだったかもしれない。定年して薄給身分の私にとっては、ちょっと痛い出費ではある。

河の流れは_13 ー美術館長ー

次の日、前日と同じ時間に上田駅前に立つ。今日のアポは、14時なので、お昼まで上田駅周辺をぶらつくつもりで来た。目的の場所は2か所。
一つは、「池波正太郎真田太平記館」。池波正太郎の作品は、真田太平記を始め、忍者ものとか、一時期よく読んだ。
件の美術館に行くために使う上田電鉄別所線の終点にある別所温泉は、真田太平記にも出てくる温泉だ。
真田太平記は、真田三代(幸隆、昌幸、信之、幸村)にわたる物語。上田周辺の風情が多く描写されている。
二つ目は、上田城跡地公園。ここは二度目だが、もう一度見ておきたい。徳川家康・秀忠2代にわたる徳川軍を2度とも退けた名城跡地。徳川家康が、明らかな負け戦を経験したのは、生涯において2度。
一度目は、武田信玄との闘い三方ヶ原の戦い。そして、二度目がここ信州上田城での合戦。しかもここでは、2代将軍秀忠も負けている。
真田太平館は、マニアしか来ないのだろう、人も少なくゆっくりと見学ができた。しかし、公園の方は、地元の人、観光客らしき人、更には、明らかに海外から来たと見える観光客で結構人が多かった。
機能よりは、気温が高いようだ。一通り公園内を巡って、昼食は、駅前でと思い、昼までには少し余裕のある時間に駅前に戻ってくる。
本当は、信州そばが食べたかったのだが、駅前に蕎麦屋が見当たらない。仕方がない。地元ラーメンだというラーメン屋で醤油とんこつラーメンを注文する。
面会時間は、14時なので、遅れないように早めに昼食をとり、美術館に向かう。

14時、美術館に着いた。ほぼ時間通り。さぁ、時の館長さんと面会だ。
昨日言われた第二展示館に行き、受付に自分の名前を伝えた。昨日のやり取りの件を説明しようと思ったら、受付の女性は、心得ていた様子で、名前を伝えただけで、
女性「館長を呼んできますから、此処でお待ちください。」と言い残し、奥の方へと消えて行った。

すると、出て来たぁ!、時の人!
昭和16年生まれと、プロフィールにあったから、父より10歳若い。それでも今年83歳?
TVでみた風貌そのままだ。胸がはだける様なシャツの着方。いかにも芸術家を思わせる様なシャツの着方だ。
館長「あぁ、どうも。話は聞いています。先ずはこちらへ。」
案内された部屋は、何かの作業部屋の様だ。だだっ広い部屋の真ん中には、大きな作業台が置かれている。
館長「どうぞ、こちらへ。」と作業台の周りにいくつか配置してあるパイプ椅子を薦められる。
私「はい、有難うございます。私、羽生と申します。昨日、男性の方に概要はお話ししましたが、改めまして、今回伺いました概要を説明させてください。」
館長「大体は伺っていますよ。その感想文ノートの件。大変申し訳ないんだが、その感想文ノートもうないんだよ。」
私「えっ?」
館長「27年前の感想文ノートですが、今までに何度もTV局とかマスコミに貸し出ししているうちに、TV局の方で失くしてしまったんだよ。」
一瞬、耳を疑った。マスコミの人たちが意外とだらしない、というかいい加減なところがありそうだという事は経験的にも理解できる。しかし、それにしても貴重な資料であろう、簡単に紛失するものか?

話は少し脱線する。以前、出張で御殿場駅前のホテルに泊まったことがある。このホテルは例年ある時期が来るとマスコミ関連の人でホテルが大変混み合う。
御殿場駅周辺には、一つは富士スピードウェイ。もう一つは、富士カントリークラブ等、ゴルフプロのトーナメントコースになるゴルフ場などがあり、イベントシーズンになると、マスコミ関係者が御殿場に集まってくる。
そんな時期にこのホテルに泊まり、そのホテルの大浴場に入った時の事である。
先客が3名入っていた。酒が入っているのだろう、私が入っていてもお構いなく、大声で話している。内容は丸聞こえである。
「お宅、何処のTV局?」「TB?」有名なTV局だ。応えた本人は、どや顔。どうも複数のマスコミの人たちの様だ。
もしかしたら、浴場に入って来た新参の私にわざと聞かせているのかもしれない。
私(簡単に自分の身分明かして、個人情報的に大丈夫なのかな?)と思う。そして、その余計な心配がこの後直ぐ現実のものとなる。
風呂の入り方もひどい。浴槽に、タオル入れるなよ、内心思う。
その後も大声で話し続ける3人組。私はさっさと体を洗って、湯船に浸かる。3人組が煩わしいが、湯船にはゆっくり浸かっていたいので、無視して浸かっていた。
そうこうしているうちに3人組は出て行った。静かになった浴場で、十分体を温めた私は、軽く体の汗を流して、脱衣場へ。すると私の浴衣と下着がない。
一組だけ、脱ぎ散らかした浴衣と下着がある。しかし、それは私の下着ではない。明らかに違う。3人組が出て行った後、私が脱衣場に戻る迄の間、人の出入りはなかった。という事はあの3人組のうちの誰かが私の下着を間違えて着て行ったとしか思えない。
眼の前には、誰の物とも知れない下着と脱ぎ散らかしのホテルのアメニティの浴衣だけ。こんなもん、着られねぇぞ。どうする智行?
周りを見回すと、壁に内線電話が掛かっているのを見つける。そうだ、フロントに電話で事情を説明して、新しい浴衣を持ってきてもらおう。部屋に行けば着替えの下着があるから、部屋までの少しの時間浴衣だけはおって行けばいい。
内線でフロントに事情を説明して、浴衣を持って来て欲しい旨を伝えた。
浴衣を持ってきてくれたフロントの人は、私に詫びを言ってくれたが、ホテル側が悪いわけではない。
私「被害は下着だけだから私は構いませんが、私の下着着ていった人気持ち悪くないのかな?私以外では、私より先に出て行った3人の方なので、その方たちの内の誰か一人だと思います。一人の方は、俺は、TB?って言っていましたよ。」と伝えておいた。
マスコミ関係の人たちをステレオタイプで、見る事は良くないが、いい加減さはどうしても連想してしまう。

閑話休題:
こんなこともあったので、マスコミの人が、大事なものを紛失するのもさもありなん、とも思ったが、そもそも感想文ノート等、最初からなかった。或いは「安典さん、・・・」で始まる文章などなく、創作かもしれない、とも疑った。
まぁ、嘘だという根拠もないし、私も此処に来ている根拠も確かなものではないのだ。刑事宜しく犯罪捜査の様に、真実を追求するつもりではないのだ。ノートが見られないのなら、それはそれで仕方ない。
私「そうですか。わかりました。」
館長「申し訳ないですね。」
私「いえ、仕方ないです。」
そこまでは普通の会話だった。館長は続いて私に問う。今度は口調に気持ち棘が感じられる。

館長「それで、あなたは何を知りたいんだ。知ってどうする気だ。もう私はいい加減関わりたくないんだ。この美術館を始めて以来、元手を殆どかけずに、儲けようといているのか、とか偽善ぶっているとか、言われ続けてきた。こんな事風に言われるんだったら、美術館始めなきゃ、よかったと思っているんだ。だから、あの絵も含めてこの美術館に触れずにいたいんだ。できる事なら辞めたいくらいなんだ。しかし職員も6名雇っている。そうもいかない。」
一気にまくしたてられた。
唐突だったので、少し面食らった。初対面の人間にいきなり愚痴めいた会話をする館長。
逆に考えれば、初対面の私を信頼してくれているのか?
館長の言っている事は、よく理解できる。以前は私も会社員だった。いや、定年になってはいるが、アルバイトみたいなものとはいえ、一応今も仕事はしている会社員か。
事業や組織というのは、一度始めてしまうと、勝手に一人の一存で辞めることができなくなる。組織形成にあたって巻き込んでしまった人たちのその後もケアしなければならない。落としどころを考えなくてはいけないにしても、最大公約数的に無難に不時着しなければならない場合もある。その不時着には必ずしも綺麗な不時着などはない。
事業を始める。組織を作る。人を巻き込む作業には、必ずしも綺麗ごとだけでは済まされない事がまとわりつく。もし、汚れずに完結出来たとしたら、それはそれで僥倖といえる。
もっと言えば、人を巻き込む、人と人とのつながりも同じこと。何事も欲無しでは始まらない。欲を邪としてとらえられる場合が多いが、釈迦は決して「欲」を悪くは言ってはいない。過剰な「欲」は戒めなければいけない、と説いていた筈だ。
館長「最初は、ただ単に、理想に向かっていた画学生達の無念の思いを後年に残せればいい、と思って始めた事業だった。しかし、こんな予期せぬ理由で誹謗・中傷の類の洗礼を受けるとは思っていなかったよ。」
私への問いから始まった筈だが、いつの間にか自問に変わっていた。私は黙って聞いていた。

館長からの問いは、実は私自身、伯母の事について、行動を始めた当初から、自問していた事でもあった。「絵のモデルになった伯母」への単なる自己満足の好奇心なのではないのか?
少なくとも、それはゼロではない。何故なら、父の言葉、伯母の事をそっとしておくつもりならば、わざわざ父の言葉を確認する為、信州上田の美術館まで絵を確認しに行く必要などない。絵がそこにあるという事だけ知っておけばよい。初動の動機は「欲」で、あったかもしれないが、本当にただ確認だけのつもりだった。
それが次第に疑問が疑問を呼んで今に至っている。
館長の私への問いには、TVで有名になった絵について、その尻馬に載って、何かしら売名行為を狙ってやって来たのではないか、という含みを十分に感じた。
そう疑われても仕方ないと思っているし、当初はそう疑われるだろうと思っていたからこそ、本当は館長とは会いたくなかった。会わずに、あの感想文ノートの件だけ、調べられればそれで良かった。

館長は繰り返し私に問う。
館長「それで、あなたは何を知りたいんだ。知ってどうする気だ。あの絵を預った時の事は、よく覚えている。絵を預かる過程で、胡散臭そうに見てくる人が多かった中で、安典さんの弟さんは、親切で協力的だった。だが、あの絵のモデルについては、弟さんもご存じない、と言っていた。雇った人ではないのか、と言っていた。今思えば、あまり触れられて欲しくなかったのかもしれない。」

私「あの絵のモデルの真偽は今更どうでもいいんです。仮にもしモデルが伯母であったとしても、当時の事情・倫理観念等を考えると、公にしたくない、という事情もあったでしょう。そうならば当事者が喜ぶはずもない。ただ、伯母は土石流に流されて、遺体も出てこない。墓もあるのかどうかもわからない。この写真の裏に戒名があるだけ。それでいいのか?せめて伯母の生きてきた足跡を可能な限り調べ、それを記録として残そうと思い、調べています。そして、その記録は、我が家の記録として残そうと思っています。日高安典さんはまだいい。自分の作品を、世に残している。しかし、伯母はその存在すら、ごく少数の身内の記憶の中にしか残っていない。伯母の記録を我が家の後の世代に伝えてもいいんじゃないかと。勿論伯母がそんなことを望むか、わかりませんが。」
館長「ふむ、面白い。記録いいんじゃないか。記録はあなたが残すのかね?」
私「はい」
館長は、「ならば、やってみれぼいい。」
その後、館長は、ただ一枚残っている伯母の写真を見入っていた。「綺麗な人ですね。」
館長「それで、あなたのお父さんは、此処には来られたのかな?」
私「はい、恐らく、十数年前に、此方へ一人で来て絵を確認したようです。そんな話、当時全然しませんでした。あっ!待てよ。10年以上前だったか、日高と言う親戚がいて、長野まで会いに行ってきた、というようなことを言っていた事を思い出しました。日高家は、東大卒とか美大卒とか頭のいい連中が揃った親戚なんだ、みたいな事を言っていた事がありました。その時、私は単に「ふ~ん、長野に日高家という頭のいい親戚が居るんだ」位の認識でしたが、今思うと、その時に此処に来ていたのかもしれませんね。」
館長「それは良かった。それで、お父さんはどうして此処に絵があることを知ったんでしょうね。」
私「今となっては、わかりません。誰かが、父に教えたとしか思えません。種子島の親戚の誰かなのでしょうか。父は、たまに種子島の親戚や鹿児島の伯母とは連絡は取ってはいたようです。しかし父の代で種子島の親戚といったら、父の従弟達です。私の代では又従兄弟相当になって、もう親戚とは言えないくらい遠い関係です。ですから、今となっては父が誰と連絡をとり合っていたかはわかりません。地理的に、埼玉と種子島では遠いですし。或いはむしろ鹿児島の伯母方が、種子島の親戚と頻繁に連絡とっているかもしれません。そう考えると、もしかしたら、父は鹿児島の伯母、父にとってのもう一人の姉経由で絵の事を知ったのかもしれません。」
館長「そのお姉さんは、此処に来た事あるのかな。」
私「えぇ、来たことあるようです。もしかしたら、父よりも前に来ているのかもしれません。」
私「もしかしたら、例の感想文ノートの文は、その伯母、現在は鹿児島に住んでいる伯母が記したのかもしれません。実は、感想文ノートを閲覧したい、と思ったのは、その筆跡を確認したかったのです。」
館長「鹿児島に住んでいるもう一人のお姉さん?もしかしたら、名前は、○○さんという方かな。」
私「ええ、伯母の名字です。」
館長「ならば、以前私はその人に会っていますね。鹿児島に行って、その方を取材させてもらったことがありますよ。絵のモデルについて。」
私「えっ?鹿児島の伯母と会っている?そうだったんですか。」
館長「その方、ご婦人の事もよく覚えていますよ。毅然とした女性だったので、よく覚えています。」
私「えぇ、鹿児島の伯母は、すごく厳格ですよ。私は、成人してからは、殆ど会っていませんが、多分出張のついでかと思うのですが、東京に出てきた時、子供の頃、何度か会っていますが、子供心に学校の先生の様に思えました。」
館長「モデルの事について、直接尋ねましたが、きっぱりと、「私ではない」とおっしゃっていた。そして、取材そのものも迷惑そうでした。名前も出してくれるな、みたいなことも言われましたよ。」
私「そうでしょうね。その場の雰囲気がよく想像できます。眼に浮かぶようです。」
絵の事についての話題は、此処までだった。絵についての真相も、此処迄だった。
その後、30分くらい、館長さんと色々な話題で話ができた。この美術館の今後、構想。私は定年後、物書きを目指している事等々。
私「今更ですが、小説を書こうと思っています。」
館長「いいねぇ。是非目指しなさい。出来上がったら見せて欲しいな。」
私「そんな、素人ですから、プロの方に観て頂くなんて、恐れ多いです。」
館長「物書きに、素人もプロもないよ。場合によっては、うちで出している機関誌に載せてあげるよ。」
私「それは有り難い事ですが、大変恐縮です。」
帰り際、館長さんの最新作の本をお土産に頂いた。私の名前と館長さんのサイン入りだ。

河の流れは_14 ー再び渋川ー

後日、渋川を再訪した。
残念ながら、ジグソーパズルは、未完成のままだ。ミッシングピースはまだ見つかっていない。しかし、ピースが全部揃わなくとも、パズルに描かれた絵を鑑賞することは可能だ。未完成の絵の欠けた部分を想像し、頭の中でイメージするのも一興。
石碑の類や慰霊碑等は未だ見つけられていない。群馬県立図書館からの情報以上のものは未だにない。
2度の上田の美術館訪問後、渋川市の図書館に足を運んでみた。赤城の郷土史資料館にも当たってみた。

76年も前の事だ、直ぐに見つけられるとも思っていないので、また来ればいい。
再度、土砂崩れのあったとされる現場付近の今は住宅が立ち並ぶ家々の間を歩いてみた。はやり慰霊碑の類は見つけられない。今回はもう少し奥の方まで、歩いてみた。すると、家の前でタバコを蒸している初老の女性が佇んでいる。私をじっと睨んでいる。明らかに私を怪しんでいる眼だ。うろうろしていたのだからそうなるだろうな。既にだいぶ前から家の中から、見られていたのかもしれない。
ええい、どうせ怪しまれているのなら、こっちから訊いてしまおう。意を決して、明らかに胡散臭そうな表情をしている女性に向かって歩いていく。
私「あのう、ここら辺で山田さんという方の家はございませんでしょうか。」
女性「なんじゃぁ、そんな家はない!」
私「すみません、昔の話で恐縮なのですが、昭和22年にこの辺りを襲ったカスリーン台風の被害について、調べているのですが、当時ここら辺が、大規模な土砂崩れで、川に流されたと聞いてきたものですから、ご存じありませんでしょうか。」
女性「台風、そんなもの知らん。それに此処は川沿いじゃねぇ。川からだいぶ離れている。」
こりゃダメだ。端から怪しい奴と疑われている様子。これ以上は、何を話しても無駄だ。
私「そうですよね。変なことをお尋ねして申し訳ありませんでした。」
軽く会釈して、ホウホウの態で、その女性を背に住宅街の入口の方に向かって歩いて行った。
多分、まだこちらを睨んでいるのだろう、背中に視線を感じる。
やっぱりなぁ、怪しまれるよなぁ。資料館や図書館の人は親切だったよなぁ。だけど地元に住んでいる人にとっては、生活に関わってくる事だから、そうもいかないよなぁ。

住宅街の入り口付近まで来て、そこで河原に降りられる道を見つけたので、河原に降りてみた。
利根川の流れが拡がる。当時も台風が来る前は、こんな穏やかに流れていたのか。それとも、台風のせいで、当時とは流れが変わってしまっているのか。わからない。


しかし、利根川の流れは、今も昔も変わらず、海に向かって流れているのだろう。伯母も海まで行きついたのか。
延々と続く川の流れ。小さな渦が出来ては、消えていく。川底に段差でもあるのだろうか。ある渦は、割と長い間、一定の場所で渦を維持し続けている。それも少し経てば、消えてしまうのだが、直ぐ近くの他の場所にまた新しい渦が生まれる。まるで、襷リレーのように。
CDに付属していた「感想文ノート」の言葉は謎のままだが、父の遺した言葉を検証する術がもう残っていない。真実を今更知ったとしても、詮無い事。言葉の事はそっとしておこう。

川の対岸に、桜の花が満開に咲いているのが望める。私は後何度この桜を眺める事ができるだろうか。いつかは私も流れの向こうに逝くだろう。

眼を足元に向ける。この河原には、白い石が多くやけに目立つ。骨の色の様に白い。更に視線を移すと、ハート形の白い石が眼に留まった。なんともなしに手に取る。そのまま背に負っていたザックのポケットに入れてしまった。
考えてみれば、山田進さんも気の毒だ。折角戦地から生還してきたのに、自然災害に巻き込まれ、伯母共々、川に流された。平和な時代になったとはいえ、日本でも未だに災害は無くならない。世界に目を向ければ、戦火も無くなっていない。
川の流れに向かって軽く手を合わせ、河原を後にした。

河の流れは_15 ーモンパルナスー

まだ何かやり残していることは無いだろうか。そうだ、日高安典さんが、美術学校時代を過ごしたというは東長崎の街に行ってみよう。正確な住所がわからないので、その当時住んでいたというアパートの所在地すら見つけられる様はずもない事はわかっている。
街の風情だけでも見ておこうと考えた。西武池袋線の東長崎駅を降りて、周辺をぶらつく。街は、漫画の聖地になっていた。トキワ荘を中心に昭和30年代から活躍していた漫画家たちが暮らしていた街。街興しの一環なのであろう、豊島区がバックアップして、トキワ荘の一部をそのままに残し、トキワ荘マンガミュージアムなる館が最近建てられたらしい。そのミュージアムを中心に、マンガ家たちが通った店などを復刻させて、街全体の活性化を目指している様だ。
ネットで調べてみると、戦前この地は、芸術家や美大に通う学生達が集う街だったようだ。池袋のモンパルナス。当時美術学校のあった上野は、都会で家賃が高い。当時の池袋界隈は、田舎で家賃も安い。
お金のない芸術家の一人がこの地でアトリエを始めたことから、同じ貧乏画家や苦学生達が集まってきたとある。日高安典さんもその仲間たちの一人だったのだろうか。
そして、今は、戦後の漫画文化を創生した手塚治虫や赤塚不二夫等が集って、漫画を描いていた。
漫画家も絵という作品を創り出す芸術家。この街には、その様なつながりを持たせる何かがあるのだろうか。飛躍のし過ぎだろうか。

去年の夏に、二人目の孫が生まれた。父からみて、ひ孫だ。父が亡くなってから、九か月後。父の生まれかわりの様だ。命の襷リレー。
何時かは、私も父や伯母の元へ逝く。実は私は父よりも先に逝きかけたことが2度ほどある。そのせいか私の死生観は、普通の他の人と違うかもしれない。
だから、私は、両親の死に際して、あまり悲しみを感じない。あぁ、今あそこら辺にいるのかな、お疲れ様、ゆっくりね、とかそういう感情ばかりがわいてくる、悲しみという感情はほとんど湧いて来ない。
傍からみれば、薄情な息子だと思われるだろう。ましてや伯母の事も。ただ、伯母には伯母が生きていたという記録を残しておきたい、と思っている。それがこの記録だ。
人は、この世に生まれてきたからには、必ず意味があると思う。仮に、生まれて直ぐ逝ってしまう命でさえ、必ずこの世に生まれ出てきた意味があるはずだ。
伯母の意味。それに想いが及ぶ。伯母のそれが何かはわからない、当たり前だ。だが、記録だけは残したい。世に知らしめたいという意味ではない、少なくとも我が家の記録として。
利根川の河原で見た桜の光景。私は後何度見ることができるだろうか。毎年この時期になると思う。
いつか、母の事、祖父の事も記してみたいと思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?