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第297回、最下位だっていいじゃない


まず予め言っておくとこれは別に、慰めの意や精神論の類ではなく、極めて理論的、物理的な話になります。

そして本題に入る前に、自分の子供の頃のエピソードを一つ聞いて欲しいのですが、自分が子供の時に、クラスで「サルカニ合戦」の劇をする事になり自分は成りてのなかった、うんち役を立候補したのですが、これが大人達に他の人の嫌がる役を引き受けてくれた、自己犠牲の精神だと何か妙に称賛をされた事があるのです。

しかし自分からしたら「いや必ず誰かが行う必要のある役なのに、犠牲っておかしいだろ」と、今でも腑に落ちていないのです。

主役だけで成り立つドラマって、この世にあるのでしょうか?
脇役や多くのモブ役の人達がいて、ドラマが成立しているのです。
脇役やモブ役の人達を、観客は何かの犠牲と思って見る物でしょうか?

なくてはならない役ならば、それは犠牲ではなくて、役割なのです。


さてここから本題に入るのですが、競争の世界において、一位と最下位は、必然的に発生をする物理構造現象であり、取り除ける物ではありません。

競争する上で、一位になった人を称賛する裏には、必ず最下位になっている人がいるのです。

最下位になった人は、努力をしなかったからなのでしょうか?
状況にもよるので一概には言えませんが、全員死ぬほど努力をしても、必ず誰かは最下位になるのだから、そんな事はないと思います。

別に誰一人頑張らなくても、必ず誰かは一位になるし、全員物凄く頑張っても、誰かは最下位になるのです。

自分の感覚では、一位と最下位は、細長いベンチの両端の様な物なのです。
必ず左右の両端に座る人が出て来るのに、最下位をまるでダメな人みたいな扱いをするのって、どうなんだろうと感じてしまうのです。

自分は別に、競争なんてするべきでない、順位なんて決めるのを止めるべきと言うつもりはないのですが、競争をする以上は、必然的に一位と最下位が発生する、物理構造を理解してしようねとは言いたいのです。

一位になる人は、称賛をされるだけの意味があるのだとは思っていますが、その構造を理解せずに、最下位を下卑する事は、競争をする心の資格がない様に、自分は思ってしまうのです。

※優勝を目指している人が、それが叶わない自分の努力不足を下卑する分には、何ら問題はないとは思うのですが、他人を下卑したり、自分が最下位になる事を受け入れられない事は、違和感を抱くという意味の話になります。

競争や勝負はサイコロと同じで、自分が最下位になる可能性も必ずあるのでその可能性を受け入れられない人は、サイコロを振る資格がないのです。

普通のトレーニング画像と思いきや、トイレの呪文を消し忘れていた、うっかり生成画像です。

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