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第320回、自分がアダルトチルドレンである事を告白してみた


「あの花(長いわっ!)」の自分の感想を読んだ人の中には、自分の感情がまともでないように感じられた人もいるのではないかと思います。

「こいつは、大学進学者に対する異常な劣等感を、学歴コンプレックスを、抱いているのだろう」と思われたのではないかと思います。

はっきりと言おうと思います。「全く持って、その通り」なのだと。

これまでも何度かしてはいましたが、今回は、これまで以上に、自分語りをさせて頂きたいと思っています。


自分の父親は、高い志を持った、崇高な意志を持つ教育者でした。
母親は、専業主婦ながら、子育てを最大の生きがいにしていた、いわゆる
教育家庭の家だったのです。

自分の家庭にとって、学問、教育こそが、人間、人生の価値の全てであり、大学に行く事は、人生において必須の事でした。

学問が絶対的な価値の親にとって、その道から外れる生き方をする人間は、人間性を含めて完全否定の対象であり、そうした親の機嫌を損ねないように自分もその価値観に従って、子供時代を生きて来ました。

高校受験の際は、親がマンツーマンでつきっきりで勉強も教えていました。
中学時代は、自分が人生で最大に、精神を病んでいた時です。
それこそ、金縛りを100回以上経験する程に。

はたから見たら「お前は、何をわがままな事を言っているのだ。教師の親が勉強を教えてくれるなんて、恵まれた家庭環境じゃないか。お前はただ単にわがままを言っているだけだ」と思われるかもしれません。

実際そうなのかもしれません。自分が親の期待に応えられる人間でさえいれば、何の問題もない家庭だったはずなのです。

しかし自分にそれは、無理な事でした。
自分はこの両親から、どうして生まれて来たのかと思う程、俗物的で下劣な思考を持った人間なのです。

そして自分の考えに反する人間をことごとく下卑する親の思想を、つまりは人間の価値を学問で判断する教育的思想を、心の底から憎んだのです。

自分の精神は、中学の時点で、既に限界まで壊れていました。
高校時には、卒業するのもやっとな程、心を病んでいた状態だったのです。

そんな自分は、親の期待に応える事もなく、大学へは行けませんでしたが、自分にとっては、それはようやく、親の価値観から外れて生きられるようになった、心を解放された瞬間でもあったのです。

しかし10代の間、心をずっと病んで生きて来た人間が、社会に出て適応していける訳もなく、いい年になった今でも、社会不適応者のままでいます。

だから自分にとって、学歴、学問を、人間性の向上の様に描かれる作品は、心が拒絶をするのです。そこに合理的な論理性はないのです。

あの花~の映画に対して、自分が理性的な感情を抱けていないのは、自覚をしています。だから自分の意見が正しいと主張をするつもりはありません。
共感もして貰えなくて、いいと思っています。

ただ自分の感情の裏には、そうした背景がある事を知ってだけ欲しいのだと自分は思うのです。


だったら「映画ドラえもん のび太と空の理想郷」の教育至上主義の思想を、自分が肯定するのは、おかしいのではないかと思われるかもしれませんが、自分は今でも、必ずしも親の考えが、絶対的に間違えているのだとは、思えない気持ちもあるのだと思います。

自分さえ親の価値観に合った生き方ができていれば、自分の家庭は必ずしも酷い環境だとは言えなかったのではないか、という気持ちもあるのです。

実際そういう家庭は、沢山存在しているのだと思います。
だから必ずしも、親が絶対的に悪かった訳ではなく、また自分が悪いのでもなく、自分の親と自分との相性が悪かったのだろうなと思っているのです。

だから子供が自分で望む限りにおいては、必ずしも、学力の向上を学問の道を志す事を、否定する気にはなれない部分もあるのです。

だったら「あの花」も否定する事はないのでは?と思うかもしれませんが、あの映画は「大学に行かないと言っていた自分は、心の未熟な人間でした」という感じになっているのが、自分の心の琴線に触れるのだと思います。
※琴線に触れるは、意図的な誤用をしています。

エヴァンゲリオンは、自分にも思い重なる部分のあるアニメですが、父親と完全決別をしていた
旧劇場版に対して、和解的な要素が含まれていたシン劇場版には、やや複雑な思いがあります。
しかし、エヴァはやはり、シンジと庵野秀明の人生の話であり、自分の事ではないのです。
自分には「みかん絵日記」と「ママは小学4年生」があれば、それで十分なのです。

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